第105話104.帰還 9

「レーニエや? 体はどんな塩梅あんばいですか? ……おや」

 穏やかな声がしたかと思うと、天蓋の薄布が捲くられ、いつもと同じ濃紺の衣服に身を包んだソリル二世が入って来た。

 彼女の愛娘は薄い夏用の掛け布団を腰まで下ろし、気持ちよさそうに体を丸めて微睡まどろんでいる。淡い桃色の敷布は、その上に横たわる人を可憐に彩っていた。

 まだ眠っておられたか。昨夜はよほど可愛がられたと見える。

 彼女は安らかな娘の髪を一筋すくう。

 時刻は既に正午近く。大きく開け放たれた窓からは風と溢れる陽の光がいっぱいに室内に注ぎ込んでおり、白い夜着と渦巻く髪、そして娘の若々しさが母の目に眩しい。

 もう少し眠らせてやろうと自分の影で娘の顔を光から遮ってやった時——

「ん? え……?」

 長い睫毛がゆっくり持ち上がり。

「あ! 母上!」

「あらま、起こしてしまいましたね。もう少し寝顔を見ていたかったのですが」

 ぱちりと目を開けた娘の額にソリル二世——アンゼリカ・ユールは優しく微笑んで接吻した。


 瑠璃宮の最上階、レーニエに与えられた私室。

 王宮に戻った当初、レーニエは三年前までセバスト一家とともに住んでいた、王宮最奥の小さな屋敷に暮らすと言い張ったが、女王はそれを許さなかった。

 長い苦渋の日々の末にやっと腕に抱けた娘、そして愛する男にし、遥かな北の地へ行ってしまう娘を、どうしても手元に置きたかったのだ。

 相変わらず甘えると言う事が苦手のレーニエであったが、母のたっての願いは心から喜んで受け入れ、瑠璃宮に住まう事を決めた。

 そして、それを聞いて大喜びの女王は、早速大急ぎでレーニエの使う部屋を準備した。

 瑠璃宮最上階の部屋の殆どは空いていたので、彼女専用に居間、応接室、寝室、浴室などを整え、世話をするオリイやサリアの部屋も準備した。

「母上、私の事などでお手を煩わせませぬように。戦が終わったばかりで国庫も大変なのでは……」

 心配そうにレーニエが言い、こっそりアンゼリカはため息をついた。貧乏性はエルファラン王家の宿命であろうか?

「何をおっしゃっているのです。国庫は関係ありませんよ? 私の私財で行うのですからね。それに国庫の不如意などあなたが心配することはありません。余裕はありませぬが逼迫とまではいえませぬし。ですからどうか私の喜びを取らないでくださいね、娘や?お部屋を準備するのがこんなに楽しいなんて思いませんでしたよ。お寝間の色調はどんな感じにしましょうかねぇ。あ、あなたは見てはいけませんよ。今大急ぎで準備させていますからね。楽しみにしておいで」

 女王は不思議そうに覗きこもうとするレーニエから、慌てて布見本の冊子をバサバサと隠した。

「あなたにお似合いのきれいなお部屋にしてあげますからねぇ」


 そして、出来上がった部屋は、あまり選り好みのしないレーニエでさえ少々入るのを躊躇ためらう程の仕上がりになっていた。

 薄い桃地の壁紙にはそれより濃い紅色の花束模様。

 あちこちに置かれた揃いの調度品は優雅な曲線に縁取られ、細密な彫刻が施されていたし、椅子や長椅子の座面にはやはり花模様の繻子しゅすの布が張られていた。

 無論室内のあちこちに繊細なレースやリボン、ゆったりとした襞をたっぷりとった薄色の布が掛けられている。つまり、部屋はどこもかしこもこれでもかと言うくらい、お姫様仕様に模様替えされていたのである。

「……」

「お母さん、女王陛下ってこーゆー趣味でいらしたの?」

 呆然と室内を眺めるレーニエを横目で見ながら、サリアは女王を昔から知る母親に尋ねた。

「さぁねぇ、どちらかと言うと、簡素なご趣味だったように思うんだけどねぇ。多分陛下はこう言う事を一度もされたことがなくて、そして一度はやってみたいと思っておいでだったんだろうねぇ」

