薔薇の下

冬野 暉

Ⅰ.白薔薇の天使

 街のだれからも忘れ去られたような古い教会の庭には白薔薇が咲いていた。

 ひと口に白薔薇といっても呆れるほどの品種があり、色合いや花弁の形状、香りにまで違いがある。しかし、幼いぼくの目にはどれも同じ花に映り、不変の象徴のように純白の薔薇に溢れるそこは不思議の庭だった。

 庭の主は、教会をひとりで切り盛りする神父様だった。

 まだ年若く、しかし聖職者にはよくある老成した思慮深さをみどりの瞳に湛えていた。黒い法衣カソックに包まれた痩身が花園に佇む後ろ姿は、侵しがたい静寂と、淫靡な切なさとともにぼくの心に焼きついた。

 かれの姿を盗み見ようと、毎日のように教会に通った。いじめられっ子だったぼくにとって、おそろしい暴君たちが寄りつかない教会は数少ない安息の場だった。庭を囲む瀟洒な黒塗りの鉄柵から溢れるように茂った緑の陰にうずくまり、葉群の隙間からじっと神父様を観察していた。

 しかし、どんなに焦がれようと、けして鉄柵の内側へ入ることはできなかった。

 教会の門は常に広く開け放たれていたが、ぼくが知る限りそこをくぐった者はいない。だれもがこの街に教会などありはしないかのようにふるまい、もしもうっかり視界に捉えてしまったら、苦いものを噛み潰したように顔をしかめるか、あるいは忌々しげに舌打ちをするかのどちらかだった。

 ぼくの母もそうした街の大人の一員だった。いや、あるいはだれよりもその存在を厭い、憎悪していたかもしれない。

 はじめて白薔薇の咲く庭を、そこを治める神父様のことを知った日、自分の見た美しい光景のすばらしさを伝えようとしたぼくを、母は激しく打ち据えた。何度も何度も、泣きながら謝罪をくり返す僕を悪魔のような顔で叩き続けた。

「やはりおまえはあの男の子どもだ! おぞましい悪魔に魅入られた、汚らわしい子!」

 母が発作的に暴力を振るうことは時折あったが、そのときの狂乱ぶりはかつてないほど凄まじかった。とうとう腫れ上がったくちびるが切れて血が滲むころ、母はようやく正気を取り戻して泣き崩れた。

 さんざん痛めつけたあと、子どものように咽び泣きながらぼくを抱えて詫びるのもいつものことだった。ぐしゃぐしゃにもつれた麦藁色の巻き毛を撫で梳き、眼窩のまわりに浮かぶ痣に接吻をし、譫言のようにぼくの名前を呼んで頬擦りをくり返す。 

「どうか母さんを許してちょうだい。おまえだけはどこにも行かないで、あたしの坊や」

 母はひどく不安定なひとだった。その原因はぼくの父親――結婚を約束していた男に裏切られた昔日にあるのだということは、臭い煙のように絶えない噂話が教えてくれた。

 ぼくが生まれ育った街には前時代的な考え方が根強く残っており、同性同士や婚前の男女の情交は悪しきものとされていた。恋人に捨てられ、父親のいない私生児を産んだ母に対する風当たりは、精神を病まずにはいられぬほど冷たかった。

「なかないで、かあさん……」

 骨張った母の背を抱き返すたび、目の前に泥深い淵のような絶望が広がった。

 ――母がぼくに与えたのは、父親である男の名前だった。

 その意味するところを理解したとき、ぼくという人間の居場所はどこにもないのだと知った。

 棘の潜む薔薇の茂みの下だけが何もおそれる必要のない聖域だった。

 いつしか汚れなき白薔薇の庭の主は、ぼくの唯一の救いになっていった。耐えがたい苦しみに溺れそうになるたび、美しいみどりの瞳を持つ天使の足元に額ずいて赦しを乞う夢想に縋った。

 世界が一変したのは、十歳の誕生日。

 夏だというのに凍みるような雨が降っていた。

 ぼくはあちこち焼き鏝を押しつけられたみたいに痛む体を引きずり、路地裏を歩いていた。

 靴磨きで稼いだ小銭を暴君たちに巻き上げられた挙句、好き放題に蹂躙されたあとだった。履きものもなくした両足に絡みつく泥は冷たく、雨垂れは氷の針になって傷口を刺す。何度もえずき、血と吐瀉物の臭いを雨が洗い流してくれることだけが幸運だった。

