第106話105.刹那 1

「レーニエ殿下、お久しゅうございます」

 細かい装飾を施した扉が開けられて小柄な赤毛の娘が居間に入ってきた。案内してきたのはサリアである。

「おお! シザーラ殿、お待ち申しておりました! お久しぶりです」

 レーニエはぱっと喜色を浮かべて立ち上がる。シザーラは踊るような足取りでそれへ駆け寄り、二人の娘は手を寄り合って再会を喜んだ。

 シザーラの方が年長だが、背丈はレーニエの方がやや高い。

 いつもの男装で瞳以外は殆ど色彩のないレーニエに対して、シザーラの方は金褐色のきつい巻き髪に緑のドレスという、彼女でなければ着こなせないような配色を選択していた。

 かの遥かな戦災の町、ウルフィオーレで出会い、慌ただしく親交を深めた二人の娘たち。日蔭者の王女と、敵国の前宰相の孫娘で女伯爵という変わり種の二人であったが、彼女達は久しぶりに会った町の娘たちがするように、言葉なのか、笑い声なのかわからぬ甲高い声できゃあきゃあと喜びあった。

「シザーラ殿、可愛い。その服」

「まぁ、レーニエ殿下にそんな事言われるなんてなんだかくすぐったいですわ。殿下こそいつもながらとってもお美しいです! それにこのお部屋もとってもきれい」

 すすめられた可愛らしい模様の繻子張りの椅子に具合よく落ち着いたシザーラは、周りを見渡して言った。

「さすがに文明の進んだエルファラン王宮ですわね。殿下のご趣味の高さが伺えます」

「部屋を整えたのは母なのです。それから殿下と私を呼ぶのは止めにしてください。前から感じていたのだが、自分を呼ばれているのではないような気がするので」

「あら?」

「レーニエでいい。というか、そう呼んでくださる方が嬉しい」

「う〜ん、ですが、ここはまがりなりにでも王宮なのですから、周りに人がいる間は外聞もありますし、お呼び捨ては具合が悪うございますわよ。何たって私は客分とは言え、少し前までは敵国の大使なのだし」

「私はシザーラ殿をそのように考えたことはない」

 熱心にレーニエは言った。

「それでは……レーニエ様。こうお呼びいたしますわ。これなら以前にもこのようにお呼びいたしましたし」

「うん、ありがとう」

 シザーラの譲歩に銀髪の娘はにっこり笑った。


 瑠璃宮最上階、レーニエの居室。

 以前からシザーラに会いたいとレーニエは母に願い出ていたのだが、いかんせん、シザーラの方が多忙でなかなか体が空かなかったのである。彼女は戦後処理の交渉に派遣されたザカリエ使節団の長という立場にあり、国境の管理体制や、両国に渡って伸びている鉱脈の所有権の限界、そして賠償金の年賦の期間等について、エルファラン側と日夜交渉に臨んでいたのだ。

 今朝はあいにくの雨模様だ。

 久々に降った夏の雨は鮮やかな緑を洗い流すようにさぁさぁと優しく降り募っている。窓を開けていないので風は入ってこない。

 瑠璃宮には警備上露台がなく、ひさしも小さいので、窓を開け放つと雨が吹き込んでしまうからだ。その為、よく磨かれた硝子窓の上を雨粒が楽しげに滑り降りていた。

 室内は明りを灯していないのでやや薄暗い。

 しかし、女王の計らいで美々しく整えられた居間は二人の娘の輝きで、今日の雨模様を退ける勢いで明るく華やいでいる。

「シザーラ殿には毎日どのように過ごしておいでか?」

 心安だてに問うレーニエの今日の装いは簡素な白いシャツに、いつもの黒い下衣。幅の広い布で細い腰を縛り、横で無造作に結んでいる。

 およそ姫君にはありえない出で立ちだが彼女にはよく似合い、化粧もしていない細面の顔は、これほどの美しさを持ちながら、ともすれば少年のような印象を与えるから不思議だ。