 女王自身は服装も、持ち物も質素な趣味である。

 しかし、母親としては美しい容姿を持った娘に、相応しい部屋でどんな貴婦人にも負けない生活をして欲しかったのだろう、とオリイは何となく彼女の気持ちを拝察していった。

 レーニエ自身の趣味は、この際全く考慮されなかったようだった。

「だけど、これじゃあファイザル様にあまりに気の毒だわ。

 もしレーニエ様のお顔を見にこちらに来られたって、こんなお花やリボンだらけのひらひらしたお部屋じゃあ、おくつろぎになれないと思うもの」

 しかし、サリアは内心、禁欲的な軍服に身を包んだあの精悍な男が、この部屋でレーニエとお茶を飲んでいるところをちょっと見てみたい気もすると思っていたが。

 さて、どんな顔をされるか、これは見ものだわ。とびきり可愛い茶器で歓待して差し上げないとね!

「レーニエ様、お気に召されまして?」

 笑いを堪えてサリアが尋ねる。

「え? う、うん……まぁね。でも随分美しい部屋だなぁ。気を付けて汚さないようにしなければ」

 以前使住んでいた野趣の深い小さな古い屋敷、そしてノヴァゼムーリャの重厚な領主館と、華やかさとは無縁の生活空間に身を置くことに慣れていた姫君は、些か見当違いな感想を漏らした。

 以来レーニエはこの部屋を使っている。


「母上!」

 レーニエはまるで赤ん坊の揺り籠のように可愛らしく飾られた寝台の上に、慌てて身を起こした。

「お、おはようございます! 私、寝過ごしてしまったようで! 今何時なんどきでございましょうか!?」

 身に付けている寝間着はひだ飾りやリボンがたっぷり遣われたもので、そのくせ肌がやや透けて見える程上質の亜麻織物であった。勿論これも彼女の母が整えたものである。

「ああ、寝ておられよ。オリイからあなたが少し伏せっていると聞いたものでね。様子を見に来たのです」

 敷布を剥いで寝台から身を下ろしかけた娘を押し戻してソリル二世は鷹揚に微笑み、自分は枕もとの椅子に腰を下ろす。

「はい、蒸し布。冷たい飲み物はここですよ」

 女王はオリイから渡された盆を示した。国王自ら娘の起床の世話をする光景など、元老院のお歴々等は想像がつかぬに違いない。

「しかし、ご公務中では? 先触れもなく、こんなところに参られてよろしいのですか?」

 手ずから差し出された熱い布を恐縮して受け取り、顔に押し当ててレーニエは当然の疑問を口にした。怠惰を嫌うこの人は普段夜明けとともに起き、夜遅くまで執務に就いている。

 確か午前中は午後から行う様々な公務の打ち合わせを行ったり、内務省に詰める時間帯ではなかったか。

 自分がこのような時間まで寝ていたことを叱られると思いきや、却って気に掛けさせてしまうなんて、とレーニエは恥じ入って項垂れた。

「母が娘を気づかうのに何の遠慮がありましょうや? まぁ、書記官は慌ててはおったが、まぁ暫く慌てさせておきましょう(少しは慌てりゃいいのよ、いつも人をこき使って!)。

 少し早いですが、一緒に昼食を取ろうと思って用意させています。眠っていたのでしょ? 朝食も摂っていないようですね。昨夜はあまり眠れなかったと見える」

 ふふふ、と意味ありげな笑いを浮かべながら、女王は娘の乱れた髪を直してやった。

「わたしは別に体調が悪いわけでは! は、ははう……え? 何をご覧に?」

 レーニエはどぎまぎしながら、剥き出しの首筋や布に透ける腕を凝視している母親を見上げた。

「まぁまぁ。こんな赤い頬をするそなたは初めて見ますね。なかなかに可愛らしい。これではファイザル殿もさぞやご満足であったろう」

 薄布を透かせて所々に紅色の痣があるようだ。それは決して鮮やかな痕でも、直接見える所にもつけられている訳でもないが、それだけに男の執着が垣間見れるような気がして、女としては興味深くとも、母親としてはやや複雑で微妙な表情のアンゼリカであった。

