第119話118.ノヴァゼムーリャの領主 2
瑠璃宮の四階。
華麗な雰囲気の他の建物と比べて落ち着いた
レーニエもこの階の半分を貰っているが、フェルディナンドやサリアもそれぞれ個室を与えられている。
昼過ぎにファイザルに瑠璃宮まで送られ、待ち構えていたサリアに直ぐに風呂に入れられ、着替えさせられたまではいいが、すぐに寝台で休むように言われても頑としてレーニエは聞き入れなかった。
「私なら平気だ。先にフェルの様子を見たい」
「でも、あの子は今少し熱があって……実はまだ寝ていますの」
「え?!」
レーニエはフェルディナンドの眠っているところなど見たことがない。士官学校に入るまで常に彼はレーニエの傍にいて、何くれと不自由のないように気にかけてくれていた少年なのだ。
フェルディナンドが休んでいるところなど想像できなかった。しかも熱があるなど。
「フェルが、熱……」
驚きのあまりレーニエが頬をこわばらせていると、慌ててサリアが言い
「あ、いえ、大した事は全くありませんの。こちらに帰って来てからなんだかんだで、学校も忙しかったろうし、ここ数日休みでも殆ど眠っていなかったらしくって。おまけに昨夜はロクに食べていないのにお酒を飲んだでしょう? あの子にしては珍しく今日は遅くまで眠っていて、今朝様子を見に行ったら額が熱くて。あの子はすぐに起きると言ったのですが、私と母さんが厳しく止めたのです。そんな赤い顔でお仕えしていては迷惑だって」
「……」
フェルディナンドが眠れなかったのはレーニエの町行きの事で気を揉んでいたからだろう。昨日は一日緊張しっぱなしであったに違いない。
自分のせいだと思い当ったレーニエは頭を垂れて唇を噛んだ。
「そんな顔をなさらないでレーニエ様が心配なさる事ではありませんわ。さっき見に行ったらもう殆ど平熱でしたもの。まぁ、あの子もここ半年はいろいろ大変だったから、たまにはこう言う事もありますわよ。何とかの撹乱って言うでしょう?」
それでもレーニエは大層心配し、自分が休むよりも先にフェルディナンドを見舞うと言ってきかなかったのだった。
「フェル……具合はどう?」
レーニエが入って来た時フェルディナンドは寝台に横になっていたが、直ぐに起きようとするのを、レーニエは厳しく止めた。付いてきたサリアには少しの間席を外して貰った。
「呼ぶまでフェルと二人にして」
「畏まりました。フェル、何か欲しいものはない?」
「ないよ、ありがとう」
「私の我儘のせいで皆に迷惑をかけてしまったね。済まない、フェル」
サリアが出てゆくとレーニエは少年の枕元に腰掛け、ぺこりと頭を下げた。
「もう何ともありません。レーニエ様こそ……」
「頭は痛くないの? ヨシュアは頭痛がするかもしれないと言っていたけど」
レーニエは自分が熱のある時オリイやサリアがそうしてくれるように、横たわる少年の額に手をあてた。自分と比べてみて、ほんの少しだけ熱いような気がする。
「ありません。もう横になっているのには飽きました。お許しを頂いて起きだしたいのですが」
レーニエの指先が額に触れた一瞬だけ、フェルディナンドは瞳を閉じたが、すぐに光の強い黒い眼がいつもの生意気な表情を浮かべる。
「だめ。今日一日はこうしておいで」
「そんな……体が|鈍(なま)ってしまう」
「一日くらいでそんな事にはならない。お前もたまにはゆっくりするといい」
「レーニエ様は」
波打つ前髪を指で梳かれながら少年はレーニエを見上げた。このような角度から主を見つめるのは初めての事で少し戸惑う。彼は少し枕を起してそれに寄り掛かった。
「ん?」
「レーニエ様はあれからどのように過ごされたのですか?」
「私?」
「ええ、私が情けなくも、セルバローさんの勧めてくれた酒で酔い潰れてしまってから」
その時の事を思い出すと不甲斐なく、恥ずかしくて堪らないが、今更隠しようもないので、フェルディナンドはこれが今の自分の現実なのだと素直に認めている。
それよりも気になるのはレーニエの事だった。
「姉さんから、あの人が来たって聞いていますが」
「うん、ヨシュアが来てくれた。それでジャックジーンと違うお店に行って、少しだけお酒を飲んで……それから」
なんと言ったらいいものかレーニエは言い澱む。こう言う事は黙っておいた方が良いように思える。
「あの人と過ごされていたのでしょう?」
逡巡しているレーニエに助け船を出すようにフェルディナンドは聞いてやると、躊躇いながらも銀の髪が揺れた。
「うん……そう。朝まで一緒に過ごしたよ。心配をかけて済まない」
「……」
眼を覚ました時、レーニエが帰ってきていない事を聞いた時から分かっていた事だが、レーニエの口から素直に認めるのを聞くと、胸の奥がずきりと痛む。
とっくに諦めていた想いがまだ
「いいえ、レーニエ様が良いのなら俺はいいのです。あの人はあなたを守って下さるのでしょう?」
「うん」
大人びた少年の問いかけにレーニエは頬を染めて答える。その様子をフェルディナンドは複雑な思いで受け止める。
直ぐに休めるようにサリアが整えた部屋着は、ゆったりとしていて殆ど肌は見えないのだが、広がった袖口がするりと落ちた時、白い手首に淡い色が浮かんでいるのが見えた。
「……それで、ご婚儀の日取りはもう決まったのですか?」
少年は細い腕を見つめている。
「えっと、オリイの話では、もう一両日中に決まるのではないかと言う事だったけど。母上やオリビエ・カーン殿の日程を調整中のようだ」
