第114話113.刹那 9
「はいっ! 次っ、私踊ります!」
勢いよくシザーラが立ちあがり、部屋の真ん中に進み出る。
「いえ〜っ! いいぞ! 赤毛の姉ちゃん!」
「失礼ねっ! 私の髪は金褐色よっ!そのくらいの語彙がないの?この馬鹿男!」
「何でもいいじゃないかよ! さぁ、やろうぜ。ほれ、カルルーシュ、音曲!」
「ほいきた」
陽気な楽曲が流れる。店の奥の丸い形の貸し切り部屋は見事な宴会場と化していた。そこに集える酔っぱらいは約十名。無論シザーラやサリアも入れてである。
なぜこんな事になってしまったか——。
セルバローがレーニエ達を連れて店にやって来た時には何も問題はなかった。
裏口から入った奥の部屋は貸し切りだし、店の入口や周囲にはファイザルの寄こした私服の兵士の他に警備兵——つまり勤務中の兵士も配置されていた。
普段からこの街は士官の多い地区だし、軍の統制はきちんととれているので街自体の治安は良い。
また、店主には予め、身元の知れた常連客以外は、たとえその連れでも全て断るように言ってあった。
だが、その常連客がいけなかった。
とにかく”雷神”ジャックジーン・セルバローとは人目を引く男なのだ。しかも、兵士たちの間では伝説の男である。
この店に久々にやって来た彼が、つい用足しに大部屋を横切ったのが悪かった。昔馴染みに見つかってしまったのである。
「おお! 雷神じゃないか! こんなところで出会うとは。俺だ俺!」
「ウルフェイン平原の戦いじゃあ大手柄だったんだって?」
「あなたなら絶対勝てるって思っていました!」
「お会いできて光栄であります!」
「サインください!」
あっという間に嘗ての戦友と、もっと若い青年兵達に取り囲まれてしまう。元々皆ほろ酔い状態である。
後は雪崩のように貸し切り部屋まで押しかけられ、そこに美しい娘が三人もいるのを見ては後は言わずもがなである。
フェルディナンドが止める間もあればこそ、いきなり陽気な大宴会が始まってしまった。
かなりいける口のシザーラは数回杯を開けると、スカートの裾を翻して陽気に踊り出し、サリアは若い兵士と笑い転げながらステップを踏んでいた。無論皆酔っ払いである。
唯一の良心とも言うべきフェルディナンドはレーニエを死守する気概に満ちて、主の横に居座り、レーニエに興味深々な青年たちの目から彼女を隠している。
「いいぞ! 赤毛のねぇちゃん!」
「そっちの栗毛も可愛いぞ!」
「おい、親爺! 酒だ酒! 雷神様の杯が乾いていらっしゃる」
「料理ももっと持って来い! 武勇談をお伺いするんだからな!」
様々な声が飛び交うその中に——レーニエは、にこにこと曲線を描く壁に取り付けられた柔らかい長椅子に座っていた。小さな杯を両手で持ち、賑やかに歌い踊る連れを眺めている。
「坊主、横座るぞ」
「今度は坊主ですか? あなた、頭悪くて名前を覚えられないんですか?」
フェルディナンドは自分の横にどっかり座ったセルバローを嫌そうに見た。雷神は大振りの杯を手にしている。
「ああ、すまんな。そう、アタマ悪いんだよ。ところでお前、酒飲めるのか?」
「飲めますが今は飲みません。こんなイカレた連中のなかで私まで飲んでどうします。あなただって護衛でしょ」
「俺はこのくらいでは酔わないし判断の誤りもない。それにクランプとタッカ—は飲んでないぞ。健気ないい奴らだ。見かけは悪いが」
「……」
それは確かにその通りで、セルバローの従卒は部屋の二方向に陣取り、皆と何気に会話しながらも注意を怠ってはいない。フェルディナンドもこれには文句が言えなかった。
「な。一杯だけ付き合え。ケイヒュンチュは飲んだ事あるか?」
「聞いたことありません。外国の酒ですか?」
「ああ、東大陸の北国では有名な酒だ。濃くて上手いぞ。一杯どうだ?」
セルバローは白い陶器の瓶を掲げた。瓶には何やら彩色が施されている。なかなかに美しい。
「……でも」
「お固いばかりじゃ、男としてつまらんぞ。それに酒に強いのも、間諜なら取り柄になる」
「フェル? せっかくジャックジーンがこう言って下さるのだから、少しだけ飲めばいい。私なら大丈夫、とっても愉快な気持ちでいる。お前も少しは楽しめばいい」
