第103話102.帰還 7
「ヨシュア!」
円柱を背にしていなかったら、後ろへ仰け反ってしまったかも知れない勢いで、レーニエは顎を上げた。見間違いではない。たった今まで上から見ていたのと変わらぬ姿で長身の男が立っている。
「な……何で?」
訳が分からないと言った呈で眼を瞠る姿も好ましい、とファイザルは思った。
「俺を置いて帰ってしまわれるつもりだったのですか?」
「え? だって、私はもともと出席する予定ではなかったし……オリイが是非にと言うからちょっとだけのぞきに来ただけで……それに、あなたはたった今まで下に」
「ええ。大変でした。皆、成り上がりの俺が珍しいらしくて、話のタネにしようと集まってくるし」
「そんな……皆あなたを崇拝しているんだ。救国の英雄だと。それに、あなたも楽しそうにしておられたではないか」
「そりゃあ、陛下の後ろ盾で将軍にして頂いた成り上がりの身としては、そうそう無愛想にも振る舞えません。それに俺だって年齢相当の経験を積んできていますからね。社交辞令の一つぐらいなんとか言えます。陛下のお顔を潰さない程度には」
「だけど……さっきの赤い服のご婦人はうっとりとあなたを見つめていた。とてもおきれいな方だった」
「赤い服のご婦人? さぁて、俺は赤と言えば、あなたの瞳以外は目に入らないので覚えておりませんな。ああ、そう言えば、なかなか肉付きのいい腰の感触が掌に……おや、レーニエ様どちらへ?」
ファイザルの言葉に、くるりと身を翻して去ろうとするレーニエに二歩で追いつき、ファイザルはその腕を取った。
「帰る!」
「ですからどちらに」
「瑠璃宮!」
振り向きもしない。ツンと頭をそびやかし、白い肩をいからせて、レーニエは怒っている。大変珍しいことだ。
「あなたはあちこち豊かな美しいご婦人とお好きなだけ踊られるがよい」
「それは構いませんが。あなたはお一人で大丈夫ですか? ここから瑠璃宮は結構離れていますが」
「子どもではあるまいし、一人で帰れる。離して!」
力任せに身を
「離せと言うに!」
頑固に前を見据えたまま、レーニエは声を上げた。
「まぁそう駄々を捏ねるものではありません。宮廷一の美姫が台無しです」
後で錆びた低い声が囁く。熱い吐息が項にかかり、遅れ毛が首筋を撫でる。薄い肩がびくりと竦んだ。
「せっかくオリイさんが伝言を下さったのに」
「え!?」
意外な言葉に思わずレーニエは振り返り、思いがけない程近い距離に彼の顔があるのを知ってはっと身を引いた。
「オ、オリイが? なに? なんと言っていたのか?」
大きな掌に腰が絡め取られている。触れられた部分が心なしか大層熱い。努めて平静を装いながらレーニエは、なんとか威厳を掻き集めた。
「も、申してみよ」
「あなたがここにおられると」
「なんでそんなこと……そうだ、オリイはどこ?」
「オリイさんならとっくに戻られました」
「え? そんなだって、それじゃ帰れな……」
「それ見なさい。一人では帰れないんじゃないですか」
「う〜、うるさい! 来た道を覚えているからなんとかなる」
うっかり漏らした一言に突っ込みが入り、進退極まったレーニエは珍しく悪態をついた。無論そんな事ぐらいでこの男が動る訳もなく、余裕の笑みを浮かべている。
「帰る」
「……」
「帰れるんだってば!」
「まだ言いますか、この可愛い口は」
身を屈めた男の指が顎を攫い、熱い唇が触れた。レーニエの柔らかなそれを楽しむようにしばらく包み込み、ゆっくり離れてゆく。
「……っ!」
レーニエの頬は紅潮し、瞳は零れ落ちそうなくらい見開かれていた。それに比べて男は悪びれもせず余裕たっぷりで、憎らしい口元は吊り上がったままで。
「おや? お嫌でしたか」
「ち、違……突然で驚いただけだっ!」
抗議の声は、しかし弱々しく。
「ふふふ……申し訳ありません。こんな
ふっと男の眉が下がった。腕の中の娘が可愛くてならないと言うように。
「なんで謝る……」
怒りの行き場を失ったレーニエの声は更に弱い。ファイザルは仄かに金色に光る衣装を身に付けた娘をつくづくと眺めた。
「おきれいです」
「え!?」