「そうですか」
「フェル?」
「はい」
「私は結婚式が済んだらヨシュアとノヴァに帰ろうと思っているんだけど……もう随分留守をしてしまったし、残してきた皆の事気になるから。それで……フェルも来てくれないだろうか? 学校があるのは分かっているのだけれど……できれば一緒に」
「俺……私がまだ必要ですか?」
「もちろん。お前には甘えてばかりで情けないのだけれども。私はフェルがいないととても寂しい。また一緒にいて欲しい」
「ありがとうございます。こんな私にもったいないお言葉です」
少年は静かに言った。少し考えて言葉を選び、再び主人に向き合う。
「けれどやはり、私は一度始めた事は最後までやり遂げたい。士官学校をきちんと卒業して私にできる事を探りたいのです……いけないでしょうか」
「フェル……」
「それに、もう私がいなくても、あの人がレーニエ様を守ってくださいます」
「ヨシュアとフェルでは違うんだ。フェルは私の弟なのだもの。大切な弟が離れているのは……だが、そうだな。うん……」
レーニエは言いかけた言葉を切ってまっすぐに自分を見つめている黒い瞳を見た。見慣れた、でも初めて見る切なげな色を浮かべた瞳を。
「やはりこれも私の我儘なのだろう。フェルにはいろんな道が選べるのに……済まない。つまらぬことを言って、またお前の翼をもいでしまうところだった」
まだ柔らかい少年の頬に触れる。しかしそれは記憶にあるのよりも肉が少なく、その下のしっかりした骨格を想起させた。もう彼は幼いレーニエの小姓ではない。
「フェル、いい。お前は好きに羽ばたくがいい……でもいつかは帰って来て? 私の元に」
「レーニエ様……はい、お約束いたします。私は何時でもレーニエ様の忠実な|僕(しもべ)です」
「僕ではない、弟だ」
「ええ、そうですね。弟です」
レーニエの指が頬を撫でるに任せてフェルディナンドは呟いた。いつの間にか彼のものよりも酷く小さくなってしまった手。思わず自分の掌を重ねる。
幼い頃から何度この手を取って来たことだろう。その瞳が曇らぬように、どんな些細な感情も読み取り、優しい主が哀しまぬように常に気を配り。
「あなたの弟です」
フェルディナンドはそっとその手に口づけた。
「うん。フェル……大好きだ。愛しているよ」
その行為はさっき愛する人がしてくれたのと同じで。
「ええ、俺も愛しています」
少年は晴れやかに微笑んでみせる。レーニエもにっこり笑った。
「よかった。これ以上私が我儘にならなくて。うん、本当に良かった、フェル? その内学校を見に行ってもいい?」
「私は構いませんが、きっとあの人が許さないでしょうよ?」
男ばかりだしさ。
「ヨシュアが一緒なら許してくれると思う。いい?」
「はぁ……まぁ」
とりあえずフェルディナンドは承知しておく。又こっそりお忍びに出られたら、堪ったものではないからだ。
「よかった。楽しみができた。う〜ふぅ〜ん……あれ? なんだか急に眠くなってきた……フェル、ちょっと脇によって」
「は? 何を……え? レーニエ様?」
小さな欠伸を漏らすと、レーニエはごそごそと寝台によじ登り、慌てるフェルディナンドの横に滑り込んできた。昨夜はほとんど眠っていないのである。
「ちょっと・・・何をなさいます? お休みになるんならご自分のお部屋に!」
「いいの、ここで。なんだかすごく眠い。そう言えば昔、一緒に寝たことがあったね。もう直ぐまた離れるんだから、久々に一緒に寝よう」
そう言うと、フェルディナンドが何を言いだす間もなく眼を閉じてしまう。
レーニエが寝つきがいい事を知っているフェルディナンドは、既に半ば眠りの国に落ちかけている主人を見て大いに焦った。
「フェル? こっちに」
「うわ、待っ……あの、レーニエ様? レー……」
無礼を承知で揺すぶろうとしてフェルディナンドはふと躊躇った。レーニエの癖で顔をやや傾け、少年の方を向いて瞼を閉じている。
玉を刻んだような小さな顔。長い睫毛。幼い頃から見慣れているはずなのに見飽きない美しい人。自分を弟と呼ぶ。
「レーニエ様?」
返事がない。フェルディナンドは額にかかるまだ湿った髪を指で整えてやったが、瞼は開くことはなかった。
これくらいは許してもらえるだろう。もう直き、いや既にあの人のものだとしても。
白桃の頬に唇を寄せると、そのままレーニエの隣に横たわる。肌掛けを整えてやることも忘れない。
「……お休みなさいませ。我が君」
そう囁いて少年は自分も瞳を閉じた。
「こちらですわ……って、あらら?」
半刻後、見舞いに訪れたファイザルを案内してきたサリアは、仲良く布団に包まる主と弟を見て小さく声を上げた。
二人は額をくっつけあって眠っている。銀と黒の髪が絡まり、敷き布に散らばっていた。
「まぁまぁ。随分話しこんでると思ったら、仕方のない人達ですわねぇ」
サリアは笑いを噛み殺しながら、驚いているファイザルを振り返った。
「二人ともぐっすり眠っているようですし……起こすのは可哀そうな気も。ねぇ? ファイザル様?」
ほんの少しだけ意地の悪い響きを含むそれを、ファイザルは穏やかに聞き流した。彼はこれくらいの事ではもう揺るがない。
「どうもそのようです。このままにしておきましょう」
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