さっきから何も食べていないフェルディナンドに気がついていたレーニエは優しく、忠実な少年に飲み物を勧めた。
「……では一杯だけ」
ほんの少し外国の酒に興味が湧いたのと、あまり躊躇していると益々からかわれるかも、と言うのもあって、フェルディナンドはセルバローが差し出してくれた杯を一気に
「なんだこれ!?」
「フェル?」
「イケるだろ? 北国の連中はこれで体を温めるんだぜ」
「な……っ!」
真っ赤になった少年は息を荒くして長椅子の背に
「フェル! どうしたの!? ジャックジーン! これはいったいなに?」
「うふふ、レーニエ様、すみませんね。生意気の鼻っ柱は早いうちに折っておけというのが俺の持論でして。こいつの将来の為にもね。使えそうな奴ならなおさらだ。ああ、大丈夫、心配いりません。水を飲ませて小一時間もすれば元に戻ります。そん時又、水をたらふく飲ませりゃいい」
「そ、そうなの? でもフェル、大丈夫? これを……みず」
「だ、だいじょうぶれす」
主の差し出す水の杯もうまく受け取れないまま、フェルディナンドは返事をした。
雷神はレーニエを手伝ってフェルディナンドに水を飲ませてやると、ふらふらの少年を隅に横たえる為に抱きあげた。
——さぁて首尾は上々。仕上げをごろうじろってね。
「君は踊らないの? あの娘たちのように」
フェルディナンドが退場し、空いた隣に座った若い兵士がレーニエに話しかけた。この青年は他の連中と比べてそれほど酔っ払ってはいないようだ。
茶色い髪を撫でつけ、きちんと軍服を着ている。
「私はあまり上手でなくて」
甘い杯の酒に少し口をつけながらレーニエは微笑んだ。その笑顔に真面目そうな若い兵士は陶然となる。
「珍しい髪の色だね? 瞳の色もとてもきれいだ。不思議な色」
室内があまりに熱いのでレーニエはショールを外していた。その為、室内の灯が白銀の髪に、紅玉の瞳に暖かく映えている。
「そう? 私は好きではないのだけれど」
「なぜ? こんなにきれいなのに」
青年はそう言って編まれて輪に結った髪にちょんと触れた。レーニエは花飾りが耳を
愛らしいその様子に彼は微笑み、腰をずらせて更に近づいた。片方の腕はさり気なく椅子の背に添えられて、まるで薄い肩を抱いているようにも見える。
「この髪を
「私もこの髪型は初めてなのだ。だけど、私はもっと濃い色の髪が好きだ」
レーニエはいつものように男言葉で応じる。
「君のような人は初めて見た。不思議な雰囲気を持った人だ……君、君はもしかしてセルバロー閣下の恋人なの?」
熱心な様子で青年が訊いた。
「ええっ! 勿論違う。全然違う」
どこをどうしたらそんな風に見えるのだ、とレーニエはかなり驚いて目を見張った。
「いやだって……さっき隣に座って話し込んでいたようだったし、もし”雷神”が恋人なんだったら、俺なんかには勝ち目はないなって思って。でも違うんだったら……その、つまり俺と……付き合ってもらえないかな? もしよかったら……」
青年は頬を染めながら、杯を置いたレーニエの手を取ろうとしたその時。
室内の男たちが一斉に部屋の入口の方を見ている事に彼は気づいた。
狭い入り口を大柄な影が塞いでいる。影は急にしんと静まり返った部屋の中央をつかつかと横切り、まっすぐにレーニエの座っている椅子の前に立った。座っている二人に大きな影が被さる。
「どけ、小僧」
低く抑えた声。静かだが冷厳な光を放つ青い瞳。
それはまさしく——
「……わ」
気迫に押された青年は座ったまま後退った。腰が引けている。その横で満面に喜色を浮かべた娘が男に向ってふわりと両腕を差し伸べた。喜びで声も失ってしまったらしい。
「これは俺の女だ」
そう言うや否や男は娘に応じてさっと身を屈めると、片腕で軽々と抱き上げた。そのまま周囲を圧するような雰囲気を纏わりつかせながら室内を見渡す。
ヨシュア・セス・ファイザル。
「掃討のセス」の二つ名を持つ彼は、現在ただ今この瞬間、エルファラン国でもっとも危険な男であった。
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