第116話115.刹那11

 それは一刻ほど前——。

 ファイザルが定例の午後の会議を終えたのは、夏の遅い夕焼けが宵闇にとって替わられようとする狭間の頃だった。

 会議の合間に、彼は雷神一行を尾行させていたジャヌーを通じて小さな報告を受け取っていた。内容はセルバロー 一行が都の東地区にある兵士たちの集う居酒屋の一つに入ったというものである。

 その店はそう言う類の店の中では比較的ガラもよく、料理の質もいい方だったが、それでも酒を扱う。いい気分になった若い兵士たちがハメを外してしまう事も珍しくはない。

 そんな時は元兵士である屈強な店員に摘み出されてしまい、多くは揉め事になることはないが、少なくともレーニエやシザーラが行く店としては異例であろう。

 報告によるとセルバローは店の奥の部屋を借しきりにしているそうだが、ファイザルはどうにも心配だった。

 出がけに見たレーニエの姿。何しろ元が元だけにどうしたって町娘には見えないが、年相応に可愛らしく、よく似合っていた。

 迎えを遣る事も考えたが、生半かな人選ではセルバローに一喝されて終わりだ。おまけに彼はこの役目を非常に楽しんでいる。やはりどうしたって自分が迎えに行かなくてはならない。

 ファイザルはいつにもましてすごい勢いで仕事を片付けていたのである。

 会議に提出された懸案事項は即決で判断を下し、余裕のある項目は次回送りにし、唖然とする議長役の書記官を尻目にぐいぐい議題を進行させてゆく。しかしその忍耐もそろそろ限界だった。

 陽が傾くにつれ、仕事の能率が落ちてくる。そして脳裏にちらつくのは、銀髪を編み込んだ初めて見る髪型、都で流行の、胸を強調する服装。貴夫人にはありえぬ丈のスカート。それを無遠慮に見つめる男たちの視線。

