第115話114.刹那10

「待っていたの」

 一瞬にして静まり返った宴会場。

 何も気づかないお下げの娘は顔を輝かせ、高く抱え上げられたまま、両手をファイザルの首に回してしがみついている。

 彼女からは死角になっているが、今まで座っていた椅子には氷点下の視線をまともに受け、腰を抜かしている若い兵士がいた。

「と言う訳だ。悪いが返してもらうぞ、若いの」

「ファ、ファイ……しょ、将ぐ……」

 哀れな青年の唇の色は失われ、膝は小刻みに震えている。

「もう来てくれないかと」

 空気を読まないレーニエがファイザルにすがりつく。

「寂しかったの」

「済まなかった」

 殺し文句を耳元に感じ、鉄壁の無表情を保った男の努力は称賛に値しよう。

「だが、なんとか間に合ったようです。おい、セルバロー」

 扉の横の壁に凭れ、足を組んでいる雷神に厳しい声が飛んだ。

「ふん、相変わらず無粋な男だな。せっかくの陽気な宴が台無しだ」

「これはどういう訳だ」

 氷の視線の先にはおしぼりを額に乗せられた少年がいる。

「なに、ただの社会勉強さ」

「馬鹿野郎。明日の昼過ぎにそっ首洗って俺の前に来い」

 そう言い捨てるとファイザルはレーニエを抱いたままどんどん歩いて行く。

「支払いは任せたぞ」

「けっ」

 ファイザルが入り口近くに陣取っていたセルバローの横を通り過ぎる時、赤毛の男が鼻を鳴らしたのが聞こえた。

「ジャヌー、お前はご婦人たちを馬車でお送りしろ。丁重にな」

「は!」

 ジャヌーも些か忌々しそうにサリアと踊っていた兵士を睨んでいる。娘二人はちっとも悪びれていない。好奇心を満面に浮かべて事の成り行きを楽しんでいるようだった。

「そこの二人、クランプとタッカーだったか。お前たちもお供しろ。くれくれも油断するなよ」

「はっ」

 情け容赦もなくファイザルは次々と命令を発してゆく。

「レナン、耳を貸せ。伝言だ、一刻以内に瑠璃宮のオリイさんに伝えろ」

「は! はぁ……え⁉︎ えええ! いっ、いえ……はっ! 受けたわまりました。では!」

 魂消る内容の耳打ちから開放されたレナンが慌ただしく出てゆく。それを見送ってからファイザルは一同が見守る中、悠々と大部屋を通り抜け店を出た。


「無礼な物言いで申し訳ありません。兵士の前だったので」

 ファイザルはレーニエを抱え上げたまま、ずっと前を見ている。

「ヨシュア……怒っているの?」

 ファイザルに抱かれて暗い夜道を行きながらレーニエはおずおずと尋ねた。彼の足に迷いはない。どうやら路地を抜けたところに馬を置いているらしい。

「ええ、あなたにではありませんけどね。酒を飲まれましたか?」

「杯に半分だけ。セルバロー殿が持ってきてくれた。甘くて美味しかった」

「そうですか?」

「いけなかった?」

「いいえ。俺だってそこまで無粋じゃありません」

「じゃあ、セルバロー殿に怒っているの?」

「ええ、まぁ。奴め、知ってて止めなかった。しかも俺が来るのを見越していた。重罪です。極刑だ」

「え⁉︎ なんで? どぉして?」

「あなたには永久に分からないでしょうよ」

「余り怒らないで欲しいのだけど……ジャックジーンにはとても世話になった。とても楽しい一日だったのに……最後に少しハメを外したのは、サリアとシザーラ殿がちょっとだけ悪いのだ」