「俺はこんな不調法者で美しさを表す語彙など持っていないが、そんな服を着ていると、まるで月の精のようだ。誰にも見せたくない」
「そ、そんな……私なんてちっともきれいじゃない」
姫君はまだご機嫌斜めのようである。
「そうだ、一度聴こうと思ってたんだ」
ふくれっ面の横顔を珍しいものを見るように眺めていたファイザルは、唐突に全く別の事を言った。
「な、何?」
レーニエは新たな攻撃に備えて身構える。
「俺があなたの傍を留守にしていた間、ここに触れた者は誰もいなかったのですか?」
男の人差し指がゆっくりと唇を滑った。
「願わくば俺が触れたのが最後だと思いたい……」
階下からは人々のさんざめく様子が伝わってくる。
暫く二人は無言で見つめ合っていた。
「ええと……」
小首を傾げてちょっと考えていたレーニエは、無邪気に言い放った。
「残念だが……実は一人の殿方に許してしまった」
「え!?」
「実は最近、我が領地に新しく参られた紳士がいらして。それはそれは麗しい殿方で……この春、私が都に出立する折、ご挨拶に伺った時の事なのだが」
「なんですって!? それは挨拶という意味? 触れられたのは唇だけですか?」
レーニエの腕を掴む手に力が籠った。
「どうだったかな? ……ああ、そうだった。それがなかなか激しくて……唇も顎も、鼻の頭までびしょびしょになってしまった。私もつい夢中になって、腕に抱いて頬ずりして……」
「……」
ファイザルは言葉もなく呆然としている。
「うっとりしていたら……」
「一体どんな奴だ!」
辛抱堪らぬ様子で終に男は声を荒げたがレーニエは平気だった。
「腕の中でおもらしされてしまって往生してしまった」
悪戯っぽく眉が上がる。
「え? おも……らし?!」
「殿方の名はディーン殿。この春先にお生まれになったオーフェンガルド殿とナディア殿のご令息にあられる」
「……っ!」
百戦錬磨の軍人が愕然と顎を落としている。平常時ならば、決して乱れる事の無い男のまごつく様子を見て、ふふ、と銀の髪の娘は笑った。
「やった! 見事にひっかかった!」
「レナ……」
騙されたと知って、何とも言えない顔のファイザルを見てレーニエは笑いが止まらない。よほど嬉しかったのか、体を折って笑い転げている。その姿は街で目にする娘達となんら変わりはなかった。
「あなたでもそんな顔をするんだ! あははは!」
「……おいたが過ぎやしませんか?」
美々しい将軍の正装をした男は力なく言った。
「だって……だって、さっきはあなたがあんまり私をからかうから……」
「からかったつもりはありません。だから……」
「うふふ」
まだ笑いを治められない姫君はするりと彼の腕をすり抜け、背後の柱の陰に走った。
「い〜や、絶対からかった。だから仕返し」
そう言いながら別の柱に逃げてゆく。
「……俺から逃げられると思うんですか?」
ファイザルはきらりと瞳を光らせる。獲物を見つけた狩人の瞳だ。
「逃げて見せるとも!」
そう言ってレーニエは、スカートの裾を揺らして更に奥の柱の陰に隠れる。
「言ってなさい!」
ファイザルはばさりとマントを翻した。
下の大広間から管弦の響きが賑わしく始まった。再び舞踏が始まったらしい。軽快な曲が流れる中、薄暗い回廊で無言の追いかけっこが展開する。
柱の陰から別の柱へ、レーニエはひらひらと蝶が舞うように逃げた。
エンタシス様式の円柱はちょうど彼女が隠れるに十分な幅で、しかも互い違いに立っているものだから隠れる場所に不自由しない。
いつもの男物の服を着ていなくても、彼から逃げるのは簡単だと思った。こんな遊びは小さい者の方が有利だし、黒い大きなマントの裾が彼の居場所を教えてくれる。その反対方向に逃げればいいのだ。
しかし、本当はレーニエにも勝負の行方はわかりきっていたのだ。自分の体力や知恵でファイザルに勝てるはずもないことくらい。
ただ、レーニエは解放された気分でこのひと時を味わいたいだけだった。
夜会には参加できなくても、黒髪の美女にはなれなくても、恋する男が自分を選び、見てくれているということに。
有頂天になってレーニエは逃げた。
あれ?