「ええ、毎日面白くも美しくもない中年の殿方の顔ばかり拝見しておりますわ。延々と議論したり、時には討論になったり、公務だから仕方がありませんが」

 シザーラは相変わらずレーニエをうっとり見つめて答える。彼女の赤毛はその部分だけ輝いているように明るい。やせっぽちだがはち切れんばかりの活力にあふれた娘であった。

「お噂は聞いている。ずいぶんとご活躍のようだ」

「ええ。普段は公務なのですけれど、こちらの法律や慣例など、いろいろ勉強することも多くて」

「ご公務。あなたには大切なお役目がお有りなのだな」

 レーニエは羨ましげに言った。

 レーニエも何か自分にできることがないか常日ごろ探していたのだが、王女として王宮に暮らしてまだ間がないのと、人々の目に立ちたくないという彼女特有の理由で、普段は瑠璃宮からあまり出ることはない。

 しかし、嘗て忘れられた奥付きの小さな屋敷で暮らしていた時と違い、レーニエは北のノヴァゼムーリャの領主として、人々のために尽くす喜びを覚えてしまった。広い荒野を自由に馬で駆ける伸びやかな楽しみも。

 王宮での日々は穏やかに過ぎてゆくが、彼女は次第に毎日を屋内で過ごすことにそろそろ飽きてきていた。たとえ毎日庭を散歩し、夕餉は母と共にして様々に話を交わしたとしても。

 それにあの夢のような舞踏会の夜以降、ファイザルは二、三度ご機嫌伺いに慌ただしく訪問しただけで、夜も昼もずっと王宮の最南端の軍務棟に詰めている。

 行政とは異なるが、軍には軍の事情があり、将軍という地位に昇った彼は余ほど忙しいのだと思う。

 晴れて婚約者となったのだから、もう少し一緒に過ごせたらと思わないでもないレーニエだったが、我慢強い彼女は我儘を言って忙しい彼を困らせてもとおもんぱかってじっと寂しさに耐えていた。

 ……ヨシュアには大切な役目がある。この間伺った話では、あの人の直属の部隊で戦死された方々のご家族へのお手紙を自ら書かれていると。「そんな事をしたところで償いにもなりませんが」と二日前に会った時、彼は言っていた。

 その時、普段彼女には見せない辛そうな眼をした事を思い出す。以前にも聞いた事があったが、ファイザルは戦という異常な環境の中で、自分がしてきた事を容認している訳では決してないのだ。

 叩き上げの職業軍人の冷徹な顔の裏で、彼がいつも苦しんでいた事をレーニエは知っている。だからこそファイザルは将軍となった今、その地位の下で、戦という最悪の国家間の紛争解決手段を回避できるような仕組みを作り上げるべく奔走しているのだろう。

 彼は政治家ではないから、出来る事には限界がある。

 しかし、彼が上奏した幾つかの提議を実現させるべく元老院議員であるフローレス将軍や、裏の情報を牛耳っているハルベリ少将にも働きかけているという事だ。

 勿論、新将軍の仕事はそれだけに留まらず、通常の軍務や職務もあるからおそらくファイザルは眠る間も惜しんで働いているに違いなかった。

 だから私は大人しく待っている。それしかできないから。

 しかし一度、人肌の暖かさに包みこまれ、望まれ愛される事を知ったレーニエには夏の短い夜でさえ、酷く長く感じられ、そして、退屈は如何ともしがたかった。

「私にも何か出来る事があればいいのだが……あまりに物知らずで、何かしようとしても周りに迷惑が懸ってもと思うと、どうも踏み出せない」

「まぁ……レーニエ様」

「どうしたらあなたのように賢く振る舞えるのかな?」

「私、賢くなんてありませんわ。そりゃそうなりたいとは思いますけど。レーニエ様は私をそんな風に思っていてくださったの?」

「うん。私などと違って大層しっかりされた御婦人だと。そのぅ……正直、あなたと比べて自分を情けなく感じていました。なんて役に立たないつまらない人間だと……あ、お気に障ったら済まない。これは私の問題で、あなたには何の関係もない。シザーラ殿には親しくしていただいて大変嬉しく思っている」

