第91話90.障壁19

「俺は……」

 どのくらいの時間が流れたのか、やがてファイザルは|掠(かす)れた声で囁いた。

「俺は酷く腹を立てていました」

「私に?」

「それもある。だが、それだけではなかった。柄にもなくこの一年、無我夢中で働いたのは、全てあなたを手に入れる為だったのに」

「え?」

 ファイザルは腕を伸ばしてレーニエから身を引き、強い力で両の肩を掴んだ。

「例えこの身が罪に|塗(まみ)れようとも、あなたを乞える立場に近づきたかった……俺には戦う事しかできなかったから、戦って、勝って……ひたすら勝って地位を得ようと思い込んで……」

「……」

「それなのに、その願いも叶わぬ内にあなたはここにやって来られた。あれほどひた隠しにしておられたご身分までも明らかにされ、王女として立たれた。俺にはどうしたって手が届かない遠い存在になってしまって……おまけに両国の和平の絆を確かなものとする為にご婚約の話まで持ち上がる始末だ」

「でも、それは」

「だがそれでも俺はあなたを守らなければならなかった。少し前までこの地は戦場だったのです。どこに潜んでいるかもしれないドーミエの心酔者の情報もあった」

 レーニエに言葉を挟むことを許さず、自分を責めるように男は続けた。

「俺は確かに戦を終わりに導くことには成功したかもしれない。表向きには。しかし、その裏で無性に腹が立ち、混乱し、絶望していた。その上に……」

 精悍な眉が険しく歪む。

「あの王子の出現だ! 金の王子に銀の王女。皆は口をそろえて褒めそやす。俺には無い身分も、若さも、美貌も、全てもったあの男の傍に立つあなたを見て、俺は気が狂いそうだった……」

「ヨシュア……」

「王女殿下。あなたは紛れもなく国王陛下のただ一人のお子だ。そして陛下はあなたを公式に認められるおつもりだという。例え隣国の王子との婚姻の話が白紙に戻ったとしても、あなたの元にはこれからも降るようにご縁談が持ち込まれるだろう。俺の出る幕などありはしない。だからさっさと思い切ろうとして……なのに……くそっ!」

 言葉とは裏腹に彼は腕に力を込める。衣の下の折れそうな骨を指に感じた。

「……出来なかった。どう頑張ってみても」

「ヨシュア?」

「ご立派でした。あなたは。さすがにあのお母上とお父上のお子です。私だけでなく、他の皆もそう思ったはずです。おかげで平和は成るでしょう」

「それはあなたが命がけでもたらした平和ではないか……」

「俺はただの人殺しだ」

「違う! あなたこそ命を掛けて……」

「俺は国の為に戦ったんじゃない! |悉皆(しっかい)我欲です。こんな血に汚れた手であなたに触れる事もおこがましいのに!」

 何か言いかけようとする口を容赦なく遮り、彼は苦しそうに続けた。

「あなたが自分のものになどなる訳がない。なのに、あなたを諦めきれない! 無様で未練がましい男です。俺は……」

 限りなく苦々しい頬笑み。

「さっきこの場所に立つあなたを見て、俺が一瞬何を思ったか白状いたしましょう」

「……」

「あなたを抱いてこの城壁から飛べば」

「わ!」

 突然ファイザルはレーニエを掬い上げ、絶壁へと一歩踏み出した。レーニエの真下にはもう地面はない。

「あなたを誰にも渡さずにすむ」

「……!」

 レーニエは腕を伸ばして力いっぱい逞しい首にしがみついた。

「ふ……申し訳ありません」

 元の場所に後退し、そっと彼女を下ろすとファイザルは皮肉に笑った。

「だが、そうすればあなたを誰かに奪われるのをみすみす許すこともなく、俺だけのものにしてあなたをこの腕に永久に閉じ込められる」

 ファイザルは腕を回してレーニエをしっかり抱きなおしたが、やがてその肩が細かく震えていることを感じた。

「すみません。怖かったでしょう?」

 驚かせ過ぎたとファイザルがレーニエの顔を覗き込む。腕の中の娘は、大きな眼に一杯の涙を溜めていた。

「申し訳ありません。悪い冗談でした、俺があなたを傷つけられる訳がないでしょう? もう泣かないで」

 慌てて言い訳してみても、大粒の涙が睫毛からぽろぽろとこぼれ出すのを堰き止められない。弱々しく見える割にはめったに泣かないレーニエの涙に、ファイザルはだんだん心配になってきた。