 だがしかし、執務室に戻った彼を待ち受けていたのは矢張り、急ぎの署名を要する書類の山だった。

「ええいくそっ! 大概にしろ! 俺は事務官でも祐筆ゆうひつでもないんだ!」

 珍しく悪態をついて彼はペンを床に放り投げた。パシンと乾いた音をたててペンが転がり、インクの染みを残す。

「あ〜あ、壊れてしまいましたよ」

 市中の尾行から戻っていたジャヌーが笑いを噛み殺しながら先が割れてしまったペンを拾い上げる。

「うるさい! やってられるか! さぁ行くぞ!」

 そう言うと、ファイザルは勢いよく立ちあがる。待ってましたとばかりにジャヌーは進み出た。

「はっ! 既にご用意は整っております。東の門から出られます。供は誰をお連れになりますか?」

「お前と……そうだな、レナンにしよう」

 そう言うと勢いよくマントを羽織り、ファイザルは大股で部屋を出た。


「あ〜あ、仕事を途中で放り出してきちゃって、明日の朝事務官どもが嘆くぜ?」

「知るか! それにもう大体済んだ。後はあいつらだけで十分だろう。早急に事務に優れた将官を育成せねばならん。戦は当分ないんだからな」

「あなたのおかげで」

 意外にも抜かりなくレーニエはファイザルを持ち上げて見せた。

「まぁ、そうです」

「うわぁ、言うわ言うわ」

「これ……いかがですか? 少し癖がありますが」

「うん……あ、辛い」

 ファイザルが差し出した小皿の料理を少し食べたレーニエは慌てて杯を取る。

「ははは! お口に合いませんでしたか? 親父、サンガリヨンを」

「サンガリヨン?」

「ああ、酒の中に様々な果物を入れた飲み物です。これならお口に合うでしょう」

 酒を運んできた年配の店主は最初こそ、ファイザルの出世を祝ったものの、その後は気を利かして料理や酒を運ぶ時の他は三人に話しかけようとしない。

 そういう細やかな気遣いなされるのもファイザルがこの店を選んだ理由だろう。

「どうぞ、お嬢様」

 その店主は玻璃ガラスの美しい杯に入った赤い酒を差し出し、レーニエに笑いかけた。

「ありがとう」

「どういたしまして、この兄さんが女性を連れてこちらに来るのは初めてですよ」

「そうなの?」

 ファイザルは黙って杯を傾けている。

「ええ、私はこの方がずっと若い頃から存じていますが、こちらに来る時はいつもお一人でした。他の場所では知りませんけどね?」

「本当に?」

 ファイザルは答えない。

「ですが、そんな昔のことを詮索なさいますな。このお酒は私の驕りです、さぁどうぞ」

 店主は柄の長い匙を差し出しながら言った。その匙で中の果物を掬い上げて食べるのだという。

「二度と来ない今を楽しんでください」

「ふぅ〜ん、そういうものなのかぁ。お酒、ありがとう……うん、とても美味しい。あ、そうだ、ヨシュア、これを」

 レーニエは自分専用に持たされた可愛らしい手提げの中から、もさもさした形の包みを取り出す。

「なんです?」

「昼間シザーラ殿が誘ってくれた店で買ったんだ。あなたにと思って。でも、実際に買ってくれたのはサリアだけど」

 恥ずかしそうにレーニエは包みをファイザルに差し出した。

「……驚きました。開けてみても?」

「どうぞ」

 中から出てきたのは深い青の夏用のマント。

「これを俺に?」

「うん、似合うといいけど」

「俺が試着してやったんだぞ! ありがたく思え!」

 セルバローが無闇に威張って言った。

「あのな、なんでお前に感謝しなくちゃならんのだ? お前が買ってくれたわけでもなかろうに」

 セルバローに憎まれ口を聞きながらもファイザルは、立ちあがってマントを羽織った。

「どうですか?」

「素敵……」

「普段は黒ばかりだから少し照れますが」

「よくお似合いだ」

「ありがとうございます。大事に身に着けます」

「うん。だけど、いつかちゃんと自分で働いて得たお金であなたに何か贈りたいな」

「ぶっ」

 相変わらず自分の立場を分かっていない娘にセルバローは吹きそうになるのを堪えたが、ファイザルは大真面目でその言葉を受け止めた。

「俺もあなたにいつか何かを贈りましょう。何かお望みはありますか?」

「いいや? もう、手に入れてしまったから……」

「それは……自惚れてもいいのかな?」

 赤い瞳が自分を見上げるの受け止め、ファイザルは目を細める。

「うん」

 けっ!

 やってられんわ! とばかりに雷神は、ひたすら飲み、食う。

「だが、俺もあなたに持っていて欲しいものがある」

「それはなぁに?」

「今はま。けれども近いうちにお渡しいたしましょう」

「では今はこれをどうぞ。お嬢様に、どうですか? 一興でしょう?」

 いつの間にか後ろに立っていた店主がファイザルに楽器を差し出した。それはトゥーレと呼ばれる十二弦の弦楽器だった。弦は一度に二本ずつ抑えられるように間を詰めて貼ってある。

