第121話120.ノヴァゼムーリャの領主 4

「で? 今朝がた華燭の典を挙げられたばかりの婿殿は、一体どちらにおられるのですか?」

 シザーラは抜け目なく方々を観察し終えてレーニエに向き直った。彼女は式には列席はできなかったが、心からの祝いの品を持ってその日の午後遅く、瑠璃宮に参上することを許されたのである。

「あ〜そのぅ、ヨシュアは仕事に戻られて……どうしても緊急に連絡が必要な件があるとのことで。でも時間はとらないという事だったから、おそらく夕食後にはこちらに戻ると思う」

「まぁっ! 夕食後ですって!? 新婚の初めての晩餐をお二人で召し上がらないというのですか?」

「それはだって……仕方がない。彼は忙しいのだから」

「レーニエ様は物分かりが良すぎますわ。女王陛下が治められる文明国エルファランの直系の王女なのですから、もっと我儘を言ってよろしいのでは? なんでしたら私が軍部にひとっ走り行って来て文句の一つも……」

「や、それはそうされない方がいい、と思う」

 レーニエは椅子を蹴倒さんばかりのシザーラの剣幕にたじたじとなりながらも、きっぱりとその好意を辞した。

「それにね、私は今でも十分我儘なのだ」

「レーニエ様が我儘? あのぅ〜、失礼ながら我儘がどういうものかご存じ?」

「無論それぐらい知っている。昔ヨシュアに我儘も大概にしろと叱られたこともあるくらいだもの」

 それは、ノヴァゼムーリャで初めて迎えた冬の事。吹雪の中、行方知れずになったフェルディナンドを探しに行こうとした時、生れてはじめて厳しく叱責された。

 その時の事をレーニエは懐かしく思い出す。あの夜ファイザルから初めての口づけを受けたのだった。

「あらびっくり。そんな事が? これはぜひとも詳しくお伺いしたいですわ……後学の為にも」

「シザーラ殿、目が怖いよ。それに後学って、シザーラ殿とアラメイン殿との方がずっと長いお知り合いではないか」

「それはそうですけれど、私たちは子供のころからのつき合いですから今更感がありますし。それにファイザル様はずっとお年上だし、逞しい軍人だし、そのぅ〜、どういう風に愛を育まれたのか、私大変興味がありますの」

「あいをはぐく……?」

「ええ! あの方はどんな風にレーニエ様に愛を語られますの? そのぅ……寝間での事ですとか。それを聞かないうちは国に帰れませんわ」

「し、シザーラ殿。シザーラ殿は確か」

 平和条約締結と学問の為にこの国に来ているのではなかったか? と思いつつ、結局はシザーラの巧みな誘導尋問に敵うはずもなく、レーニエはいろいろと白状させられる。

 もっとも、レーニエの持つ経験も知識もはなはだ心もとないものであったから、シザーラはその話の大部分を想像で補填せざるを得なかった。

「ん、まぁ……それは情熱的ですわねぇ。あの方のご様子を見たら大体は分かりますけれどもね」

「ヨシュアは大層手先が器用なのだ。トゥーレの腕前には驚かせられた」

「ふぅ〜ん。それで、楽器をレーニエ様に持ち替えて、妙なる調べを奏でられた、という訳でございますね」

「うん、なんでも昔、自分で習得したらしくて。大変お上手なのだ」

 微妙に話の噛み合っていない娘たちだが、お互い楽しんではいるようである。

「それで、いつご領地に帰られますの?」

「そうだなぁ。後、フェルの学校を見たり、叔父上の御子たちともう少し親しくなってから。でも、夏の終わりには多分。遅くとも秋の収穫期までには戻りたい。皆忙しくなるだろうから、また子どもたちを屋敷で預からないと」