「えっ!? は、母上、一体何をおっしゃられ……」

「実はね、朝一番に将軍殿と謁見をいたしましたの。かなり強引な申し出でではありましたが、どうしてもと言う事でお会いしたのです。さすがに迅速な対応でした」

「え? ヨシュアと?」

「ええ。それで体はお辛くありませぬか」

「え!?」

 余りの事にレーニエは恥ずかしがるのも忘れて母親を見つめる。

「ふふふ。これはまた酷いうろたえようですね。ファイザル殿はもっと落ち着いておられましたよ。まぁ、あの方とそなたではいろいろ違いはありましょうが」

「あの……母上は一体何を? その、ヨシュアから何かお聞きに?」

 傍目にも可哀そうなほど狼狽うろたえ、レーニエは敷布を掴んだ。

「そんな事を聞くのは下世話に言う野暮と申すもの。この母も教えて差し上げられませぬ。ただ、大事な娘をキズものにした責任はきりきり負うて貰うとは厳しく申し上げました」

 女王は真面目な顔になってレーニエを見下ろした。

「傷? 私はどこも傷ついてなどおりませぬ。母上、あの方に何か申されたのですか? 例え母上だろうとヨシュアに手出しはさせませぬ!」

 レーニエはガバリと起き上がった。赤い瞳がキラキラと

「ぷっ! うぷぷぷぷぷ」

 散々努力して保ってきた真面目な顔を終に崩し、エルファラン国女王ソリル二世は大口を開けて笑い転げた。

 普段周囲を睥睨へいげいする威厳を身に纏った女王の姿しか知らぬ者にとっては、このような姿はさぞかし仰天ものであったろう。

「あは、あはははは!」

「ははうえ? あのぅ……」

 レーニエは唖然として生まれて初めて見る母の爆笑を眺めている。

「レーニエ、レーニエ。そなた、なかなか堪りませぬな。これではファイザル殿もさぞやご苦労を……いえ失礼。しかしまぁ、オリイの教育が良かったのか、悪かったのか、私も久しぶりに笑わさせていただきました。うふふふふ」

 まだ笑い収められず、喰えない母は体をゆすっている。

「オリイの手引きの腕前はなかなかの物でありましたろう? ファイザル殿も感心しておられたが」

「では……! 夕べ……」

「そう、あれには昔から私の悪事の片棒を担がせておりましたからねぇ。ええ、ええ、私がそそのかしたのです。そなたがあまりに屋内に閉じこもってばかりいるものだから」

「……」

「そんなにあっけに取られなくともいいではありませんか? 女王といえどもお堅いばかりではありません。これでも昔は私もそなたの父上とはいろんな悪さを致しましたからね」