レーニエはちらりと隠れた柱から顔を出した。足音がなくなったので不審に思ったのだが、斜め後ろの柱に黒い布が見える。
なぁんだ。ヨシュア、丸見えじゃないか。
なら、真後ろに回って脅かしてやろう、そう思って身を反転させた途端、硬い物にぶつかる。
「きゃああ!」
「な〜んだ、大きな口を聞いたわりに、あっさりとっ捕まってしまいましたね」
「なんで!?」
向こうにマントが見えていたのに……すっぽりと胸に抱き込まれ身動きも出来ないまま、レーニエは疑問符を飛ばした。ファイザルが相好を崩す。愉快でならないようだ。
「俺のマントがあそこにあるのにって ?簡単です。あなたの意図がわかりましたから、さっさと脱いで、燭台に引っかけておいただけですよ。いやぁ、
「この……悪巧みを! ずる賢いにもほどがある」
「それは褒め言葉です。戦に勝つにはきれい事だけではできませんしね。さぁ、観念なさい」
そう言って彼はレーニエを抱きしめた。
「勝ちは俺です。姫、褒美を」
「褒美って? あ……」
掴まれていた腕が解放されたと思う間もなくふわりと抱きしめられ、圧し掛かるように背を屈(こご)めた男に塞がれる。今度は直ぐに離れようとせず、何度も擦り付けられる。
「ヨシュ……」
「甘い」
にっと笑ったファイザルは、戸惑うレーニエの唇を舌でこじ開け侵入する。熱く湿ったものが自分の中に入り込んでくる感触は確かに覚えがあった。
それはファイザルを想って眠れぬ夜に何度も再生した記憶——
ああ……
ずっとこうして抱きしめて欲しかった。口づけて欲しかった。
なのに……
自分の体の奥から突き上げる疼痛に怯え、レーニエは我知らず熱い戒めから逃れようと顔を反らした。
しかし、僅かに離れることも許さぬというように直ぐに追いつかれ、後頭を掴まれるとより深く挿入されてしまう。奥で縮こまるものを探り当てるとそれは生き物のように蠢いた。
レーニエの思考は次第に霞みが懸り、必死で逞しい胸に縋っているだけの頼りない自分を感じていた。
駄目。何も考えられないーーこれ……これではまるで子どものようではないか
レーニエの心中を知ってか知らずか、ファイザルは指の背で柔らかい頬を撫でてやった。腕の中の娘は悩ましく眉を顰め、難しい顔をしている。
「レナ……可愛い」
堪らぬように再び熱く覆う。巻き付いた腕に力が籠った。
一つの影となった二人を包む静かな旋律。先ほどの軽い舞曲と異なり、それは甘美な円舞曲の弦の調べ。
「踊りませんか?」
漸く唇を離してファイザルが静かに尋ねた。乱れ前髪を指で後ろに撫でつけてやる。白い額が露わになったが、その下の瞳は自信無げに伏せられる。
「レナ?」
レーニエはまだ少しぼんやりしている。
「あ……うん、でも私は、そのぅ……実はあまり踊れないんだ」
何とか自分を立て直そうとしながらレーニエは恥ずかしそうに俯いた。
「子どもの頃セバストが楽器を弾いてくれて、フェルやサリアと舞踏会ごっこをして遊んだだけで……舞踏は正式に習ったことがない。でも、あなたはお上手だったね」
「ああ、士官学校の必須科目にありましたから。紳士の
「そう……そうなの」
ファイザルは先程外したマントを体に巻きつけると、レーニエの前で騎士の礼を取った。
「姫君、私と踊っていただけませんか?」
「うん。でもあの……どうすれば?」
「お手をどうぞ」