「レーニエ様は本当に子どもがお好きなのですわね」

「好き。柔らかくて可愛いもの。赤子は特に」

「ご自分のお子は男女どちらがいいんですの?」

 再び好奇心満々でシザーラは尋ねた。

「そんな、いつ出来るかも分からないのに。まぁ、どっちでもいいけど……あ、でもヨシュアそっくりの男の子ならすごく嬉しい」

「まぁ。ファイザル様はきっとレーニエ様そっくりの女の子を切望されると思いますわ」

「そうかな」

「間違いなくそうですわよ。それで絶対嫁に出さないとか言い張りますの」

「へぇ〜、そんな事まで分かるのか。シザーラ殿はやはり慧眼けいがんだなぁ」

 自分が嫁になったばかりで、まだあまり実感のないレーニエは、生まれてもいない子供の先行きまで見てきたように予言するシザーラにしきりに感心する。

「どちらにしてもレーニエ様のお子ならばさぞお美しいのでしょうねぇ。見てみたいわぁ」

「うん、そうなったら是非。というか、シザーラ殿がこの国にいらっしゃるうちにノヴァゼムーリャの地に来ればよい。ノヴァの秋は非常に美しくてね。ぜひ見てもらいたい」

「ええ、お許しが出さえすればぜひそうさせてくださいましね。実はレーニエ様が都を去られると伺って大変寂しかったのです。北の国かぁ……とても行ってみたいですわ」

「きっと母上にお願いしてみよう。そうなったらいいな。ノヴァの美しいところにシザーラ殿を案内して差し上げたい」

 レーニエは夢見るように呟く。その瞳には北の領地の風景が映っているのだろうとシザーラは思った。

 その夜、晩餐の直前まで娘たちは親しく語り合って親交を深めた。この後、国境を越えた二人の友情は長く続くことになる。


      ***


「ねぇ、オリイや? こうして娘はめでたく片付いたという訳ですが、なかなか複雑な心境ですねぇ」

 幸福な一日の後には幸福な夜がやって来るものである。その夜、部屋着に着かえた女王は、元彼女の女官であったオリイにしみじみと呟いた。

 新婚の二人は今頃この夜をどう過ごしているだろうかねぇ?

「左様でございますか」

「何を澄ましているのです。そなただってまだ片付いていない娘と息子が二人もいるではありませんか」

 オリイが注ぐ緋色の酒を眺めて呆れたように女王は言い返す。二人は古くからの友人でもあった。卓には二つの杯が用意されていた。

 技術の粋を凝らして造り上げられた優美な杯に酒が満たされると女王は杯を取った。

「二人の未来に」

 お互いの目を見つめてかざした杯を少し傾け、二人は酒を乾した。

「はぁ、ですが、娘の方はもう大体決まっているでしょうし、息子の方はねぇ……ヘタをすれば生涯独身かもしれませんわ」

 オリイは愉快そうに言った。

「なぜわかります、そんなこと。あの子はまだ十五歳くらいでしょうに」

「確かに年齢はそうですが、フェルディナンドはもう立派な大人でございます。親馬鹿でなくそう思いますの。誰よりすばらしい方に早く出会いすぎてしまったのが、あの子の不幸と言えましょう。親としては不憫ですが致し方ないとも。自分の人生ですから。あの子自身が切り開いてゆくことでしょう。親としては見守るだけですわ」

「なるほどね。そなたは相変わらず強い」

「滅相もない。陛下にそんな事を言われると汗が流れてしまいます」

「ふふふ、私は良き友を持ちました。今までもそなたからいろいろ教えてもらう事は多かったですが。オリイや、これからも娘を頼みます。私の代わりにあの子の相談相手になってやっておくれ。セバストも、無論」

 都を離れられぬ女王は無念そうである。

「承知いたしました。身に余るお言葉でございます。こう申し上げては不遜ながら、レーニエ様の事は既に我が子も同然の思いでお仕えさせていただいております。私はこの役目を賜って以来ずっと幸せでございました」

「勝手なものです。長い間、少し無理をすれば会えたのに会いに行ってもやらず、母親らしいことは何もせずにいたくせに、いざ手放すとなるとこんなに寂しい。レスターはさぞ呆れていることでしょうよ」

「陛下、陛下はいつもレーニエ様を守る最善の方法を考えておいででした」

「ありがとう、オリイ。そなたらのおかげで、あの子はあのような良い子に育ったのです。これからも私に代わってあの子の親代わりになってください」

「はい。心をこめてお仕えいたします。ですが、きっともう大丈夫ですよ。レーニエ様にはもうファイザル様がついておいでです。陛下がお案じ召されるような事は何もありますまい。お二人はお互いの為に生れ、出会うべくして出会ったのですわ」

「そう思いますか?」

「はい。今更こんなことを申してもなんですが、私にはレーニエ様があの北の地に参ったそもそも最初の日から、こうなる事が分かっていたような気がいたしますよ」

 

