第117話116.刹那 つけたし!

「ちょっと! 痛いじゃない! 放してよ」

 広大な白亜宮の内部。幾つも連なる庭園と宮殿を結ぶ渡り廊下の一つで、サリアは大声を上げた。幸い夜も遅く、奥まったこの辺りには誰もいない。

 この区域は、主に召使たちの居住区のある場所なのだ。少し行けば近衛の詰め所もあるが、声の届く範囲ではない。

「……」

 ジャヌーは答えずどんどん歩いてゆく。大柄な青年の腕は強く、サリアは本当に手首が痛くなってしまった。

「キャッ」

 僅かな段差につまずいた振りをしてサリアはよろけ、驚いたジャヌーがやっとその歩みを止めて振り返ると、普段姿勢のいいサリアが身を屈めて手首を擦っている。

「痛ぁ……手首、捻っちゃったかも」

「え……? 本当に?」

 元々優しい青年は慌てて掴んでいた細い手首を放し、もう一方の手で今度は慎重に調べた。

「本当だ、跡になっている」

「あら」

「すみません。つい……」

 途端に悪びれた顔になってジャヌーはしょんぼりと謝った。サリアもつられて自分の手首を見ると青年の指の跡がうっすらと残っていた。

 捻ったと言いう嘘もこれで信憑性が増すと言うものだと、内心ほくそ笑む。

「ほんとに痛いんだから……なんだってそんなに怒っているのよ」

「……」

「言いなさいよ。馬車から下りてからここまで、ずっと黙ったまんま引きずって来られたんですからね」

 サリアは憤然と胸を張った。

 今日は侍女のお仕着せではなく、レーニエと同じように可愛らしい町娘の装いで、淡い紅色のそれは彼女の鳶色の髪と瞳を引き立て、こんな時ながらジャヌーは見蕩れてしまった。

「あなたが酒を飲んで、他の男と楽しそうにしていたもんだから」

「だって、本当に楽しかったんだもの。久しぶりに街中に出たし」

「確かに俺もずっと将軍閣下の元で忙しくしていたけれど、あんまりじゃないですか」

 恨めしそうにジャヌーは気の強い娘に訴えた。

「祝賀祝いの夜には……あんなに……」

「ちょっ! 今ここでそんな事を言わないでよ。私だって別に遊んでいた訳ではないわ」

 渡り廊下に灯された小さな明かりの中でも、それと分かるほど動転してサリアはジャヌーを遮った。

「レーニエ様の侍女として、お忍びの街行きにご同行させて頂いただけで……あっ!」

 そこでサリアは愕然と顎を落とした。

「レーニエ様! レーニエ様はどうしたの! あんた知ってるんでしょ!」

 何よりも大切な女主人を今まで忘れていたことが信じられない、サリアは自分に対する驚きと憤りをそのまま罪の無いジャヌーにぶつけた。

 自分よりかなり体格のいい青年の胸ぐらを掴んで噛みつく。

「何故次の馬車に乗っていなかったの!?」

「わ! お、落ち着いて……姫殿下は将軍とご一緒のはずです」

「何ですって! どこ!? 今どちらにいらっしゃるの?」

 益々怒り狂ってサリアは怒鳴る。この調子では騒ぎを聞きつけて、誰かがやってくるかもしれない。そうなればレーニエの事が露見してしまう。

 焦ったジャヌーはサリアの口を掌で塞いで廊下を離れ、庭園の奥まった茂みにサリアを引きずっていった。

「何すんのよ! さっきから」

「すみません。でも大声を出さないでください。誰かに聞かれたらそれこそ一大事でしょ?」

「う」

 ジャヌーの言うのは正論だったから、言い募りたいのをぐっとこらえて、サリアは黙った。

「で、レーニエ様は?」

「はい。でも、俺も正確な場所は知らないんです。ですが、ファイザル閣下とどこかで夜を過ごしていらっしゃることは間違いありません。閣下から指示を受けたレナンから耳打ちされました」

「本当にどこか知らないの?」

「誓って本当です。閣下は様々な情報収集や潜伏活動の為に、ファラミアじゅうに隠れ家を持っていて、多分その内の一つに……」

 ——あんのクソ将軍! 私のレーニエ様をよくも連れ込んだわね!