 気づくと、灰色の薄闇に白薔薇の庭がしらじらと浮かび上がっていた。

 開け放たれた教会の門を目にした瞬間、抗いがたい衝動に促されるまま駆けだしていた。泥を蹴散らし、ぼくは鉄柵の内側に飛びこんだ。

 降りしきる雨にも打ち消せぬ、焼きつくような薔薇の香りに眩暈がした。

 ふらふらと花園に踏み入ったぼくは、ひと際鮮やかな芳香を放つ薔薇の茂みの根元に倒れこんだ。

 たわわに咲きこぼれる、貴婦人が持つシルク手巾ハンカチーフのような花弁が折り重なった大輪の花。深く息を吸いこむと涙が溢れた。

 目が覚めると、清潔な敷布の上に横たわっていた。

 頭の芯が痺れたような、ふわふわとした感覚。なんとか動かせる視線をめぐらせると、煉瓦造りの小部屋だとわかった。

 ぼくが寝かされている寝台ベッドと質素な衣装箪笥チェストがひとつあるだけ。寝台の枕元には壁をくり貫いたような掃き出し窓があり、小さな燭台が置かれている。

 窓硝子の向こうには闇が広がっていた。

 とっさに覚えたのは、母に手ひどく折檻されるという恐怖だった。

 何が起ころうと日没までに帰らなければ、怒り狂った母という嵐に襲われる。途端に激痛が全身を走り、ぼくは苦鳴を上げた。

 木製の扉が静かに開いた。

 揺らめく灯りが天鵞絨色の短髪と雪花石膏アラバスタの額が濡らす。みどりの瞳が瞬き、雛罌粟の花のようなくちびるが綻んだ。

「――よかった。意識が戻ったのですね」

 朝の光みたいに透きとおったテノールだった。

 茫然とするぼくの顔を覗きこみ、白薔薇の庭の主は柔和に微笑んだ。

「二日間も高熱に魘されていたのですよ。ようやく薬が効いたようで安心しました」

「……ここ、は」

「教会の中ですよ、お嬢さんメイデン

 神父様は窓辺に凭れるように腰かけると、汗で張りついた前髪をやさしく払ってくれた。

 法衣の袖口から麝香ムスクの甘い匂いがふわりとこぼれる。

「いつも茂みの陰から庭を覗き見していたのは、あなたですね。薔薇輝石のような褪紅色オールドローズの瞳が珍しくて、よく憶えています」

 目元に触れる指先に、心臓に爪を立てられた錯覚を抱いた。呼吸が激しく乱れる。

「ご、ごめ、ごめんなさ……」

「ああ、誤解しないでくださいね。責めているわけではありませんよ」

 神父様はかすかに苦笑した。

「あの庭を私以外に愛でてくださる方がいてくれたことが、嬉くて。いつか、あなたが茂みの陰から出てきてくれればいいと……こんなことになるのであれば、もっと早く声をかけていればよかった」

 白皙のかんばせが翳る。注がれるまなざしは後悔と労りに満ちていた。

 喉の奥から熱の塊がせり上がる。

 はじめて『ぼく』を見つめる眸を感じた。

 父親と同じ名前で呼ばれ、髪を伸ばすことを許してもらえず、母親に息子として扱われる孤独な少女がみどりの瞳に映っていた。

「失礼ですが、あなたが女性であることを周囲の方々は?」

 ぼくはしゃくり上げながら首を横に振った。

「かあさ……母しか、知りません。みんな、ぼくたちに関わりたがらないから……」

「……では、都合がいいですね」

 長くほっそりした指が頬をくすぐる。神父様は誘惑する悪魔のようにささやいた。

「今日から教会ここで暮らしなさい、スーリ」

「スーリ……?」

「異国の古語で『紅薔薇』という意味ですよ」

 ぼくの瞳を覗きこみ、神父は微笑んだ。

「あなたは異人の血が混じった孤児で、たまたま流れ着いたこの街で私が保護した――ということにしましょう。髪を伸ばして染め粉で色を変えれば、印象も違う」

 夢ではないかと思った。

 本当のぼくは路地裏の隅でとっくに冷たくなっていて、明日には掃除夫によってネズミの死骸や汚物と一緒に片付けられてしまうのかもしれない。最後の最後に憐れんだ神様が、ひとときの幻想を見せてくだすっているのかもしれない。

 それでもいい。

 驚きのあまり止まっていた涙がひと粒、ぽろりとこぼれ落ちる。優しく頬を拭う指先に、ぼくは震える喉をこじ開けた。

「……助けてください」

 法衣の袖を両手で握り、救い主の手に額をこすりつけた。

「お願いします。どうかあなただけは、ぼくを、見捨てないで……」

 再び溢れた涙に声を詰まらせていると、温い光のような声が「スーリ」と呼んだ。

 ぼくを。

「あなたが求めるのならば、いくらでも」

 促されるまま顔を上げると、滲んだ視界にみどりの瞳が鮮やかに浮かび上がった。

 白薔薇のごとく汚れなき、ぼくだけの天使がそこにいた。


 十歳の誕生日、こうしてぼくは死に――二度目の生を享けた。

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