     ***


「そんなにおきれいだったのですか?」

「そぅよぅ〜、まったくこの世の物とは思えないくらいお美しい花嫁姿で……古風だけどすごく上品で、まるで夢の国の天使か妖精のようだった……」

 サリアは花を付けた蔓草を這わせたアーチの下で、夢見るようにふわりと回った。その瞳は目の前にいるジャヌーを映してなどいない。しかし石でできたベンチに腰掛けた青年は好もしそうにその様子を眺めている。

 瑠璃宮付属の庭園。典雅な彫刻を施した噴水の調べは、夏の夜の濃密な空気を涼しげにかき混ぜる。

「うわぁ、ただでさえお綺麗なレーニエさまがそんなに? 俺も見たかったなぁ。それに花婿姿の将軍閣下も」

「ああ、あの方も結構ご立派だったわよ」

 こちらの感想はごくあっさりしている。

「でもレーニエ様に首飾りを贈られていたわ。ご自分の瞳と同じ色の石の入った。きっとアレね、いつもレーニエ様に自分を感じていて欲しかったのよ、ファイザル様は。なんってロマンティック!」

 サリアは蔓草の絡まる螺旋模様の円柱を抱きしめてジタバタしている。

「へぇ〜あの人が首飾りをねぇ。ご自分で選ばれたのかな?」

「さぁ〜自分で聞いてみなさいよ。それはそうと」

「何?」

「ファイザル様ってお金持なの? あの首飾りは私が見ても、とても立派なものだったの。でもあまり大袈裟すぎず、繊細な銀細工で」

 漸く落ち着いてきたのか、サリアは実際的な質問をしてジャヌーの横にすとんと腰をおろした。

「さぁ……でも、命を張って長く最前線にいた人ですから、きっとそれなりのものはお持ちかと。地位もあるし。俺だって、ここ一年の給料はびっくりするくらいだったし。でもそうか、俺もサリアさんに何か贈るといいんだな。すみません、あまりそういう事に気がつかなくて」

「あら?」

 ちら、とサリアは横目で金髪の青年を見たが、ここで何かを強請るのも興ざめだと思い直した。

「私は今はいいわ。とにかく花嫁となられたレーニエ様が落ち着くまでは……ああ、それにしても美しいお式だったわぁ。宮廷中の皆に見せびらかしたかったくらい」

「羨ましいです。俺も出たかったな」

 しょんぼりした様子でジャヌーは広い肩を落としたが、この明るい青年はそれほど酷く落ち込んでいる訳でもなかった。

「あ、ごめんなさい。私ばっかり感動しちゃって。でもだってさ、女王陛下の私邸でのごくわずかな関係者のみのお式だったんですもの。私だって参列できたのが奇跡のようだったのよ」

「はぁ」

「だけど、酷いじゃない! ファイザル様ったら、婚儀と女王陛下主催のささやかな宴に出られたあとは直ぐにお仕事に戻ってしまわれたのよ? レーニエさまは笑ってお見送りになっていたけれど。お可哀そうに……きっと今頃お寂しい思いをしてらっしゃるわ」

 実際はそれほどでもなかったのだが。

「ああ、南部から早馬が来たって言ってたっけ? いや、ご心配なさる事はありません。ウルフィオーレの新しい市長から駐屯軍についての問い合わせがあっただけで。俺も居合わせたんですが、ちょっとめんどくさいですけど、大した事ではないはずです。仕方がないですよ。今やファイザル閣下は全軍の要ですから」

「それでジャヌー、あなたはこれからどうするの?」

「どうするって何がですか?」

「何がじゃないわ。あなただって手柄を立てて少尉に出世したのでしょ? これからは部下を持つ身分だわ」

「ああ、まぁそうですけど……でもあんまり実感ないです。とりあえず閣下にくっついて、ノヴァへ帰ります」

「そうなの?」

 そう答えたサリアの声には喜びが隠し切れていない。

「ええ、俺だってあの土地が好きですし」

「だけど、実家には帰らないの? 御両親に報告とかした方がいいんじゃない?」

「そりゃいつかは。だけど、当分はサリアのように、レーニエ様とファイザル将軍がすっかり落ち着かれるまでお傍でお仕えしたいです」

「私と同じね」

「はい。それに俺の実家は東部にありますから、ノヴァからそんなに遠くないし、家は兄弟達が立派に引き継いでいるし……そうだ、いつか一緒に行きませんか? のんびりしたいいところですよ、ノヴァと変わりないくらい田舎ですけど」

