第102話101.帰還 6

 レーニエは、瑠璃宮の彼女に与えられた奥まった一室で大人しく夜を過ごしていた。

 サリアには一日暇を与えてある。ここにはオリイのかつての同僚である年配の侍女たちがいたし、女王の配慮もあって不自由は全くない。

 いつもレーニエを気づかって一緒に過ごしてくれるサリアに、王宮の祝賀を眺めるなり市中の祝賀の様子を見物するなり自由に過ごすように勧めると、サリアはしばらく渋っていたが、オリイまでが許可を出したのでやっと出かける気になって夕方からジャヌーと外出している。

「……」

 レーニエは露台に出てみる。気分だけでもオリイが言うので、レーニエは女王から賜った装いを身に付けていた。

 それは仄かに金色に光る最高級の絹が細い肢体に纏わりつくように流れている美しいものだった。

 レーニエは男物の服を着る時と違い、ドレスを着る時には帯を高い位置で結ぶのを好む。今着ている物も同色の帯が胸のあたりでふんわりと花結びにされていた。スカートの部分は薄い布が斜めに重なり合いながら床まですんなりと垂れている簡素なデザインで、袖は肩のあたりで危なっかしくふわふわしている。例によって金属の装飾品はなにも身に付けていない。

 今頃、皆楽しんでいるのだろうな……ヨシュアは……ヨシュアも、きっと……

 我知らずレーニエはため息をついた。

「レーニエ様?」

 背後に優しいオリイの声。

「何?」

「そんなところにいらっしゃらないで、思い切ってお出かけなさいませ」

「いやでも、私は……」

「人目に付きたくないといわれるなら陛下のおっしゃられたように、上から見物すればよろしいではありませんか」

「うん、でも……」

「ファイザル様にお会いになりたいのでしょう?」

「え? それは……そう。だけど……」

「オリイがこっそり案内いたしますわ。誰にも気づかれずに宴の様子をご覧になられるところに」

「……」

「それに、きっと楽しいですわよ。私が知る限りこんな大きな宴はずいぶん久しぶりですもの。舞踏だけでも見られるとよいですわ。それに新将軍のご正装を纏われたファイザル様をご覧になりたくはありませんか? きっとご立派ですわよ」

「そ、そうかな……?」

 オリイの巧みな勧めに、レーニエはようやく露台の手すりから身を離した。

「それが宜しゅうございます。さ、私についておいでなされませ」

 訳知り顔にオリイは片目を瞑ってみせ、レーニエの手を取った。


 オリイはレーニエが全く知らない王宮内の小道や回廊を熟知しているようで、瑠璃宮を抜け、するすると先導する。

 今夜は雲っていて月こそ出ていないが、主な庭園や、通路は赤々と灯がともされ、夜の散歩を楽しむ貴族や、警備の衛兵たちがあちらこちらにいるというのに、一度も見咎められることもなく、迎賓館として白亜宮一の豪華な威容を誇る金剛宮の裏側に出た。華やかな楽曲の調べが外にまで漏れている。

「こんな所、初めて来た」

 レーニエは頭から被ったショールの下から物珍しそうに周りを見渡して言った。

「左様でございましょ? レーニエ様は王宮の事を殆どご存じありませんもの。ご自分のお家だというのに。でも、ここはとても広いのです。まるで一つの街ですわ」

 オリイは使用人たちが出入りする裏口から入ると、すぐそばの階段をすたすたと昇ってゆく。どういう訳か、目があっても忙しそうな召使たちも、警備兵も何も言わずに二人を通した。

「さぁ、ここから下をご覧なさいませ」

 いくつかの通路を抜けて最後の大きな扉を開けるとオリイはレーニエを振り返った。二階は今夜は使われていないが、一階の吹き抜けで、主に大きな回廊と両側の桟敷席だけでできている。

 行事の種類によってはここにも客が入り、一階で催される演劇や演奏会なども見られるようになっていた。三階以上は遠方からの客たちの宿泊設備となっている。もちろん今日はどの部屋も使われていない。

 長い間、王城白亜宮ではこのような大きな祝宴や舞踏会は開かれていなかった。

 さもありなん。一部だけとはいえ、この二十年以上エルファラン国は常に戦時下で、戦争や軍隊というのは大変経費の懸る物だから大国とは言え、国庫は常に採算ぎりぎり、特にここ数年は戦費が嵩んで苦しい財政状態だったのだ。