 胴体の部分は表面に美しい寄木細工が施してあった。

「トゥーレ。あなたはこれを弾けるの?」

 思いがけないことにレーニエは驚いてファイザルを見た。彼が楽器を奏でられるなんて初耳だった。

「ええ、昔はよく手すさびにね。ですが、かなり久々です。上手く弾けるかどうか」

「聴きたい」

「お耳汚しですよ」

「弾けよ。俺が歌ってやる」

 セルバローがおもむろに立ち上がるので、ファイザルも苦笑しながら足を組んで楽器を抱えた。カウンターの客から拍手が上がる。

 長い指で楽器の感触を確かめるように弦を爪弾く。調音はなされているようだ。和音の涼しげな調べが狭い店内に響いた。

「『丘の上の娘』。いいか」

「ああ」

 シャラン

 弦が鳴る。


 ——可愛いあの娘は丘の上 亜麻色の髪が風に揺れる

 ——その瞳は誰を映すのだろう 皆あの娘を想ってる

 ——いつか俺を見てほしい 俺だけを見てほしい

 ——愛してる 愛してる 愛してる


 雷神の歌声は意外に高い。そしてよく通る。

 ファイザルのトゥーレの腕前もなかなかのものだった。カウンターの客も店主も、いつの間にかその妻までが厨房から出てきて聴き惚れている。


 ——愛してる 愛してる 愛してる

 ——いつかは俺も丘の上 可愛いあの娘を抱きしめるんだ


 最後の和音が静かに煤けた天井に昇華してゆく。

「んふ」

 セルバローは少ない聴衆に向かって優雅に辞儀をして見せた。向こうの客たちからパチパチと拍手が鳴るが、レーニエは言葉もない。呆然と二人の男を眺めていた。

「お嬢様はお二人にこの歌を捧げられたのですよ。いいわねぇ、こんな男前に。アタシもこんなのは初めて見ましたけど……はい、これは私から」

 女将が嬉しそうにレーニエに一輪の花を渡した。店の出窓に飾られていたものである。

「ありがとう」

「さ、今度はレナちゃんの番だ」

「え?」

 思いがけない言葉。

「何か歌いなさいよ」

 セルバローが陽気に促すが、娘は戸惑ったようにもじもじしている。

「私は歌など歌えない……あなたの歌を聴いた後では尚更だ」

「俺? そりゃまぁ、俺の歌を聴いた女は皆、イチコ……いやいやいや、勿論歌えますとも」

「でも……」

「おい、ジャックジーン。無理を言うのは止せ、お困りだ」

 見かねたファイザルが止めに入るが雷神はお構いなしである。

「まぁまぁ。何か知っている歌はないんですか? 唱歌とか子守唄でも?」

「子守唄?」

「ええ、何でもいいんですよ。歌はいい。嫌な時でも、歌うと気が晴れることもある」

「そうなの?」

 その言葉にレーニエは顔をあげた。

「ええ」

「子守唄なら。ずっと昔にオリイが聴かせてくれた。その歌なら歌えるかもしれない。とてもあなたのようには歌えないけれども、ジャックジーン」

「なぁに、こいつがあなたに合わせてくれますよ、な? ヨシュア?」

 ファイザルは黙って頷いた。

「子守唄、素敵じゃないですか。さぁ、こちらへ」

 レーニエはセルバローの導くまま店の中央に立ち、女将から貰った花を握りしめている。

 そうして、暫らく逡巡するように小首を傾げていたが、やがて心が決まったように微かに頷くと躊躇いがちに小さな声で歌いだした。

 それは彼女がまだ幼い頃、闇に囚われていた事を思い出して寝付けなかった折にオリイが歌ってくれたもの——


 ——眠れいとし子 この腕に

 ——眠りの国はすぐそばに

 ——門を開いて待っている

 ——眠れいとし子 この腕に

 ——花も 小鳥も お菓子も 絹も

 ——みんなお前の手の中に


 それは変声前の少年のような透きとおった細い声。

 セルバローは勿論、ファイザルもレーニエが歌うところを聞いた事がなかったので非常に驚いていた。

 子守唄らしく、旋律も単純なものなので、直ぐにトゥーレの調子を合わせる事ができ、歌は始まりと同じく静かに終った。

「……」

 歌姫は真っ赤になって俯いている。

 昔を思い出したのか、細い肩が震えていて、セルバローでさえなんと言葉を掛けようかと一瞬間が空いたが、沈黙を破ったのは意外にもカウンターに陣取っていた年配の男達だった。