「まぁレーニエ様、レーニエ様の様なお方でも自分が嫌になったりするものなですか」

 意外な事を聞いたようにシザーラは尋ねたが、それを聞いてレーニエもびっくりしたように顎を引いた。

「え? 私はしょっちゅう自分が嫌になってる」

「意外でございますわぁ」

「そ、そう? それはまたなんで?」

 レーニエは本当に驚いているらしい。

「だって、こんなにおきれいで、颯爽としておられて、素敵な恋人もいらして」

「恋び……!?」

 聞き慣れぬ言葉にお茶を零しそうになっている。

「あら? こたび将軍になられたファイザル様はレーニエ様の恋人ではありませんの?」

 そんな事は充分承知していたが、シザーラはレーニエを赤面させたくて敢えて問うてみる。案の定レーニエは白い頬をっほんのり染めた。

「さ、さぁ、そう言うくくりでは考えたことがなかった」

「でも、お好きなのでしょ?」

「……うん」

 こくんと頭が下がる。シザーラは思わず微笑んだ。

「そして、好かれておられるのでございましょ?」

「た、多分」

「なら、天下晴れて恋人同士はございませぬか」

「そ……うなるのかな?」

「そうでございますとも!」

「あ〜……、でも、それを言うならばシザーラ殿とアラメイン殿もそうではないか?」

「それはまぁ、そうなのですが、私たちの場合は子どもの頃からの付き合いですから、恋人と申すよりかは腐れ縁と言う方が適切かもしれません」

「そんな……そんな事をアラメイン殿がお聞きになったら、さぞやがっかりされるのではないかなぁ?」

 悪戯っぽく笑うレーニエにひょいと薄い肩を竦めて見せるシザーラである。

「どういたしまして。こんなことぐらいで意気消沈されると困るのです。私はあの方のために国を離れ、様々な事を学ぶためにこの地に来たのですもの。

 アラメイン殿下にも祖国のために出来ることを腰を据えてじっくり考えて頂かなくては。これから兄上である国王陛下を支えて国を背負う大切なお役目があるのですから」

「……」

「私は出来うる限り学んで帰ろうと思います。特に内政に関することを。女王陛下には格別のご配慮をもちまして、元老院の観覧をお許しいただきました。あ、勿論当たり障りのない議題の時だけに限られますが。でも、レーニエさまのお母様は大変素晴らしい方ですのね?私もいつかあのように人を導ける人間になりとうございます」

 高々と宣言するようにシザーラは顎を上げる。その小さな浅黒い顔をレーニエは食い入るように見つめた。

「まぁ。私としたことがレーニエさまの前で無粋な話題を……申し訳ありませぬ」

 穴のあくようなレーニエの視線に気づき、色黒の娘は頬をその髪のような色に染める。

「何を謝られる。シザーラ殿は大変ご立派だ」

 レーニエのあからさまな賞賛の言葉に、シザーラは急にもじもじと指を絡めた。

「つい熱が入ってしまって……恥ずかしいですわ」

「そんなことはない。けれど私は母のようになりたいなどと思ったことがない……というか、そのような発想で考えたことがなかったので……すごいな、シザーラ殿は」

「あ〜らら? レーニエ様」

 輝かしいシザーラの夢を聞いて己を見返り、複雑な表情になってしまったレーニエだったが、その時扉が静かに開き、御茶のセットを乗せた台車が静かに入ってきた。

 絶妙のタイミングである。銀色の台車を押しているのは黒髪の少年であった。

 フェルディナンドである。


 彼はつい昨日から七日間の休暇を貰い、王宮に帰ってきている。

 彼も都に帰ってきてから戦地での報告やら遅れていた勉学で一日の休みもなく働き詰めであったから、心配したレーニエの懇願で漸く貰えた休暇であった。

「お茶をお持ちしました」

「ああ、ありがとう」

 フェルディナンドは恭しくシザーラに辞儀をすると、二人が向き合う卓の横で茶の支度を始めた。手際のよく作業を進める端正な横顔にシザーラにふと思い当たるものがあった。

「あら? あなたは……」

 背筋をまっすぐ伸ばしたまま腰を屈め、シザーラの前にカップを置くとフェルディナンドは一歩下がった。以下にもよく躾けられた召使の様子で直接視線を合わさず、姿勢よく立ったまま視線を手前の床に落としている。