「お許しを、レナ」

 手袋の先で零れる雫を吸ってやる。レーニエは自分でも睫毛を|瞬(またた)いて涙を払った。

「ご……ごめんなさい。でも嬉しくて……」

「え?」

「思わず泣いてしまった!」

 無垢にレーニエは笑った。

「は?」

 何――何を言ってるんだ、この子は。

 たった今、俺に殺されそうになったのじゃないか。

「ではあなたは私を嫌いじゃないんだ……」

 まだ濡れた瞳が微笑みを浮かべる。

「あなたを嫌うだって!? たった今愛していると言ったでしょう」

 聞いてなかったのかこの子は、と言うような顔で彼は腕の中で微笑んでいる娘を見下ろした。涙の痕はまだその頬から消えてはいない。

「あなたを失うと考えるだけで狂ってしまいそうなのに」

「え!? 本当? でも怒っているともおっしゃってたし」

「だからそれは俺が、うわ!」

 突然腕の中に柔らかいものが飛び込んできた、と、同時に掴んでいたマントが|靡(なび)いて彼の視界を覆う。

 こんな華奢な娘に飛び付かれてもびくともしないが、いきなりの事で心構えができていなかった。しかもこの強風、この高所で視界を遮られては非常に危険だった。

「お! 危ないではないですか! 風に飛ばされたらどうするんです」

 ついさっき自分がした事を思い出すと強くは叱れないファイザルは、慌ててレーニエを支える。マントが大きく風を孕むと目方の無い娘は容易くよろけてしまうだろう。

「飛んで見たい」

 太い首にしがみつくとつま先まで浮いてしまう。それでも娘は構わずにぶら下がっている。二年前のあの頃でさえ、こんな風にされた事はなかった。

「離しなさい」

「嫌……」

「離す」

「……」

「レナ!」

 終に雷が落ちた。途端に形の良い眉が思い切り下がる。

 ゆっくりとファイザルは身を屈めてぶらぶらしているつま先を石の上に下ろしてやる。レーニエは渋々体を離した。

「……いい加減にしなさいよ。ほらちゃんと外套の裾を持って! そうだ、思い出した。あなたにどうしてもお聞きしたい事があったんだ」

「え?」

 レーニエはびくりと身を竦ませた。この人がこう言うものの言い方をする時は、たいてい叱られる時なのだ。

「あの時、なぜお逃げにならなかったのです」

「あの時って?」

「路地での襲撃の際のことを言ってるんです。射手が狙いをつけていたでしょう?」

「ああ、あの時。ええと……後ろに小さい子がいたから」

「例えそうであっても、身を竦めるとか頭を庇うとか、やりようはあったはずだ。なのにあなたは」

 真正面から静かに敵を見据えて――

「あの時あなたは射手を前にして動こうともしなかったではないですか! まさか死ぬおつもりだったのですか?」

「……わからない。忘れた」

「……」

 あの恐ろしい一瞬を思い出すだけで大の男がぞっと身を震わすものを、姫君はあっさり「忘れた」とか|宣(のたま)う。

「忘れた?」

「う……ん、よく思い出せない。ただ逃げるわけにはいかなかった。声をあげたら注意を反らせて誰かが怪我をするかもしれなかったから。それにあなたの事やいろいろあって、正常な判断ができなくなっていたかも」