「まぁ、私を誘ってくれているの?」

 驚いた振りを見せてサリアが目を見張った。瞳に星が宿っている。

「ていうか、一応申し込んでいるつもりなんですけど」

「何を?」

 サリアは充分ジャヌーの意図を認識していながら、愛嬌たっぷりにしらばっくれて見せた。

「あ〜その……いつか俺達も今日のお二人の様になれたらなあって……まぁ思っただけで。も、勿論、サリアさんがお嫌じゃなければですけど」

「サリアでしょ?」

「あ、そうだった、サリア」

「……」

「ダメですか?」

「そうじゃなくてね、ちゃんと言いなさいよ。言いたい事があるんなら。私何か勘違いをしているかもしれないし」

「わかりました」

 ジャヌーはしばらく躊躇う様子を見せたが、直ぐに大きな笑顔を見せた。徐に立ち上がると、ベンチに腰掛けているサリアの前で片膝をついて手を取る。

「サリア。いつか俺と結婚してください」

「いいわよ」

「えっ! 本当ですか?」

 あまりにあっさりした対応に、曲がりなりにも緊張していたジャヌーは拍子抜けしたように眉を下げた。しかし、たちまち喜びの方が勝り、サリアの両手を握りしめて額を付ける。

「よかった! 俺、きっとがんばってサリアさ、サリアを幸せにしますよ」

「ありがとうジャヌー。本当言うとね、とても嬉しいの。だけどごめんね、私は一生レーニエ様にお仕えするつもりだけど、それでもいいの?」

「それは勿論それで構いません。だって俺は一途にレーニエ様にお仕えされるサリアさんに惚れたんですから」

 夏の空のように明るい青い瞳が鳶色の大きな瞳を覗きこむ。そこには紛れもなくお互いが映っていた。

「ふふ、わかっていてよ」

 そう言うと勢いよく広い胸に身を投げかける。ジャヌーはその体をしっかりと受け止めた。

「それに俺にだって、レーニエ様は特別な方です。あ、ヘンな意味ではなく、純粋に臣下として。確かに以前は恋に似た感情を持っていた時もありましたが……」

「それもわかっているわ。誰だって私のレーニエ様には恋するのよ」

「今だけ俺を見てもらえると嬉しいんですけど」

 ジャヌーは腕にそっと力を込める。噴水の音がやけに響いた。

「ジャヌー?」

「はい?」

「あなたに敬語を使うなって言ったってもう無駄のようだからはっきり言うけど」

 サリアは逞しい胸を両手で押し返して顔を上げた。可愛い眉が悪戯っぽく上がっている。ジャヌーは素直に腕を緩めた。

「あ、ほんとだ。で、なんですか?」

「今ならキスしてもいいわ?」

「本当ですか? 実は俺も今頼もうと思ってたんですよ」

 

     ***


 その夜、ファイザルがレーニエの部屋に戻ったのは遅い初夏の宵がすっかり暮れた頃であった。

 一刻ほど前まで居座っていたシザーラは、さすがに無粋だと感じたのか、明日また来ると固く言い残して瑠璃宮を辞していた。

「ただ今戻りました」

 近従が手伝おうとするのを断り、自分で上着を脱ぎながらファイザルは、この朝自分の妻になったばかりのレーニエを見た。

 彼女は既に部屋着に着替えており、夜気から素肌を隠すように薄いガウンをはおっていたが、胸元で結わえていないそれが薄い肩から滑り落ちるのをものともせず、彼に抱きついた。

「お帰りなさい!」

「遅くなって申し訳ありません。このような日に」

 彼はふんわり体を包み込みながら、風呂上がりなのだろう、ほんのり濡れた芳しい髪に鼻を埋めた。この瞬間の為に今まで書類と格闘していたのだ。

「いいの」

 漸く逞しい首に回した腕を緩め、顔を上げると次の瞬間には唇が被さる。ぴったりと体が合わさり、微かに揺れた。

 サリアには休みを与えてあるし、気の利く近従はとっくに部屋からいなくなっている。開け放した窓から夏の夜気がさやさやと忍び込むだけであった。

「ヨシュア、食事は?」

「庁舎で済ませました。あなたを前にゆっくり食事など摂る自信がなかったもので」

 彼は唇が触れ合う距離しか離れずにそう言うと、再び妻の体を抱きしめた。贈られた宝石類は身につけていない。元々身を飾ることに熱心ではない彼女の事だから、どこかに仕舞ってあるのだろう。愛らしい谷間を覗くにはその方が都合がいい。