「前に会ったわね」

 赤毛の娘の眉が吊りあがる。厳しさを帯びたその声に少しも動じず、フェルディナンドは恭しく頭を下げた。動揺したのはむしろ彼の主である。

「お許しくださいシザーラ殿。私はわざと彼をここに呼んだのです。あなたに私の弟をご紹介したくて」

「レーニエ様?」

 ソリル二世にレーニエの他に隠し子がいたなどあり得ない。シザーラもその事はよく分かっていたが、レーニエが弟などと言うのには訳があるのであろう。

 そう推察して彼女は次の言葉を待った。

「彼はフェルディナンドと申し、幼い頃から私に仕えてくれていた侍従です。それは頭がよく機転のきくよい子で、私にとっては弟同然の……そう、家族といってもよい存在なのです」

 レーニエが自分について語る言葉をフェルディナンドは床に視線を落したまま、身じろぎもせずに聞いている。

 心の内でレーニエの言葉をどのように受け止めていたかは知らず、その表情はあくまでも静謐せいひつである。

「いつから一緒だったか忘れるくらい長く私に仕えてくれて。でも二年ほど前に士官学校へ入れたのです。学問をしたいという彼の希望もあって。私にしてもこのまま私に仕えていたのでは彼の将来を奪ってしまうと危惧したものだから」

「はい」

「この子はどこでも優秀なのだ。士官学校でもその優秀さゆえに教授方に目を掛けられて。子どもながら特殊な任務を与えられたのです」

「それでザカリエ王宮に?」

 シザーラの問いはフェルディナンドに向けられたものだった。フェルディナンドは黙って頭を下げる。

「こういう言い方が相応しいのかどうか分からぬが。シザーラ殿、お許しください。私は何も聞かされていなかったし、彼にしても命令に従っただけの事で」

「許すも許さぬもありませんわ。戦争とはきれいごとではありませんもの。そういう事もあるとは知っています。では私とアラメイン殿下が婚約していた経緯や、その後の事をレーニエ様がご存じだったのはそう言う訳だったのですね? これでようやく合点がいきました」

「申し訳ありません。私が和平の大使になった理由の一つは、彼の事が心配だったと言う事もあるのです」

「そうなのですか? でも、見事でしたね。フェルディナンド、あなたは召使としても間諜としても優秀なのね」

 やや皮肉の交じったその言葉にフェルディナンドは大人しく辞儀でもって返す。

「恐れ入ります」

「あなたの淹れるお茶はとっても美味しいし、見栄えもいいし。レーニエ様はよい弟をお持ちですわね?」

「そう言っていただけるのは嬉しいが、これは真実かどうか私などには知らされるはずもないが、フェルディナンドの言葉ではザカリエ王宮に間諜として入ったのは彼以外には居ないそうだ。だから今はそういうことはないと思う」

「よろしいのです、レーニエ様。レーニエ様が私に気を使われる必要はどこにもありませぬ。国家間の駆け引きが、得る情報の質と量によって左右されるということぐらいは私にもわかります」

 真面目な顔をしてシザーラは済まなそうにしているレーニエに言ったが、所詮レーニエが政治の事には不向きだという事はシザーラも分かっているので、彼女がこの事に関して仔細を何も知らされていなかったことぐらいは理解できた。勿論彼女を悪く思うなどということもあり得ない。

「シザーラ殿……済まぬ」

「レーニエ様が私に謝られる事なんて何もないのでございますわ。

 私としては王宮内の情報管理や、召使たちの身元にもっと注意を喚起するよう国元に報告しなくてはならないと思いますが。ただそれだけの事です。どの国も自分たちに有利な情報を死に物狂いで収集することぐらいあたりまえのことですわ。これはたとえ友好国同志でも同じといえましょう」