 ギリギリと拳を震わせて立ち尽くすサリアを見たら、さしもの「掃討のセス」でさえ怯むのではないかとジャヌーは思った。

 それほどサリアは激昂していたのだ。

「あの……サリアさん?」

 暗がりの中でも分かるほど怒っていたサリアが今度はなぜか、だんだん悲しそうな顔になって来るのを見て、ジャヌーは本気で心配になって来た。

「……」

「きっと大丈夫ですから。将軍閣下の手配に抜かりがあるはずはありませんし、それに雷神のセルバロー閣下も一緒のようですから」

「あんたには分からないのよぅ……」

 ——レーニエ様は……レーニエ様は、どんどん大人になってしまわれる。もう私を本当の姉さんのように慕ってくださった可愛いあの方ではなくなってしまう……。

 サリアは今更のように、弟のフェルディナンドの気持ちがわかった。

 ——もう私なんかあんまり必要ないんじゃ……。

「わあぁ〜ん! レーニエ様ぁ」

「ちょっと!? サリアさんっ!」

「わぁあ〜ん! レーニエ様にはもう私なんて要らないんだぁ」

 大きな鳶色の瞳からぽろぽろ大粒の涙が零れるのを見て、人のいい青年は大いに焦った。

 勿論、先ほどの酔いがまだ残っているせいもあるのだが、なかなか泣きやまないサリアにジャヌーは途方に暮れ、終にその大きな胸の中にサリアを抱き込んだ。

 渡り廊下の間に大きな灌木があるのが幸いだった。

「泣かないでください、お願いだから」

「だって、だって今までレーニエ様は、私とフェルだけのものだったのに!」

 サリアはジャヌーの腕の中で泣きじゃくっている。

「あの方がどれだけ可愛らしくて、素直で、いい子なんだか、あたしが一番知ってるんだから! あんなどこの馬の骨とも知れないあいつより! 私のレーニエ様だったのに!」

「今でもそうじゃないですか。ね? 泣かないで。レーニエ様はサリアさんをとても頼りにして、慕っておられますよ」

「デモ、そうじゃなくなってしまうんだわ! あの、あの男のせいで!」

「ファイザル閣下は立派な男です」

 ジャヌーの心酔している上官を、あの男呼ばわりできるのは王宮内ではサリアだけだろう。

「そんなの分かっているわよ! だから腹が立つんじゃない!」

 そこでサリアは、がばと顔を上げてジャヌーを睨みつけた。

「あんたは私を慰めてくれているの? それともあいつを庇っているの?」

「俺はサリアさんに俺を見て欲しいだけですよ」

 ジャヌーは静かに言った。正直そうな青い瞳はサリアを見つめている。

「え?」

「本当にそれだけです、から」

「だ、だって、それってもしかして私の事好きって事?」

「な・・・今更何言ってんです! あの夜そう言ったじゃないですか!」

 情けなさそうにジャヌーはそう言った。

 あの夜とは、戦勝祝賀会の夜の事だ。あの時レーニエが休暇を与えたので、サリアはジャヌーと祝賀ムードのファラミア市内に出かけていたのだった。

 あの時も確か、かなり酔っ払ったような記憶があるサリアである。しかし、彼が照れながらそう言った事はうっすらと覚えているが、ここはシラを切る方が都合がよさそうだ。

 もう一度彼の本音を引き出すためには。

「あの時、朝まで一緒にいたでしょ? 忘れちゃったんですか?」

「や、覚えているけど……あの時はなんだか勢いで、そう言ったんだって思ってしまって……」

「違います!」

 堪りかねてジャヌーは言い放つと、サリアの口を塞ぐように抱きしめた。

「わぷ」

「わぷとは何です、わぷとは。男の一世一代の告白なのに!」

「ごめんなさい」

 今度はジャヌーが憤慨している。サリアは素直に謝った。

「じゃあ……悪いけどもう一回言ってくれる?」

 サリアはジャヌーの腕に抱かれたままジャヌーを見上げた。

「ええ〜」

「そしたら信じてあげる」

 意地悪そうにサリアは言った。サリアとてこの一つ年上の士官は以前から気になる存在であった。

 ノヴァゼムーリャで出会った時はまだ初々しい従卒だった彼が、明るく正直な人物である事は、王宮で長く暮らし、様々な貴族や軍人を見てきたたサリアには分かっていた。

 そして、ジャヌーが自分を憎からず思っている事も。

 ある程度の恋のさや当ても知っているサリアは、彼の上官であるファイザルと己の主のレーニエの恋路か決まった今、何か動きを見せるものだ思っていたのだ。

 しかし、上官に忠実な彼はあの夜以来、言伝ことづての一つもよこさなかった。

 ファイザルと違い、身分の軽い彼は、その気になれば少しの空き時間ぐらいとれるはずだと言う事を、サリアは十分認識していた。

「なんだ、言えないの?」

「いっいえ! では……コホン。俺はサリアさんがすごく好きです」

 一息にジャヌーはそう言い、照れ隠しに気の強い娘の頬を大きな手で包み込んだ。

「大好きです」

「私の一番はレーニエ様だけど。それでもいいの?」

「ええ、レーニエ様を大切にしているあなたがいいんです。俺の一番はサリアさんですし」

「あんたって……」

「嫌ですか?」

「嫌じゃないわ。でも」

「何です?」

「その、敬語みたいなのはやめてくれる?」

「え〜、だってこれは」

 初めて会った時から貴人の侍女と言う事で、ジャヌーは尊敬をこめて敬語を使ってきたのだった。元々女性に対しては丁寧な男なのである。

「それからサリアって呼んで」

 容赦なくサリアは命じる。敬語をやめて欲しいならもっと優しくすればいいのに。

「さ、サリア」

「そう。そんな感じ」

 ジャヌーの背後で梢がカサカサと鳴った。

「サリア?」

「なぁに?」

「愛してる」

「まぁ、嬉しい」

 サリアはついとつま先だってジャヌーに唇を寄せた。ジャヌーも心から嬉しそうにそれに応じる。

 夏の夜の事とて星はあまり出ていないが、庭園の花々から香る甘い匂いが二人を満たした。

「……レーニエ様も今頃こうやっているのかしら?」

 逞しい腕にもたれてサリアは言った。

「本当言うと心配は心配なの。あの人は本当に心まできれいな方だから」

 サリアは美しい主人が今頃、どう夜を過ごしているのかと思いを馳せながら呟いた。

「少しの事で傷つかれてしまうの……」

「ええ。でも絶対に大丈夫。将軍はこの国で一番の男です、長年仕えてきた俺が保証します」

「そしてあなたは二番目?」

「え? はは。そこまで自惚れてはいませんが、サリアさん、サリアの中で二番目ならそれでいい」

「ジャヌー?」

「ん?」

「あんたって本当にいい男ねぇ」

 うっとりと広い胸に包みこまれてサリアは囁く。

「今頃気づいたんですか?」

 ジャヌーはにっこりと笑った。


 夏の夜は恋人達のものである——




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