「わかってますよ。なんだかんだ言って、奴と従者たちは酔ってはいなかったし、ちゃんと入口や要所に陣取っていた。

 表の警備も万全だった——もっとも、奴は鯨飲げいいんだから生半可な量では酔ったりはませんが」

「そうだろう?」

 狭い路地を出ると小さな厩があり、主の姿を認めてハーレイ号が小さくいななく。ファイザルは軽やかに、とん、とレーニエを鞍に横向き乗せた。

「まさか、この姿のあなたをまたがらせる訳には行きませんので。少し窮屈ですがご辛抱を」

 自分もひらりと馬に跨りながらファイザルは静かに言った。

「ですが、やはり許せません」

「何で?」

「面白がっていたからですよ」

「だから何を」

「あの若造があなたに惚れるのを」

 腕の中にすっぽり納まった娘を見下ろす。

「若造? それは誰のこと?」

「……」

 無邪気な問いを聞いて、ファイザルはさっきの真面目そうな青年に思わず憐憫の情を覚えた。

「……ともかく」

 ハーレイは大人しく主の命を待っている。ファイザルはまだ手綱を振らない。代わりに手袋をしていない手でぐいと顎を持ち上げた。

「んっ」

 暗い路地に湿った音が鳴った。

「あふ……」

「言ったでしょう? あなたは俺の女だ。易々と他の男に触れさせたりはしない。俺の女になるってことはそう言う事です」

 畳み込まれるような言葉はすぐに口づけに飲み込まれる。レーニエはぼうっと瞳を潤ませ、広い胸に身を凭せかけた。腰を抱く腕に力が籠る。

「おれのおんな?」

 レーニエにとって初めて聞く言葉。耳に馴染みはないが、それは胸のたかぶりを伴って心に沁みてゆく。

「嫌ですか? 嫌だとのたまわれても、もう引き返せませんが」

「ううん、違うの。嬉しいの。もっと言って?」

「可愛いことを……」

「私があなたの女なら、あなたは私の男だ」

「……」

 今度はファイザルが沈黙する番だった。

「あれ? 変なの? 女からはこう言ってはいけなかったの?」

 彼の胸に顎を付けてレーニエは首を傾げた。

「——いえ、少し驚いただけで。ええ、俺はあなたのものです。生きている限り」

「うん」

 レーニエはにっこり笑って胸に頬を預けたまま瞼を伏せた。

「まったく、急に何を言い出すかと思えば、あなたと言う人は……」

「うふふふ」

 ファイザルは片腕でしっかりレーニエを抱きなおす。

「それ!」

 ぴしりと手綱が鳴り、ハーレイが駆け始めた。表通りを抜けて脇道に入る。ほとんど明かりのない暗い石畳を、大きな黒い軍馬は蹄の音を辺りに反響させながら軽快に飛ばしていく。

「もう帰ってしまうの?」

 心配そうな声。

「いけませんか?」

「まだ帰りたくない」

「ジャヌーの報告では充分楽しまれたようだったが」

 レーニエの答えを予測していたのか、声には余裕の響きがあった。

「ジャヌーが来ていたの? なら、なぜ一緒に」

 その時、別の蹄の音が背後から迫り、「ち」とファイザルが舌打ちするのが判った。

「ヨシュア?」

「あいつめ!」


「いよぅ、お二人さん!」

 セルバローが鞍を寄せて二人に並んだ。

「失せろ」

「まぁ、そう邪見にするなよ、これからどうするんだ?」

河岸かしを変える。姫様がそうお望みだ」

「だと思ったよ」

 しばらく走ってファイザルが馬を停めたのは、表通りと並行する細い通りにある小さな店の前だった。先ほどの店より北に当たる。

「おや、兄さん。久しぶりだね。大層な出世じゃないか、おめでとう」

「世話になる」

 その店は八人も入れば一杯になる家庭的な雰囲気の店だった。カウンターには僅かに二人の男が静かに飲んでいるのみで、奥の小部屋に二席。

 ファイザルはそこにレーニエを案内した。勿論セルバローも図々しく向かいに座る。

「お嬢さん方は?」

「無事に戻ったさ。お前に言われなくとも馬車は用意してあったしな。くく、ジャヌーの奴は随分あの侍女に叱られていたぞ」

「ふむ」

 そこにかなり年配の店主が注文を取りに来る。男二人は慣れた様子で、レーニエの聞いた事もない品々を命じた。

「さっきの店ではあまり召し上がっておられなかったようなので」

「ここ店は知っている店?」

「ええ、昔馴染みの店です」

 ファイザルは頷いたが、昔という言葉にレーニエは何かを思い出したようだった。

「そういえば」

「ん?」

「ジャックジーンがあなたに昔の女性関係を尋ねるといいっておっしゃられたんだけど。聞いても?」

「こいつがそんな事を? それはご親切に」

 先ほどの青年なら失神してしまいそうな視線を、雷神は涼しい顔で受け流した。

 貴様、一度死んでみるか?

 おあいにく。俺は死ぬ時は女の腕の中でと決めているんでね

「……いつかたっぷりとお礼をしなくてはなりませんな」

「いやぁ、そんな、御懸念なく」

「なぁに?」

 二人の間に漂う瘴気しょうきに気づかない娘が無邪気に尋ねる。

「いえなんでも」

「で? 教えてくれるの?」

 赤い瞳は好奇心満々でファイザルを見つめている。

「教えたら妬いてくださいますか?」

 ファイザルはセルバローを見ないようにして困ったように答えた。

「妬くような話なの?」

「さぁ……ただ、若気の至りでハメを外した時期もあったという事です」

「あなたはどんな女性が好きだったの?」

「さぁ、特に好みは。その頃は銀髪に赤目の娘がいなかったので」

「……」

 そう言ってファイザルは横の頭に軽く唇を落としたので、白磁の頬がほんのりと染まった。

 こいつめ、さすがに上手くかわすよなぁ。

 絶妙のタイミングで運ばれてきた料理と酒を、いそいそと恋人のために取り分けるファイザルを見て、セルバローも杯を手に取った。

「レナちゃん、俺の好みも聞いてくださいますかね?」

「ん? ではジャックジーンのお好みの女性はどんな?」

 杯を受け取りながら素直にレーニ絵は尋ねた。

「えーとね、俺の好きなのは、むちぃとした感じの喰いでがあって……あたた!」

 どうやら卓の下で脛をしたたか蹴られたらしいセルバローが大げさに騒いだ。

「黙れ、馬鹿者。ほら乾杯するぞ」

「ちぇっ、はいはい」

 男二人は大振りの杯。レーニエには可愛らしい形の杯に先ほど飲んでいたのと同じ甘い酒を満たすと、ファイザルは自分の杯を挙げた。

「乾杯! レナちゃんの初めての街遊びに!」

 セルバローも陽気に応じた。

「ありがとう」

 酒を干すと、男たちは勢いよく料理を片づけにかかる。なにやかやで二人とも今日は殆ど食事を摂っていなかったのだ。

「ヨシュア、でも仕事はもういいの?」

「ええ、あんなもの」

 眉を顰めてファイザルはセルバローの注いだ杯を煽った。

「もうどうでもいいです。あなたと過ごす夜に比べれば」




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