「……」

「ええ、そうですとも。わが国も今後はもっと内政面に目を向けていけません。いつまでも後進国のレッテルを貼られたままではね」

「ん〜」

 流石にそういう方面の話になると、素人のレーニエは政治家たるシザーラについていけない。しきりに感心して彼女の話を拝聴しているばかりである。

「ええ、ですからこのお話はお仕舞いです。少なくとも、私とレーニエ様との間では。それはそうと」

「なぁに?」

「今度我が国には元老院議長のご一家が参られるらしいですわ。立ち消えになったレーニエ様とアラメイン殿下の婚約話の替わりという事らしくて」

「そうらしい。カーン殿と言われて、私は一度しかお会いしたことがないのだが、誠実そうな方だった。母上の古いご友人だと言う事で……あ! そうか」

「ええ、勿論今度はその方がフェルディナンドの替わりという訳で。ソリル陛下もなかなか大胆な事ですわねぇ。国の重鎮を間諜になさるのだから」

「ええ!? まさかそんな……そんな堂々と?」

「まぁ、きっとやり方はいろいろあるのでしょうけど。カーン議長様はあれでなかなかしたたかな辣腕家ですからねぇ。これでお爺さまも対抗してますます張り切るでしょうよ。考えようによっては、老いらくの生きがいができてようございます」

 シザーラには勿論、ザカリエ王宮内で繰り広げられるであろう、華麗な政治的駆け引きの数々を想起することができたが、レーニエは不思議そうに首をかしげるばかりであった。

「そのようなものか? 私にはよく分からぬが……だけれども、それでシザーラ殿にはよかったのでしょう? 例え偽りと言えど、アラメイン殿下が私と婚約などせぬ方が」

「ふふふ。それはまぁ……う〜ん、そうでございますわね。ウルフィオーレの時も思いましたが、レーニエ様とアラメイン殿下がお二人で並ばれると、それだけでとぉっても煽情的ですものねぇ。お二人の気持を無視して既成事実だけが先走りしてしまうかもしれませんし、まぁ、よかったのだと思います。ですが、私の事などより、ねぇ、レーニエ様?」

 シザーラとて若い娘である。理屈をこねているようで、嬉しそうに控え目な微笑みを浮かべていたが、不意にその黒い瞳がキラリと光ってレーニエを捉えた。

「な、なんでしょうか?」

 今度は何を言われるのかと、赤い瞳の娘は気押され気味である。

「レーニエ様とファイザル様、お二人はご成婚されるのでございましょ? お式はいつですの?」

「あ〜……しばらく先かと」

 突然話題転換し、今度はレーニエの結婚の話になった。

「先? どのくらい?」

「ひ、一月後くらいかな? 多分……」

 これって言ってもいいのかな、と尋ねるようにレーニエはフェルディナンドを見たが、彼は澄まして茶の葉を換えている。

「では、まだ時間がありますわね」

「はぁ」

「レーニエ様」

 シザーラはいやにしつこい。

「なんでしょう」

「女は結婚すると様々な桎梏しつこくに身をやつさなければなりませんのよ?」

「し、桎梏ですか?」

「ええ、かな〜〜り自由を奪われるというか、家庭を守る重責を背負わされるというか」

「よくわからない」

 そもそも家庭を持つということはおろか、結婚するということ自体がレーニエにはよく分かっていない。

「どういうことなのだろう?」

「つまりね、ファイザル将軍はレーニエ様を溺愛されておられるようですし。きっと結婚されたらご自分の掌からレーニエ様をお出しにならないと思いますわ」

「ヨシュアが? そんな事はないと思う……たぶん」

「甘い!」

 シザーラは握り拳でドン! と華奢な小卓を叩いた。優雅な茶器がカチャンと鳴る。

「わ!」

 お茶が零れて上質な敷布に染みを作った。それを見てフェルディナンドが情けなそうに肩を落とす。後で染みを落とすのは彼なのである。

「まぁ、ごめん下さいませ。つい失礼をいたしましたわ。ですが、レーニエ様、殿方を甘く見すぎですわよ! お人が良すぎますわ。殿方が吊った魚に餌などやるもんですか! 私の母親など、生涯都の屋敷と領地の往復。しかもそこですら、出歩ける場所は限られて、しかも貞淑という名分の元、自らそれに甘んじていたという覇気のないお方で……いえ、母の事は尊敬いたしておりますし、愛してもおりますが、私にはそんな暮らしは我慢できないと思っておりましたの」

