Ⅲ.イヴの目覚め
大鴉の羽ばたきが頬を叩いた。
薔薇の枝が揺れて、雪のヴェールが滑り落ちる。息を呑んで周囲を見回すと、庭にはぼくの他にはだれもいなかった。
……白昼夢を見ていたのだろうか?
ぶるりと背筋を震えが伝う。白ばかりの景色にぽつんと落ちた染みのような黒い羽根を見つけた瞬間、心臓がいやな音を立てて跳ね上がった。
茂みに引っかかっているそれへおそるおそる手を伸ばすと、ぼくを呼ぶ神父様の声が近づいてきた。
とっさに羽根をむしり取ると、指先に鋭い痛みが走った。掴んだ羽根ごと手を
いつもなら花を傷つけないよう注意を払うのに、そのときのぼくに余裕などなかった。見慣れた黒い法衣を目にした瞬間、膝から力が抜けた。
もつれるように体勢が崩れる。とっさに目を瞑ると、麝香の匂いにふわりと包みこまれた。
「……大丈夫ですか?」
すぐ頭上から、やわらかな低音が落ちてきた。息を詰まらせて顔を上げると、かすかに眉をひそめた神父様がぼくを見つめている。
「どうしたのですか、スーリ。顔が真っ青ですよ」
「あ、あの……」
舌が痺れたように言葉が出てこない。羽根を隠しに入れたまま手だけ取り出すと、指先から血が滴り落ちていた。
みどり色の瞳がぱちりと瞬く。
「薔薇の棘が刺さったのですか?」
「は、花を摘もうとして、引っかかってしまって。お、驚いたんです」
とっさに取り繕うと、神父様は表情を曇らせた。薔薇を愛で、神への祈りのしるしを刻み、古い
雛罌粟色のくちびるがそっとほどかれ、おそろしいほどゆっくりした速度でぼくの指に吸いついた。
「し、しんぷ、さま」
神父様のくちびるは柔かった。
指の腹を、ぬるりとしたものが這う。傷口に染みる粘膜の熱。
たまらず悲鳴を上げると、くろぐろとした睫毛がパッと上向いた。
みどり色の瞳の奥で炎のように揺らめく影がある。そこに映りこむ赤毛の子どもは、怯えきった表情で凍りついていた。
何かに気づいた様子で、神父様が目を見開いた。薄いくちびるが離れると、うっすら赤い水の糸がつうとぼくの指先から伸びた。
それがぷつりと切れた瞬間、ぼくは頬を殴られたような衝撃に襲われた。
自分を抱きしめている腕がひどく生々しく、華奢なようで男性らしい筋肉の張りがあるものだという事実に打ちのめされた。そればかりか、夜の礼拝堂にこもる香りが迫ってきて、眩暈と息苦しさに喘いだ。
「スーリ?」
法衣に縋りついて首を横に振ると、数秒の間を置いて抱き上げられた。
「……きっと体を冷えてしまったのですね。蜂蜜と生姜を入れたホットミルクを作りますから、それを飲んで、今日は横になっていなさい」
やさしい声は、芝居の台詞を読み上げているかのようにどこかぎこちない。ぼくはくすんと鼻を鳴らし、「はい」と頷いた。
その朝の出来事は、神父様とぼくの間でなかったことになった。
冬至の祝祭には地獄の門が開き、悪霊や魔物が地上へやってくるという。あれは、きっと神父様の美しさを妬んだ悪魔がいたずらしたに違いない。黒い外套の男も、不気味な大鴉も、悪魔の見せたまやかしなのだ――ぼくは自分に言い聞かせた。
太陽が生まれ変わる祭礼の期間、夜の礼拝堂が開かれることはなかった。ぼくは安らぎを噛みしめ、少しでも祝祭の終わりが遠退くように祈った。
その晩、ぼくはあたたかな暖炉のそばで乾燥させた
教会には小さいながらも菜園や薬草園があり、くさぐさの香草も神父様が手塩にかけて育てたものだ。パセリ、セージ、タイム、ローズマリー。青々としたラベンダーの花束を解きほぐしていると、大きな紙包みを抱えた神父様がいらっしゃった。
「スーリ。こちらへいらっしゃい」
秘め事をささやくような声に心臓が震えた。
暖炉の火が闇をくり貫いて、あかがね色の光にぼくと神父さまの影絵を揺らめかせている。火明かりを映して艶めくみどり色の瞳に、ぼくは絞首台に上がる囚人の気持ちで立ち上がった。
こわごわと神父様の前に立つと、彼は紙包みを卓に置いた。
「これを、あなたに」
「えっ……」
神父様は薄く笑んだ。「冬至の祝祭の贈りものですよ」
冬至の祝祭には、家族や恋人といった大切な相手に贈りものをする慣習がある。ぼくにも、ほんの幼いころ、母から新しい靴を貰った思い出があった。たったいちどきりの、幸福な記憶。
胸の奥が茨の棘で刺されたように痛んだ。神父様はぼくの感傷などには気づいていない様子で、「開けてごらんなさい」とやさしく促した。
