第92話91.障壁20

「あ~あ、一体どういう事だよ。これは!」

 赤子を抱えるようにレーニエを抱き上げ、城壁を出てきたファイザルに、セルバローは不承知だと言うように思い切り眉をしかめた。しかし、ひくひくと口元が歪むのを隠し切れてはいない。彼は心の底から面白がっているのだ。

「イキナリ慌喰って駆けつけてきたと思ったら、ヒトサマの部下に勝手に動くなと命じた挙句、自分だけ美味しいとこ持って行きやがって! 俺には訳を聞く権利があると思うんだけどもな!」

「ないな。これっぽっちも」

 そっとレーニエを地面に下ろしながら、ファイザルは食ってかかる戦友の顔をまともに見ようとしない。それを兵士達が遠巻きにしながら興味深げに眺めていた。彼らにはまるで訳がわからないといった様子だ。

「待たせてすまなかった」

 地面に降ろされるなり、セルバローに駆け寄ったのはレーニエだった。意外な出来事にファイザルが僅かに頬を強張らせる。彼等がこれほど親しげだとは知らなかったのだ。

「直きに戻ると言ったのに思わぬことになって……」

「ま、別によろしいですが。俺もそれほど野暮ではなし」

 セルバローは生まれ変わったように清々しく微笑む娘を見つめた。

「あれ? なんだか、お肌つやつやですね。何でかな?」

「うん?」

「口を慎め、ジャックジーン・セルバロー。王女殿下の御前だぞ」

 厳しい声が飛ぶ。そのやんごとなき王女殿下をついさっきまで我がもののように腕に抱いていたのは、一体どっちだよ、という突っ込みを飲み込んで、セルバローはファイザルに意味ありげな視線を送ったが、ファイザルは彼の視線を逃れ、自分が乗ってきた馬の手綱を解こうとしている。

 つまるところ照れているのだ。

 こぉれは面白いと、にやりと笑ってセルバローは片目をすがめた。

「すみませんねぇ、姫殿下」

「ジャックジーン……それがあなたの名?」

 レーニエが小首を傾ける。その様子は出会ってからつい先ほどまでセルバローが見てきた憂いを秘めた美姫ではなく、素直な好奇心を瞳ににじませた若い娘だった。

 セルバローには城壁の上で何があったかなんとなく理解できた。

 ファイザルの奴め、何をどうしたんだか……腹立つわ~。

 だが、彼はいかにも殊勝らしく頭を下げる。

「左様でございます。姫」

「ジャックジーン……きれいな響き。美しいあなたによく似合う、ぴったりの名だ。私のことも名で呼んで欲しい」

 手綱を持ったファイザルの背中がぴくりとなるのを面白そうに視界の隅に感じながら、セルバローはこの風変りな娘をとっくりと眺めた。

 これまで何度か会って話もしているはずだが、今初めてレーニエはセルバローを個人として認識したようである。

「あの~うつくしいって俺のことですか?」

 男前だと言われた事は数えきれないがなぁ

「そうだが? 私はこんなに美しい殿方を見たことがない」

 最早視界の片隅ではなく、セルバローはまじまじとレーニエの背後の男を見た。聞き捨てならない言葉を耳にし、ぐるりと振り返ったファイザルは頬をひきつらせている。

「ねぇ? ヨシュア、あなたもそう思うだろう?」

「思いません」

 ファイザルは憮然と答えた。

「どぉして。セルバロー殿は大きくて、燃えるように鮮やかな色を幾つも生まれながらにして身に纏っていらっしゃる。羨ましいことだ。あのぅ……よければその御髪に触れてみてもよいか?」

 美少女の夢見るような大きな瞳にうっとりと見上げられて、セルバローはまんざらでもない。しかし、眼前の男は殺気を発しながら仁王立ちになって彼を睨みつけた。だが、雷神はこのめったに見られない面白い一幕を逃すほど堅物ではなかった。

「どうぞ姫。いくらでも、触りたいだけ」

 そう言って彼はレーニエが触りやすいようにその長身を折ってやった。

「きれい……本で見た獅子のたてがみのよう。それに黄柱石のような金色の瞳」

 指先で毛先をもてあそんでレーニエはうっとりと微笑んだ。

「私の髪や瞳もこんな色だったらよかったのに」

「そのぐらいにしておかれませ、レーニエ様。ただでさえ自信過剰なこの男が、益々調子に乗りますので」

 セルバローの派手な頭から細い指先をもぎとるように、ファイザルはレーニエを自分に向き直らせた。

「あなたの髪はこの色以外に考えられません。さぁ、もう戻りましょう。ここは風が強い。体が冷えてしまう」

 その目は剣呑な光を孕んで、らんらんと好奇心をたぎらせて二人を凝視するセルバローに向けられている。

「そうか、ではそうしよう。ありがとう……セルバロー殿……ああ、私もジャックジーンとお呼びしてもよい?」

 よほどその名が気に入ったのかレーニエは自分からそんな事を言った。

「どうぞ。というより是非そうなさってください」

「ん」

 レーニエは素直に肩を抱かれながら、ファイザルに従う。その目は新しいおもちゃをもらった子供のように楽しそうだった。

 ああ、と言うようにファイザルは肩を落とす。

 この子は……いましがた俺に何と言ったかもう忘れたのか?

 そう言えば、この娘は以前から大きくて、派手目なものが大好きだったのだ。久々にそのことを思い出し、ファイザルはこっそりため息をついた。だから色素が薄く、中背で痩せ型のアラメインが大して美男に見えなかったのだろう。

 そう言えば、俺と会ったときにも名を褒められたな。まさかこの子、ガタイの大きい男には誰にでもこんな風なんじゃ……

 知らず不必要に腕に力を込め、セルバローの視界からレーニエを隠すように寄り添う。

 セルバローは大きな肩を震わせていた。

「どうされた? ご気分でも?」

 不思議そうにしている姫君。

「なんでもありませんよ……いやそのでもただ、もう我慢できない。だはははははは」

「さ、行きましょう」

 突然の笑いの発作に襲われた朋輩を無視して、ファイザルは自分の馬にひょいとレーニエを乗せた。

「ん? 私の乗って来た馬車はそこに」

「大丈夫です。後であいつが引いてゆきます。目立たない方がいい」

「ちょ、おい!」

 俺か? と言うようにセルバローは自分を指差した。

「王女殿下は俺がお送り申し上げる。お前たちは囮になるように空馬車を守って帰れ。策敵さくてきを怠るなよ―――さぁ、参ります。はいっ!」

 そう言うと、愛馬ハーレイに手綱を入れてファイザルは一気に駆け去った。腕の中に銀色の恋人を抱き込んで、どんな男の目からも隠すように自分のマントですっぽりと覆う念の入れようだ。

 何が起きたのかさっぱり分からないセルバローの部下たちは、呆然と彼等を見送った。

「あ~あ、風を喰らって行っちまった」

 やってられんわ!


 セルバローは諦めて広い肩を竦めると馬車の方を振り返った。




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