「悪さ?」

「まぁ、今はまだ言いますまい。その内話してあげましょう。それでしつこいようですが、具合はどうですか?」

 まだ笑いの 残滓ざんしを口元に残し、女王は改めて娘に向き直った。

「少しだけ体がだるいかも。あとは眠いだけで……」

 自分がどう誤魔化したところで全て見抜かれているのだろうと観念したレーニエは、正直に今の状態をあっさり白状する。

「なるほど、最初はまぁそんなものです。寝間での殿方のお振る舞いには驚いただろうけど」

「少しだけ」

 額まで真っ赤になり、レーニエは女王の前でありながら掛布で顔を覆ってしまった。

「ファイザル殿はお優しかったのでしょう? 今朝もあなたの体をしきりに案じておられた」

「そ……デスカ」

「まぁ、そなたも早く回復されて、できたら今日中にも顔を見せて差し上げるがよい。少しはここから外に出てね」

「は……はい。そのようにいたします」

 レーニエは尚も顔を隠したまま、小さく呟いた。


「ご昼食の用意が整いました」

 その時サリアが遠慮がちに寝室に顔を出した。

「こちらでお上がりになりますか? それともお居間で?」

「そうねぇ。レーニエや? どうしますか」

「起きます。病でもないのに寝台で食事をとるなど、懸命に働いておられる人びとに対し恥ずべきこと」

 そういうとレーニエは思い切って布団を剥ぐ。

 ——おお、おお、お固いこと

「まぁ、あまり無理をせずに」

「大丈夫です。サリア、ガウンを。顔を洗う。髪を梳いて」

「畏まりました」

 レーニエは勢いよく寝台を滑りおりた。

 朝食を摂れなかったレーニエの為に用意された昼食は、いつもより品数が多かった。

 焼きたての軽パンにふわふわの菓子、それに添える蜂蜜やクリーム、果物の甘煮。冷たいスープは澄んでいてきれいな形に切った野菜が色とりどりに浮いている。

 肉類は少なく、替わりに甘味を付けた乳酪にゅうらくと炒り卵が用意され、生の果物を沢山盛った大皿もある。いずれもレーニエの好物ばかりであった。

「まぁ、まるで修道院の食事のよう」

 娘と二人で食事をとるのは何年振りだろうか? そう思いながら女王は明るい窓際に設けられた席に腰を下ろす。開け放たれた窓から初夏の風が絶え間なく流れ込んできていた。

「そうでしょうか? ノヴァの地は美味しい野菜が沢山取れるので、つい我が食卓もそうなってしまうのですが」

「ですが、肉類も多めに取らないと体ができませんよ」

「はぁ。何度か注意されました。夕食にはなるべくそうしているつもりなのですが」

「そうなさい。あなたもいつかは御子を、と望まれるのなら」

「え?」

 レーニエは、サリアが渡してくれるいた果物の小皿を取ろうとしたまま固まった。

「どうなのですか? 欲しくはありませんか?」

「子……私にも出来るのでしょうか?」

「そうですね。望めば、多分。ただオリイの話ではあなたは初潮を迎えてまだ二年ぐらいとか。ですからすぐと言う訳には行かないかもですが。その時の為にも今から体をつくらなければ」

「……」

 うっとりとレーニエはあらぬ方を眺めていたが、突然我に返ると果物の皿を脇に置き、花びらのような形に盛られていた燻製肉の薄切りに手を伸ばした。自分で皿に取り分けるとむしゃむしゃと食べ始める。

 ——わかりやすい子だこと

 女王は微笑んだ。サリアもにこにことその様子を見守りながらお茶を入れたり、冷たい飲み物を甲斐甲斐しく給仕している。

「まぁ、御子の事はさておき、その前にする事がありますでしょ」

「はぁ」

 レーニエはまだ頑張って食べている。

「はぁ、じゃないでしょ。直きに花嫁衣装が出来上がります」

「え!?」

 驚いてレーニエはナイフを置いた。

「花嫁衣装? そういえばそんな事を聞いたような気もしますが」

「あのねぇ。御子もいいけれど、もう少し身近な予定の事を考えて下さいね。実はね、そなたがノヴァの地から戻って、私に休戦使節大使を願い出てからすぐにオリイに準備させておりました。近々こう言う日が来ると思ってね。

 あれやこれやで仮縫いもできませなんだが、寸法は大体はわかりましたからね。もうすぐしたら試着に持って参ることでしょう?」

「私の……で、ございますか?」

「他の誰に必要だというのです」

「はぁ」

「残念ながら、華々しい式典は上げてやれませぬ」

「式典などは、私は望んではおりませぬ。ヨシュアも、きっと」

「まぁそうではありましょうが、これはある意味あなたのお披露目でもあるのです。わが弟ルザラン、その子ども達、元老院議長オリビエ、そしてオリイの家族には参列してもらおうと思うのです」

「そうですか」

 式典その物にはあまり興味が持てない様子のレーニエであったが、ふと思い出したようにサリアを見た。

「そう言えばフェル、フェルナンドはどうしているの?」

 フェルディナンドはレーニエと共にファラミアまで帰って来たが、一日王宮で休息しただけで、中断していた学問の続きを受けるため、慌ただしく士官学校に戻っていたのだ。

「はい。一昨日会った時には元気にしておりましたよ。相変わらず生意気で。ヒューイも同様ですが、彼は王立科学院で学びたいとも申しておりました」

「そうなの? 一度会いたいな。フェルの通う学校の様子も見てみたいし……母上、構わないでしょうか?」

「ええ、段取りさえきちんとつけるならね。あなたは都の事をあまりに知らなさ過ぎますし。王宮内も立ち入り禁止のところを除いて自由に歩き回って構いません。ただ目立たないようにするのですよ。あなたの容姿がどうのというのではなく、これは婦女子ならば当然のこと。現在都の治安は下町も含めて概ねいいとは聞いていますが、それでも万が一という事もある。我らの知らぬ小路や横丁もあるであろ。必ず事前に報告し、複数の護衛官とサリアには必ず付き添ってもらう事」

