第104話103. 帰還 8
時間を少し遡る。
ファイザルは、場違いな宴の始まりから着飾った人々から煩わしく話しかけられても忍耐強く、且つ礼儀正しく応対した。
戦の話を聞きたがる貴族も多かったが、女性たちからの秋波は露骨で、こっそり耳元で自分の部屋の場所を囁いていく剛の者もいる。
こう言う時、社交家のセルバローならもっとスマートにあしらえるのだろうが、いかんせん、自分はそれほど口が達者な訳ではない。
そのセルバローは食うだけ食い飲むだけ飲むと、気に入ったご婦人とどこかに消えてしまった模様である。相変わらずこういう事には抜群に手際がいい。
セルバローの奴め、どこへ雲隠れしたんだか……ったく、こんな時だけは奴が羨ましい。
ファイザルは白い服の貴婦人を席に送りつつ目立つ赤毛を探したが、雷神の姿はどこにもない。
「ファイザル様はどなたか決まった方はいらっしゃるの?」
体を離そうとした彼を引き留めるかのように腕に手をかけ、女性が問いかける。やや潤んだ瞳の意図するところは明白だ。
しかし、ファイザルが何も答えないうちに元老院の重鎮だという、初老の紳士から彼の末娘だと紹介された肉付きのいい若い婦人と、またしても踊るはめになった。
我ながら舞踏は下手ではないつもりだが、こうも押し付けられるのは辟易だ。国王が退席した後だから仕方のないのかもしれないが、この広間全体が薔薇色に浮かれているようだった。
伝言の主は分からなかったが、これ幸いと周囲に丁寧に断って、広間の隅で書きつけを読むと、送り主はなんとオリイだった。
ーー二階正面の廊下にて。僭越ながら、同封のものはお好きにお使いくださいませ。全て了解済みですので。
伝言に添えて優雅な形の小箱が添えられている。それには文字が彫りつけてあった。ファイザルは小箱の中身を確かめると無言でそれらをポケットに捻じ込み、急いで広間を後にした。
伝言通り、一つだけ空いていた二階の回廊の扉を開けると、薄暗く冷たい空間に幽玄のような人影が浮かんでいる。正面の柱に背をあずけてうつむくレーニエの姿であった。
自分がここに来ることを知らないのに違いなかった。
ファイザルは、愛しさとも切なさとも言えない感情で胸が満たされるのを感じ、足早に近づく。淡い金色の柔らかいドレスの胸元が大きく刳れている。
あんな服を着せてはいけないな、と勝手な考えが頭をよぎる。宮廷ではどんな男が見ているかわからないのに。こんなに無自覚で無防備では少しも安心できない。
自分の中の獣が鎌首をもたげる。ファイザルは逸る心を抑え、足音を忍ばせた。まるで獲物を狙う猛獣のように。
声をかけると驚いたように顔を上げる。自分が発する言葉に素直に反応する姿はあどけなくも、蠱惑に満ちて。
暗がりの狩りは楽しかったが長く続ける気はない。
唇を奪い、首尾よく舞踏に
甘い旋律が心まで痺れさせてしまうようだった。
如何に巧みにリードされているとはいえ、レーニエは慣れない舞踏にやはりどこか緊張気味な様子である。全て自分が導くつもりであった。
ーーが。
男も次第に募る焦燥感に身を焼くことになる。
薄い布越しに感じる柔らかな肌の感触。体つきは華奢なのに、腰を包む掌にはその下に続くはずの曲線の気配を伝えてくる。
レーニエの好む帯の結ぶ位置も、豊かになりつつある乳房を強調するようで、どうせこの衣装を着つけたのも有能極まりない官女オリイなら、そのけしからぬ意図は見え見えだった。
ならばその意図に乗ってやろうと、ファイザルは踊りながらも遠慮呵責なく魅惑的なその谷間に視線を注いだ。
レーニエが何も気づかない事をいい事に、ファイザルはどんどんその体に触れてゆく。しかし、その事で追い詰められていったのは他でもない自分の方だった。
初夏の夜風はどこか艶めいて広い空間を吹き抜けてゆく。
「もう限界だ」
「え!? あ、あの?」
立派な外廊下は回廊よりさらに薄暗い。当然だ。二階以上は立ち入り禁止になっている。きっと階下に向かうどこの扉も固く閉ざされているのに違いない。
しかし、ファイザルはこの建物の構造をざっと見ただけで看破した。まるで以前から知っていたように、幾つもの廊下を抜け、階上に向かう階段を上がって行く。
三階……四階……五階。そこが最上階だ。
「あのヨシュア……? どこへ行くの?」
ファイザルの腕の中で揺られながら不安そうな声が揺れる。
「オリイさんから預かった鍵の合う部屋へ」
そっけない短い返答。レーニエには何の事だかさっぱり分からない。ファイザルの腕に抱かれたままどんどん廊下を運ばれてゆく。
「鍵? でも、私は帰らなければ……皆が心配するかも」
「それもオリイさんが手配済みです。有能な方ですね? 私の片腕になってもらいたいくらいだ」
「……?」
一番奥の部屋でやっとファイザルは立ち止まった。上着の中から小箱を取り出し、蓋に刻まれた文字が扉に彫りこまれた文字と同じだと確認する。
親指で箱を開けると小さな鍵が掌に滑り落ちた。鍵穴に差し込む。乾いた音がして扉が開いた。
当然真っ暗だと思われた室内に小さな灯りが灯っている。これもオリイの仕業だろう、ファイザルは秘かににやりと笑った。