「レナ、俺にはまだ信じられない。あなたが今朝がた俺の妻になっただなんて」

「……?」

 どぉして? と言うように腕の中の娘が首を傾げる。彼は愛しげにその顔を見下ろしたが、その瞳は真剣だった。

「一生家庭など持たない、持ってはいけないと思っていたから」

「だけど私たちはもう家族だ」

「ええ、でも、だからこそわかったことがある。俺がこの手で殺めてきた人間にも家族がいたのだ。愛する者を奪われた人達が俺を許すだろうか? 俺なら許さない。もしあなたを奪われたとして」

 その先は考えるのも嫌だというように彼は言い止み、心配そうに自分を見つめているレーニエの額に軽く唇を落とす。

「いや、すみません。今日のような日に言う事ではありませんでした」

「ねぇヨシュア?」

「なんですか?」

「あの……よければ、そんな他人行儀な言葉づかいはよして欲しいのだけど。私はあなたのつ……妻になったのだから」

「……」

「確かに私は母上の娘だけれど、私は私なんだもの。ね? ヨシュア?」

「敵わないな。ええ、俺としては初めて会ったときからこうだから特に|畏(かしこ)まっているとかいう気はないんだけれども。まぁ努力はしましょう」

「ん。だから、私には何でも話して欲しい。あなたの苦しみも哀しみも。罪というなら罪の事も」

「レナ……」

「あなたが国のためにしてきた事が罪と言うなら、私もそれを受けたい。一人で苦しまないで。私も連れて行って」

「俺のゆくところにあなたを?」

 物心ついてから軍隊と戦争が記憶の大部分を占めている。血と泥と汗の世界。突き詰めれば死。これからも戦が起きないと断言はできないだろう。そんな世界へこの佳人を連れてゆくわけにはいかない。しかし、レーニエが言うのはそういうことではないだろう。彼女は心を寄り添わせたい、そう願っているのだ。

「ついてゆくから。どこまでも。いけない?」

「嫌と言っても離さない。レナ」

 く、と笑い、ファイザルは彼の妻たる稀人まれびとを抱き上げた。

 今後何が起ころうとも、どんなに遠くに行こうとも心は置いてゆく。この娘の元に。

「とりあえず」

「なぁに?」

「このまま寝台にお連れしても?」

 レーニエは返事の代わりに、昂った男の香りを漂わせる胸に頬を寄せた。


「レナ、疲れた?」

 ひと時ののち、身を起こした男はうつ伏せになった妻の髪を掻き上げ、項に唇を寄せた。うとうとしていたレーニエはわずかに身じろぐ。

「んん、大丈夫。でも、ちょっと暑い」

「済まない、レナ。いけないとはわかっていても、あなたを前にしては歯止めが利かなくなる。これじゃ十代の小僧だな」

 まだ火照りの残る肌にうっすら浮かんだ汗を拭ってやりながら、ファイザルは照れ臭そうに笑った。

「そうではなくて。子供のころから夏は少し苦手で」

「そうでしたね」

「ノヴァの夏はここよりも凌ぎやすいだろうなぁ。あなたの仕事はいつ目処めどがつくの」

「本当に帰るのですか? あの辺境に」

「そのつもり」

「ここにいれば何不自由ない安全な暮らしができるのに」

「これ以上甘やかされたくないの。母上にもあなたにも。あの地にいれば、ほんの少しだけでも私は役に立てる」

「つくづく変わったお姫様だ」

「父上と母上の娘だからね」

 くすくすとレーニエは笑った。

「あなたについてどこにでも行く」

「なら一月後には」

「絶対?」

「約束する。帰りましょう」

 夫の言葉を聞いてレーニエは腕を突っぱねて身を起こした。猫のように優雅な動作も父親譲りなのだろうか?

 ファイザルがどうするのか見ていると、にこ、と口角を上げて横たわる彼の上に覆い被さり、自分から唇を押しつけてきたので好きなようにさせた。銀色の髪が幾筋も滝のように顔の周りに落ちる。薄く口をあけると小さくて熱い舌が滑りこみ、優しく吸ってやると娘はくすぐったそうに喉を鳴らした。

「一月は我慢するから、帰るときは一緒に帰ってね。でないと」

 漸く満足したのか、唇を離してレーニエは言った。

「でないと?」

「一緒に寝てあげない」

「!」

 断固とした宣言。

「それは……大変困る」

 苦笑しながら言うと、腕を伸ばして腰を引きよせた。

「あん」

 蜜月の夜はどこまでも甘い。




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