「シザーラ殿は名宰相のおじい様のお血を濃く受け継いでおられるから」

 釣った魚の例えと自分がなぜ一緒になるのか分からぬまま、レーニエはとりあえず当たり障りのない返答をする。

「さぁ、それはわかりませんが、ともかく私の言いたいのは!」

「はい」

 叱られた子どものようにレーニエはシザーラの話を謹んで承っている。シザーラは暫く考え込んでいたが、やがてその瞳をフェルディナンドに移した。

「そうだわ、フェルディナンド」

「は? なんでございましょう?」

「私はあなたがわが王宮でなさった事を別に怒ったり責めたりしておりませんわ。あなたは大事のお役目で致した事。そうでしょう?」

「それは……はい、確かに」

 フェルディナンドは大人しく頭を垂れた。

「そう。あなたはあなたの仕事をしていたのだし、まぁ個人的にちょっと悔しくはありますが、結果的にそれがレーニエ様とアラメイン殿下を不本意な政略結婚から救ったのですから。それに私も国のために好いたお方をあきらめずに済みましたし」

 一体彼女は何を言いたいのか? フェルディナンドは固唾を飲んでシザーラのきつい小さな顔を見つめた。

「だから、これは全然関係ないのですけど、あなたはレーニエ様のお伴をすればいいわ!うん、これはよい考えだ」

「あのぅ……お話が全く見えないのだが」

 遠慮しぃしぃ、レーニエは疑問を挟んだ。フェルディナンドも同様にさっぱり訳がわからないという顔をしている。

「レーニエ様? レーニエ様は何かしてみたいのでしょう?」

「そうだけど……何か私にできる事があるの?」

「それに、お退屈されておられる?ファイザル様にもお会いしたいですわよね?」

 レーニエの問いには答えず、畳みかけるようにシザーラは質問を次々に発する。

「う……は、はい」

 フェルディナンドの方は何かに思い至ったらしく、急に顔を上げた。

「シ、シザーラ様!? もしかしてあなた様は……!」

「ですから!」

「はい!」

 二人は同時に返事をした。

「レーニエ様が自由に出歩けるのは今だけだってことですわ!」

「自由に出歩く?」

「勿論ご身分がありますから、自由と言いましてもかなりの制約がおありでしょうけども、それでもなんとかなる事もあるのではないでしょうか?」

「おっしゃる意味がよくわからないのだけど」

 と言いつつ、だんだん面白そうな顔つきになってきたレーニエをフェルディナンドはハラハラして見つめている。口を挟む隙を見つけ次第、この無防備で能天気な主を止めなくてはならない。

「つまりね、こういうことですわ」

 シザーラは内緒話のしぐさをしてレーニエを手招きした。

「シ、シザーラ様! お願いですからその先をレーニエ様におっしゃらないでください!」

 少年が情けなさそうに嘆願するが、内緒話に夢中になりかけている二人の娘たちにものの見事に無視された。

「え……うん?」

 ごしょごしょごしょ

「うん、うん……それで……え? えええええ〜っ!」

「わぁっ! レーニエ様! 何だかわかりませんがお止しください! 私が姉さんに殺される!」

 滅多に聞けないレーニエの驚嘆、そして少年の絶叫。

「本当にできるの!?」

「ええ、そうですわ」

「それは……でも面白そうだ……ファラミアの都を見物……すごく行きたい!」

「止めてぇ〜!」


 少年の必死の叫びは少しも主に届かない模様であった。


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