ぼんやりした明りに照らされた部屋は貴賓室のようで大変豪華な
しかし、明かりのおかげでぶつからずに歩けそうだった。そして闇を透かした奥にはおそらく寝室に続くと思われる扉があった。
背後でもう一度鍵のかかる音がして、室内は完全に閉ざされる。
「ヨシュア……?」
細い声は不安に満たされていた。突然の展開に怯えているのだろう、微かに震える体。関節が白くなるほど強く軍服を掴んでいる。
「大丈夫です。怖がらないで」
ゆっくりとレーニエを下ろし、背後から優しく抱きすくめながら耳たぶを舐めるほどの距離で男は囁く。安心させるように触れるだけのキスを髪に幾つも落とした。
「レナ……俺がどんなにあなたを愛しているかわかりますか?」
「う……うん」
「じゃあ、これから起きることもわかる?」
自分の体を華奢な腰に押し付けると、はっと身じろくように顎が上がった。
「ね?」
そのまま唇が首筋を這い、交差された手の平が胸の隆起を包み込む。
「……っ!」
細く息を引く気配。
「抱きたい……レナ」
首を滑った唇が袖を吊っている紐を
それはまるで絹の鞘が緩み、生まれたての蝶が現れてくるのにも似て。
「あ、の……」
たっぷりと当惑を含んだ声さえ快く。
「俺のものになるのは嫌ですか?」
「い……や、じゃない」
ふるふると首を振るも、言葉に反して震える肩。
「でも怖いのでしょう? 正直におっしゃい」
レーニエの心中を慮って助け舟を出してやると、素直に顎がこくんと下がった。その顎にも口づけを落とす。自分が彼女の怯えを分わかっていると知ったほうが気が楽になるだろう。
だが、どんなに怖がっていたとしても、もう引き返せないことも教えなくてはならない。
「大丈夫、全て俺に任せて。ずっと待っていた……一度は諦めた。だからもう待てない。レナ、あなたを俺のものにする」
低く熱く囁く声にレーニエは再び小さく頷いた。
緩んだ衣服が軽い音と共に足もとに滑り落ちた。衣服自体は柔らかい布でできているはずなのに、音だけはやたらと大きく聞こえた。夜になっても寒くない気候なのに細かく体が震えだすのを止められない。
流石にレーニエにも彼の言葉の意味するところを理解できるようになってはいた。やたらと大きな動悸の音が自分の頭蓋に響いている。
おそらく胸を覆っているファイザルの掌に、自分の鼓動は直接伝わっているのだろう。
いつかはこうなる事を頭では分かっていたはずなのに、心が、体がついて行けていない。以前ノヴァの地で確かに経験したはずだった。どうやら途中までのようだったが。
や、なんで、今頃になって震える……これでは情けない自分がこの人に分かってしまうではないか!
「ヨシュア……」
泣きそうな声は酷く混乱した胸の内を表している。しかし、彼は何も言わず、宥めるように震える肩を優しく抱きなおしただけであった。
しかし、男のほうも平常心とはかけ離れた心境を持て余している。
掌の中の乳房は蕩けるように柔らかくしっとりと皮膚に吸いついてくる。今すぐ荒々しく覆い被さり、全てを奪ってしまいたい。けれども性急にしてしまっては一層怯えさせてしまうだけだろう。
長く戦場にあった彼にとって、このような衝動を覚えるのも、それを抑えつけるのも久々の経験だった。
怖がらせてはいけない。ゆっくり時間をかけて体も心も
だが。
頭では分かっているのにーー。
信じられないくらい体が急いている。
小僧ではあるまいし……なんて体たらくだ。
ファイザルは己を嘲笑った。
それ程この娘に狂わされている。舌打ちしたい気持ちを打ち消すため、抱きしめる腕に更に力を込めた。レーニエが漏らす溜息が手の甲に懸る。
逸るな。この娘はもう俺のものだ……ゆっくり溶かしてゆく。
肌を晒した肩を自分の熱で包み込むように包んでやる。
「随分うろたえておられる」
しかし、嫌だと言われてももう引き返せない。
背に流れる髪を分けて白い背中を露わにすると、ファイザルは背骨に唇を押しあてた。脇の下から差し伸べた手は両の乳房に柔らかく触れている。
「は……」
頂を指の腹で摩擦される甘い痛みにしなやかな背が
熱い唇は脊椎を愛撫しながらゆっくりと下がり、腰の窪みに辿りついた。レーニエの体の硬い部分も柔らかい部分も溶かされるように触れられ、熱くされてゆく。
「や、ヨシュ……」
大きな掌と唇で与えられる甘い刺激は、次第にレーニエの足から立っている力を奪っていった。しかし、ふらつく体は腰に回る腕でしっかり支えられ、逃れることは叶わない。
支えるものを求めて普段よりずっと低い位置にある逞しい肩を必死で掴んだ。
「そう。俺に体を預けて、力を抜いて」
聞き慣れた大好きな声が先ほどの舞踏の時と同じことを囁く。
いつの間に立ち上がっていた彼が首筋に顔を埋めた。こんなに近い距離なのにまるで違う次元から聞こえるよう——熱く濡れた舌が肩の稜線をなぞってゆく。
「あっ……!」
そして
レーニエの膝が崩れた。糸の切れた操り人形のように——
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