「いいぞぉ、可愛いお嬢さん」

「ウチの孫に聴かせてやりたいよ」

 レーニエはぱっと顔を上げた。

「お嬢さんに乾杯!」

「お健やかに!」

 男たちは杯をちょいと上げて酒を干すと、さり気なく自分たちの話しに戻っていった。

「お上手でしたよ」

 レーニエが席に戻るとセルバローも気持ち良さそうに褒めた。

「だけど……恥ずかしい」

「俺を寝かしつける時にも聴かせて欲しいくらいで」

 甘い囁きに反応したのはレーニエではなかった。

「さぁレナ、もう遅い。出ましょう」

 ファイザルはゆっくり楽器を傍らに置くとその腰を上げた。

「出るって……帰るの?」

「ふふ……俺についておいででなさい。親父、世話になった」

 ファイザルはそういうと懐から金貨を一枚取り出し、カウンターに置いた。

「こちらの分も、な」

 先ほどの男たちに軽く頷く。店主は心得たように丁寧に礼をした。

「これは過分な」

「構わん……上、いいか?」

「勿論」

 なにやら意味深な会話が頭上で展開しているのだが、レーニエにはさっぱり分からない。

「約束は昼過ぎだぞ。いいな、ジャックジーン」

 レーニエの肩を抱いて戸口に行きかけたファイザルは、振り向きもせずに奥でまだ長い足を投げ出しているセルバローに声を掛けた。

「それはこっちの台詞だ。あまり無茶させるなよ。おやすみ」

「おやすみ、お嬢さん。気をつけてな」

 男たちの声を背に聞き、二人は店を出る。暗い事は暗いが、夜半にはまだ間があるというところか。

「ヨシュア? あの……」

 表に面した厩に行かず、店の脇の路地を入るファイザルに、訳が分からずレーニエは尋ねた。すっぽりと彼のマントに包まれ、顔だけ出している。

「ここはどのあたり? 王宮へ帰るのだろう?」

「ええ、明日の昼までにはね」

「え? 帰らないの」

「帰せません……俺が……ね」

 ちょうど店の裏手に地味な扉があり、ファイザルは静かにそれを開ける。中から狭い階段が現われた。

「ここは?」

「俺の隠れ家」

「隠れ家があるの? 都に?」

「ええ、いくつかね。こちらへ。暗いのでお抱きします」

「あ……うん」

 あっという間に抱え上げられる。ファイザルは夜目が聞くらしく、揺るぎのない足取りで細い階段を昇ってゆく。

「ジャックジーンは?」

「さぁ。多分あそこで朝まで呑んだくれるでしょう」

「眠らないで?」

「一応不寝番ですからね。はじめからそのつもりで付いて来たのでしょうから」

「……?」

 その時ファイザルの足が止まり、再び小さな扉が現われた。

「ここはさっきの店の上に当たります。正確には三階です」

 カチャリ。

 鍵を開けるとファイザルはそっと床にレーニエを下ろす。よく見えないながらレーニエは暗い室内を見渡した。室内は乾いており、よく手入れされているようである。

 居間のような部屋と、奥にもう一部屋——おそらく寝間があるのだろう。

「危ないから暫らくそこに。今明かりをつけます。ああ、あった」

 すぐに暗闇の中に手燭をもったファイザルが浮かび上がった。

「ふむ。ここはよく管理されている。ここにして正解だな」

「ここはって、他にもあるの? 隠れ家って?」

「都には後二箇所。国内には七箇所くらいですかね」

「何に使うの?」

「多くは情報収集とか、私服での打ち合わせとか。でも、ここは都で休日をもらった時によく過ごしていた場所で」

「そんなところに私を?」

「現在俺はむりやり休暇中ですからね、レナ」

「あのだけど、遅くなっても私はいいんだけど、皆が心配しないかしら?」

「俺の采配に抜かりはありませんが、気になるなら帰りますか?」

「いいや」

 レーニエはファイザルを見つめたままゆっくりと首を振った。その様子に男は目を細め。

「ふ……今のはウソです。例えあなたに拒まれても今夜はあなたを離せない。そんな格好をして大の男を一日振り回して。俺は気が気ではなかった。

 おまけに、必死に仕事を片付けて駆けつけてみると、あなたは涼しい顔をして若い男に肩を抱かれていたし」

「だけど……あっ」

 いきなり唇が塞がれてしまい、その先は言う事ができない。

「お喋りの時間は終わりです。覚悟なさい」

 そう言うとファイザルは、ゆっくりとレーニエを引き寄せた。



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