 ソリル二世も、元老院もその事はよく承知していた。彼等が慎ましく暮らすことは他の貴族達にも影響を及ぼし、王宮の豪壮さとは裏腹に彼等は質素に暮らすことに慣れつつあった。

 彼女は怠惰を非常に嫌ったので、貴族たちは自ずから、王宮での役職を真摯にこなすか、領地の生産性や保安を高める事に精出すことを旨とした。最後に大きな宴が開かれたのは、女王の実弟ルザラン宰相に王子が生まれた時で、以来小宴会ですらも年に数度も取り行われる事はなかったのである。

 しかし今、長年の悲願だった戦争終結を叶え、しかも重要な鉱山地帯を失うことなく勝利したという事で、人々は大変浮かれていた。街でも、ここ王宮でも。

 少なくともレーニエにはそう見えた。

「桟敷席の方に行くと目立ちますから、こちらの広い場所で……ほらよく見えますでしょう?」

「……」

 レーニエは目を見張った。

 眼下の宴の素晴らしい盛況ぶりは彼女が初めて見る豪華な物だった。

 これでも、二階が解放されていない分、かつて行われた大舞踏会よりもよほど規模が小さいという事だったが彼女には信じられない。

 広間はノヴァの地の彼女の館の前庭くらいはありそうだったし、あちこちに置かれた大きな花台には零れんばかりの夏の花が飾られ、

 その傍らの大テーブルにはこってりとした料理を盛りつけた大皿が幾つも並べられている。

 壁際に優雅なドレープを描いて掛けられた布の陰では、久しぶりに会った恋人達が愛を囁いているのかも知れなかった。

 階下に繰り広げられる光景は彼女が初めて見る、華やかな物だった。

 ありとあらゆる美しい色の集積。

 花 花 花 

 絹 絹 絹

 弦楽器の音色に合わせて御婦人たちの纏う柔らかな布地は軽やかに舞い。

 そして——

 ホールの中央にファイザルがいた。

 レーニエの知らない美しい夫人と踊っている。


 広間中央は背の高い花瓶に盛られた花々と、ご婦人たちの纏う華やかな衣装で色彩の洪水。男性客や軍人達の着る濃い色の服が一層それらを引き立てている。

 普段ならレーニエは大いに楽しんだだろう。彼女は豊かな色彩が大好きだったから。そして、たくさんの人々が笑いさざめく様子も——。

 しかし、今レーニエはそれらを楽しめない。複雑な彫刻が施された円柱の陰にひっそりと隠れて華やかなホールを見下ろしている。舞踏は何曲か終わっているようで、既に女王の姿はない。おそらくレーニエが来たのは、挨拶と最初の舞踏を何曲か観覧したソリル二世が退席した直後だったのだろう。

 今は誰もが明るい曲に夢中になっている。皆戦争が終わったことを喜び、久々の開放的な気分に酔いしれているのであった。

 そして、それをもたらしたのは———

 闘将の誉れ高き英雄、ヨシュア・セス・ファイザル将軍。

 若く、精悍な風貌の新将軍は、人々の、特にうら若い貴婦人の熱い視線を集めていた。彼の出自を知る者も知らぬ者も、長く続いた戦争を終わりへと導いた彼の功績を認めている。今や時の人となった彼に言葉を掛け、または言葉を得ようと人々は躍起になっている様子だ。

 エルファラン王宮は質素・誠実を旨とするが、決して閉鎖的な訳ではない。一夜の恋の相手にこれほど相応しい相手がいようか。

 曲が終わり、ファイザルは踊っていた貴婦人を席まで送って行った。

 頬を染めて腕を差し出す女性の指先に軽く口づけすると恭しく一礼し、顔を上げるのと同時にすぐさま待ち構えていた婦人たちにとり囲まれている。女性だけでなく、彼に興味を持った貴族達も大勢いる。皆華麗な装いに身を包み、堂々と自分を主張していた。

 しかし、そんな中にあっても矢張りファイザルの姿は抜きんでている。黒を基調とする美々しい将軍の正装は、彼の長身と均整のとれた体格をよく引き立てていた。

 やや伸びて自然に流した鉄色の髪、引きしまった鋭い頬の線は、都で安穏と生活していた貴族の男たちにはない野性味に満ちている。なのに、決して野卑には見えない、生まれついての威厳。軍人らしく姿勢の良い長い手足の無駄の無い動きは、この男がいかに優れた戦士であるかを如実に示していた。