 相変わらず自分の事には無頓着な娘の様子に、ファイザルは大きな溜息をついた。

「全て俺の責任です。確かに全力であなたに嫌われるように振る舞ってきたし」

 レーニエに自分を見限らせ、自らもレーニエを諦める為につまらぬ茶番を演じた事を苦々しい気持ちでファイザルは思い起こした。

「もう大丈夫。へいき」

 レーニエは大きく頷いた。

「はぁ?」

 一体、どういう自信の持ち方だ……

「二度とあんな真似をなさらないでください。百年は寿命が縮みました」

「ごめんなさい」

「全くあなたと言う方は……俺はこれから一生振り回されるのかなぁ」

 ファイザルはこれで何度目かわからない溜息をついた。

「一生?」

 その意味を解しかねてレーニエは小首を傾げた。

「一生です。ですが、あなたは本気で俺のものになってくれると言うのですか。自分でも愛想が尽きるほど度量が狭く、嫉妬深い男ですが」

「……私はとっくにあなたのものだけど」

 一生の意味を考え込みながら、しかしレーニエはあっさり受け合った。

 ああ、敵わない。一体どうしたらいいんだ

 ファイザルは懸命に自重するが、頬の筋肉が緩むのを肌の奥で感じ、慌てて引き締める。

「可愛いいレナ……だがまだ続きがあります」

「続き?」

「あなたと俺では空恐ろしいくらい身分に差がある。ドルトン殿の話を聞いて秘かに動いてはいるが、よしんば俺の思惑がうまくいかなくとも、俺はもうあなたを離せない」

「わぁ、攫ってくれるの?」

 |唆(そそのか)すように、歌うように、レーニエは無邪気に尋ねる。

「最後の手段ではね。でも先ずは正攻法」

「なぁんだ」

「なぁんだって……あのね。俺は勝ち目の無い戦はしません。危ない橋は一等最後に渡るものです。だから、ここからは性根を据えて本気で動かなければ」

「動く?」

「ええ。俺にだって覚悟があります。あなたを手に入れる為には何をしたっていい。だが慎重にはならないと」

 |不埒(ふらち)な事を言いながらファイザルは笑った。

「そんなに面倒なら攫えばいい」

「まったく……あなたは何も知らないからそんな事をおっしゃるが、俺と逃げたって間違いなく苦労しますよ」

「へいき。こんな役立たずな私だけれども、料理も掃除も何でもしてみせよう」

「はぁ……まさかいくら俺が無能でも、あなたにそんな事はさせられませんが」

 ファイザルはやれやれと頭を振ったが、姫君の崇高な自己犠牲発言に思わず厳しい目元が|綻(ほころ)んだ。

「ヨシュア、私にできないと思っているな」

 馬鹿にされたと思い、レーニエは可愛い唇を尖らせて男を睨んだ。

「あなたがするなら俺の方が上手でしょうよ。だがまぁ、いくらなんでもそこまでは落ちぶれちゃいません。今まで使い道がなかっただけで放っておきましたが、俺にだってある程度の財はあります。これでも最前線で長く働いている」