「はい」

 レーニエは素直に頷いた。

「そなたはこの地で生まれたのにも拘らず、この地の事を殆ど知らないでしょう?これから都は一年で最も華やかな季節を迎えます。住めば都とはよく申したもの。そなたも少しは楽しまれるとよい」

「そう——致します。ご厚情感謝いたします」

「だけども、不用意な行動はお控えなさいね。どうもあなたはそういう傾向にあるとファイザル殿もおっしゃられていたし」

「ヨシュアが? ひどい」

 レーニエはファイザルが一体何を母に言上したのか非常に気になった。身に覚えはたくさんある。今まで幾度叱られたことか。

「まぁまぁ。彼は正直なだけですよ。

 それで結婚式の話に戻りますが、ファイザル殿の方は特に御身内の方はおられないと言う事なので、フローレス、ドルリーの両将軍が親代わりにおいでいただけるようです」

「はい」

「準備や段取りはすべて私に任せて、あなたはそれまでご自分に磨きをかけられるとよい」

 結っていない髪が緑の風に揺れる。ゆったりした簡素な白い服を無造作に纏ってお茶を飲む娘は、母親の目から見てもたおやかに美しかった。

「は……い」

「あなたはただ愛されることだけを考えておればよい。宝石も衣装も欲しい物があればオリイに申しつけなさい」

「は。でも、私は……その」

「いいのです。たまには母親らしい事をさせて下さい。そなたには随分長い間、辛い思いをさせてきたのですから」

「そんな……そのような事は今は少しも感じておりませぬ」

 不意に声が途切れる。女王は哀惜とも悲哀ともとれる表情を浮かべて、娘の赤い瞳を覗き込んだ。

 この娘の不思議な容貌。王家にも公爵家にも見られない髪や瞳の色は一体どこから来たのだろうか?

 あの塔の上の暗い部屋で初めてレーニエを見た時、父も含め、王家の罪を一身に背おうた運命の子どもだと感じた。

 今ならばわかるが、それは強(あなが)ち外れていた訳ではなかった。

 あのような劣悪な環境で幼児期を過ごし、その後十年以上に渡る隠者のような暮らしを強いていたにも関わらず、この娘の美しい性質は損なわれることはなかったのだ。

 ——運命の子、か……

 小鳥は雄雄しく羽ばたいて古巣を捨て、終に自分の力で新たな巣を大樹の上に掛けた。これが運命の子と言わずしてなんであろうか。

「今まで済みませなんだな。レーニエ」

「いいえ、いいえ母上。私は、これでよかったのだと思っております。確かに辛い時期は長ごうはございましたが、おかげで私はヨシュアに会えた」

「ええ、あなたの申す通りです。繰り言は似合あいませんね。これは喜ばしいことなのですから」

「はい」

「式は一月後です」

「一月、ですか?」

「そなたは一刻も早く彼の北の地に戻りたいのでありましょうが、ファイザル殿のお勤めの事もある。彼は戦の後始末や、軍の再編成で死ぬほど忙しいと聞きます」

「その—ようです」

「しかし、それが済んだらならしばらく休暇を取られるがよろしかろう。あの方もずいぶん長く苦労をされたようだから。二人でゆるりと過ごされるがよい。ですが、それまでは」

「……」

「この母に娘孝行をさせて下さい。あなたに負い目などもうない。もともとそなたに負い目など何もなかったのです」

「——母上。ありがとうございます。どのように感謝の言葉を申し上げたらよいのか、私にはわか……わかりませぬ」

 レーニエは瞳を潤ませて俯いた。

「まぁ、そう堅苦しく振る舞うものではありませんよ。私たちはこれからも親子なのですからね。さぁ、お顔を上げて!」

 母は娘の柔らかな頬に指を添えた。

「はい」

「レーニエや」

「はい?」

「幸せですか?」

「はい!」


 きりりと眉を上げ、レーニエは莞爾かんじと微笑んだ。




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