 レーニエが階上で見守っていると、やや困った様子で人々の問いかけに答えていたファイザルは、口鬚を捻りながら喋っていた恰幅の良い年配の男性に促され、彼の背後に視線を向けている。するとその男性が鷹揚にファイザルの肩を叩いた。どうやら、うっとりと彼を見上げていた黒髪の婦人の腕を取れと促されているらしい。おそらくその男性の娘なのだろう。彼はきれいな所作でその長身を屈め、黒髪の女性に騎士の礼をする。

 再び音楽が始まっていた。

 人々がさっと道を分けるただ中を、婦人の腕を取って広間の中央へ進む。長いマントの裾を優雅にさばき、ファイザルは胸に手を当て向かい合った女性に辞儀をした。彼女はそれに応じて可愛らしく貴夫人の礼をし、二人はゆっくりと踊りはじめる。逞しい腕はゆったりとした曲線を描く背に回され、もう一方は真珠色の手袋をした華奢な手を握っている。

 どなただろう? 美しい人……

 彼女はレーニエが秘かに憧れる黒髪を真珠のピンで纏め、大層美しい真紅のドレスを着ていた。

 唇もやはり同じ紅色で——頬を染めて笑いかけながらファイザルの耳元で何か囁いた。彼もにこやかにそれに応じている。

 軽快なリズムに合わせてくるくると女性が回る。回る度に揺れて広がるドレスの裾。そして、それを追うかのように翻る黒いマント。

 ファイザルのリードは素人目にも巧みであった。大きな広間の真ん中で踊る彼等を周り中が見蕩れていた。

 きれい……ああ、きれい

 そして彼ら以外にも沢山の男女がさざめきながら踊り始める。皆自分のパートナーを見つけたのだ。

 最初は物珍しくその様子を見ていたレーニエだが、どういう訳なのだろう、次第に心の底に悲しみがじわじわと満ちて来る。

 みんなきれい。なのに私はーー

 レーニエはついに瞳を伏せた。

 何故自分はこんなところに来てしまったのだろうか? こんな似つかわしくない場所に、似つかわしくない様子をして。

 皆とても楽しんでいる。ここは楽しむべき人達が集う場所なのだ——

 宴の様子はわかった。充分見られた。もう帰ろうとレーニエが振り返ると、さっきまで後ろに控えてくれていたオリイの姿が見えない。入ってきた扉の傍に立っていたと思ったのに。

「あれ? オリイ……? どこ?」

 レーニエは初めて不安になって、あちこちの柱の影を見て回った。回廊を回っているのだろうか? しかし、目を凝らして広い空間を透かして見てもオリイの姿は見えない。

 ただでさえ不案内な王宮。しかも、裏道ばかりを通って来たので、自分一人では何とか屋外に出られても、瑠璃宮まで返りつくことができないだろう。

 もうしばらく待ってみよう、もしかしたら飲み物を取りに行ってくれただけなのかもしれない。大丈夫、すぐにオリイは帰ってきてくれると、レーニエは再び階下へ視線を彷徨わせた。

 舞曲はいったん終わり、舞踏はどうやら一旦休憩に入ったらしい。人々はせわしなく動き回っている。

 レーニエは再び手すりの傍によってファイザルの姿を探したが、人が多すぎてどうにも見つけることができない。

 黒服の軍人は貴族達に比べると少数しかいないのですぐに分かるはずなのに……さっきの御婦人を席まで送っていったのだろうか? それともどこかの隅で親しく語らっているのだろうか?

 いずれにしてもレーニエの心を濡らす悲しみはなかなか引いていかない。彼女は明るい空間に背を向けて太い円柱に寄り掛かった。

 来なければよかった……

 殆ど結っていない銀髪が、主のうなだれるのに従い、床に届きそうになっていた。


 どの位そうしていたのか、出入り口の方に人の気配がして、オリイが戻ってきてくれたのかとレーニエは顔を上げた。

「オリイなの? もう、帰りたい……私を連れ出して」

「どちらへですか?」

 ーーファイザルの声だった。




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