固く巻かれた麻の紐をほどき、黄ばんだ油紙の包みを開くと、ふわりと虫除けの香草の匂いが広がった。
「……ドレス?」
紙包みの中身は、子ども用のドレスだった。襟の詰まった古風な意匠で、白い絹の上に繊細な
ドレスの下には、真珠色に輝く小さな靴が踵を揃えて並んでいた。
「古いですが、腕のいい職人が仕立てたものです。きっと、今のあなたによく似合う」
「こんな……こんなきれいドレス、わたしなんかに、もったいないです」
「私があなたに着てもらいたいのですよ、スーリ」
なんともずるい言い回しだ。わたしはおそるおそるドレスを手に取り、神父様を見上げた。
美しい
「せっかくですから、着てもらえませんか?」
ぼくはドレスを抱きしめ、うなだれた。
「……わかりました」
ドレスと靴を抱えて自室へ向かう。お仕着せと編み上げ靴を脱いで、
母とともに暮らしていたころよりも全体的に肉がつき、痩せこけていた顔も少女らしくふっくらとしてきた。あいかわらず肌は白く、目が覚めるような赤毛との対比はぞくりとする。
――ここにいるのは、生きながら母に殺されていた、憐れな子どもではない。
「『ぼく』は死んだんだ」
褪紅色の瞳を睨みつけ、ドレスの袖に腕を通す。
ドレスも靴も、あつらえたようにぴったりだった。髪飾りなんて持っていないから、せめてもと髪に櫛を通して整える。
真っ白なドレスに赤い髪を垂らした少女は、まるで花嫁のよう。
「『わたし』は、スーリよ」
鏡の中の過去に背を向け、神父様が待つ部屋へ戻った。
神父様は暖炉のそばの椅子に座り、組んだ足の上に頬杖を突いていた。いつになく珍しい姿勢の、火明かりに照らされた横顔のしどけなさに、ぼくは扉を開けたまま立ち竦んでしまった。
「……あぁ」
ぼくの視線に気づいた神父様が振り向き、うっすら笑みを浮かべた。
「近くへ来て、よく見せてください」
やさしく差しのべられた手に唾を飲み、履き慣れない靴で部屋の中へ踏み入れる。神父様の指先が届くか否かという距離で立ち止まり、ぼくは腹の前で両手を握りこんだ。
「あの……お、おかしくありませんか?」
みどり色の瞳をまっすぐを見ることができず俯きがちに尋ねると、神父様は喉を鳴らし、羽根でくすぐるような笑い声をした。
「いいえ。思ったとおり……いや、思っていたよりもずっと可憐だ」
とうてい言われたことのない称賛にびっくりして顔を上げると、神父様は雌猫のように目を細めた。
「もっとそばへ来て」
吸い寄せられるようにふらふらと近づくと、黒い腕に抱き上げられた。
「……!?」
膝の上に乗せられて硬直していると、神父様は楽しそうにぼくの髪を撫ではじめた。吐息まじりの笑声が耳朶を掠め、背骨を痺れにも似た震えが這い上がる。
「あなたは本当に愛らしいですね」
「しっ、神父様?」
「まるで天使が舞い降りたのかと思いました」
長い指が風琴の鍵盤の上で飛び跳ねるときのように頬をくすぐり、流れた髪を耳の後ろまで掻き上げた。麝香の匂いに眩暈がする。
耳の先まで熱い。目を逸らすこともできずにいると、神父様が「そういえば、まだスーリから贈りものを貰っていませんね」と呟いた。
「あ……」
神父様への贈りものなんて用意していない。蒼白になったぼくへ、神父様は甘やかに微笑んだ。
「かわいらしい天使から、祝福をいただけませんか?」
聖職者ではないぼくに祝福の授け方なんてわかるはずもない。と、なれば――引いた熱がたちまち跳ね上がった。
ぱちん、と薪が爆ぜた。
「…………目を、瞑ってください」
もごもごとお願いすると、神父様は笑顔のまま目を閉じた。
白く滑らかな瞼に薄青く血脈が透けている。おそろしいような、抗いがたい衝動を堪えているような、打ち震えるばかりの気持ちで、あかがね色の火影が頬紅となって縁取るかんばせに手を添えた。
形のいい眉にかかる前髪を掻き上げ、あらわになった額へ、そっとくちびるで触れた。
パッと離れると、神父様はしばらく両目を閉じていた。ぼくの心臓の音、薪の爆ぜる音だけが聞こえる。
かすかに吐息を震わせ、神父様がふわりと瞼を開いた。雨に洗われた若葉のように無垢な瞳がぼくを映して、綻んだ。
その、瞬間。真っ白な雷に打たれたような、目には見えない天の矢に射抜かれたような、強烈な感覚に襲われた。
神よ、とぼくは声にならない悲鳴を上げた。
おぞましいほどに罪深い、それは恋のはじまりだった。
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