ファイザルは優雅に腰を折って手を差し出す。それはいつの間にか真白い手袋に覆われていた。
「下手だからきっと笑われてしまう」
レーニエがあまりに恥ずかしがるので、きっと男と踊るのは初めてなのだろうとファイザルは思った。柄にもなく口元が綻ぶ。舞踏も、口づけも、何もかも自分がこの無垢な娘に教えるのだ。
「じゃあ、仕返しの仕返しができるわけだ」
「……う」
「さぁ、私に体をあずけて」
「わ、私は手袋もしてなくて……」
レーニエはまだもじもじと躊躇っている。
「その方がいいです。さぁ」
おずおずとレーニエが差し出した手を握ると、ファイザルは滑るように一歩横に動いた。引っ張られるように流れた腰にしっかりとした腕が回される。
「そう。力を抜いて」
レーニエは初めぎこちなく体を強張らせていたが、ファイザルは巧みに彼女をリードした。
さすがに彼は場数を踏んでいるのか、大きな手が腰を支え、前に進むも横に流れるも、まるで自分の意志ではないように体が動く。
薄暗い回廊の奥で繰り広げられるたった二人の舞踏。
円舞曲は他の舞踏曲と違ってあまり体が離れることはない。腕を伸ばして女性を回し、すぐに基本のステップに戻る。レーニエは体を委ねているうちに緊張が解けてくる。銀色の髪が階下の明かりに煌めいた。
「お上手ではありませんか」
「あなたが私を操っているんだ」
「こんなに軽いパートナーは俺も初めてです」
「さっきのご婦人は素敵に豊かだったね。私もあんな風になれたら」
レーニエは羨ましそうに言った。女性たちがどんなにか努力をして少しでも細く見せようとしているのを知らないのだ。
大きくて豊かなものに憧れるレーニエの心情は理解できない事もないが、その審美眼には些か疑問の余地があると思うファイザルである。
「俺は子鹿のようなあなたがいい」
耳元で囁いてやると、娘は照れて真っ赤に頬を染めて話を反らした。
「階下の様子も見たい」
「ん?」
するすると回廊の手すりに近づいてゆく。見咎められないような距離を残して。レーニエは踊りながら階下の様子を眺めた。他の人たちもこんな感じで踊っているのだろうか?
皆楽しそうだ。だけど……
ファイザルに指を絡められてレーニエはくるりと大きく回った。あまり広がっていないドレスの裾がふわりと持ちあがったかと思うと、スカートの裾が巻きつくくらい勢いよく抱きとめられる。
真横にステップを踏む時には腰が密着し、一歩踏み出す時にはレーニエの体を割るように膝が差し入れられる。
上から見る舞踏はこんなに体が接近していないようだが、見る角度が違うとこんなものだろうか、とレーニエは単純に思った。
けれど曲調とステップがどんどんずれてゆくーーような気がする
これではちょっと体がくっつき過ぎでは?
ホールの男女も同じように踊っているが、ここまで接近してはいないような気がしてレーニエはファイザルを見上げた。
とたんにさっと体が回され、柱の陰で抱き寄せられてしまった。しかし、どういう訳か今度はなかなか体が離れない。それどころか男が自分の肩に顔を伏せ、すがりついている。
なにこれ?
「ヨシュア? まだ曲が……」
怪訝そうにレーニエが見上げると、切羽詰まったような青い目とぶつかった。
「すみませんが……もう限界だ」
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