「そうなの?」

「そうです。さぁ、そろそろ下に戻らないと。セルバローの奴がじりじりしているはずだ。こんな危険な所にうっかり長居をしてしまった」

 さっきからずっと危うい城壁の縁に立っていたのだ。その事を完全に失念していた恋人達である。己の恋人の事しか見えていない。

「あ……待って」

 レーニエを支えて矢狭間を今度は内側へ飛び降りようとしたファイザルの腕がちょいと引かれる。

「なんですか?」

「すっかり忘れていたが、私がこの城壁に来たのは父上の最後の思考を辿りたかったからだった」

 自分でも可笑しかったのだろう、照れくさそうにレーニエは言った。

「ええ?」

「お亡くなりになった同じ場所に立って、同じものを見て、何かを感じたかった」

「お父上と……?」

 そう言えばレーニエの父、ブレスラウ公はこの城壁の上で射られ、墜落死したと聞いている。

「そう……だから私は下を見たい。ヨシュア、支えていて」

 そう言うとレーニエは矢狭間を一歩前に進んだ。

「わかりました。でも気を付けて。急に真下をご覧にならないように」

「大丈夫。あなたがいる」

「しかし」

 レーニエはまた一歩進んだ。足先に敷石はもうない。さっきファイザルが立ったのと同じギリギリの足場である。これで限界だった。

「……」

 恐る恐るレーニエは下を覗き込む。恐ろしさで目が眩みそうだったが、腰にしっかりと回る逞しい腕を感じ、勇気を得てさらに目を開いた。

 眼下に地面に向かって垂直に伸びる城壁があった。恐ろしい高さだ。

 父の遺骸は美しかったという事だった。

 落ちてゆくブレスラウ公爵の体を受け止めたというナナカマドの木は既にない。

 代りに荒地に適したハイマツが城壁の一部を緑に染めている。後は|疎(まば)らに草が生えているだけの岩肌のごつごつした平原。

 父上……私は来ました。あなたに会うために、愛する人と共に。

 長らく私はあなたの事を忘失していた。だけど、もう忘れない。

 私はあなたの娘。どうかこの恋に祝福を!

 レーニエは瞳を閉じた。風がまともに顔に吹きつける。



 ―――愛しい人! もう直きあなたに会える。戻ったらすぐに結婚を申し込もう。周り道など最早せぬ。誰にも後ろ指は指させない。我らの愛しい娘の為にも―――

 ―――直ぐに、飛んで帰るから―――


 刹那、世界が反転する。


 ―――俺のアンゼリカ……!


 暖かい感情が心に沁み入る。眼を閉じたレーニエの体からくたりと力が抜けた。

「レーニエ様!」

 直に力強い腕に引き寄せられ、頬が厚いものに触れる。頼もしい広い胸に|縋(すが)りながらレーニエは大きく息をついた。

「……ほら、大丈夫だったろう? 以前のように気を失ったりしていない……」

「しかし、御胸が大きく鼓動しています。もう下りたほうがいい」

 ファイザルは手の甲でレーニエの胸に触れて言った。

「嫌……もう少しこのままで……ヨシュア、しっかり抱いていて」

「|畏(かしこ)まりました。俺の姫君」

 厚い胸に抱きこまれる。頬を寄せると規則正しい鼓動が響いてきた。


 トクトクトク


 生きている……。

 レーニエはファイザル言わずに心に留めたあの時の想いを辿った。

 正面に射手を見とめた時――

 あの時、あなたの心がもう私にないと思った時、死んでしまってもいいと一瞬考えた……確かにあの刹那、誘惑にかられて射手の前に身を晒して――

 ヨシュアが身を呈してくれなかったらあのまま死んでしまって、この人の苦しみも愛も知らぬままに終わってしまったかもしれなかったんだ

 生きている。生きているからこんなにも胸が苦しい……生きていてよかった!

「……」

 レーニエは男の呼吸に自分のそれを重ね会わせた。乱れていた心臓の音が収まってくるのがわかる。

 ほら……鎮まった。あなたが傍にいてくれたから。

 ほっと肩を落とし、レーニエは顎を上げた。心配そうな青い瞳とぶつかる。

「父上と同じ景色を見たよ。その最後の想いが私に……」

「……」

「ヨシュア」

「はい」

「私は示唆を受けた。自分と同じ|轍(てつ)は踏まぬよう、心から望むことに躊躇ってはいけないと」

「……その通りです」

 レーニエは暫く彼の腕にもたれていたが、やがてゆっくりと白い顔を上げた。赤い瞳はこのような曇天の下でも、少ない陽の光を拾って不思議に揺らめく。

「そうだ。私はまだ言ってなかった」

「何をでしょう?」

 顎がつんと上を向く。華奢な拳がファイザルの服の胸を掴む。つま先立ちになって必死で体を伸ばし、長身の男に少しでも近付こうとしている。

「あなたが好き……大好き。だからあなたが欲しい。あなたでなければ嫌」

「……」


 いつの間にか風が|凪(な)いでいる。

 なのに男にはまだ世界が揺れているように見えた。

 なんというお方……!

 こんな方を俺は諦めようとしていたのか。

 無骨な掌が小さな顔を挟んだ。

 見つめ合うと自然に唇が重なる。なぜ今までこのように触れあえなかったのか不思議なくらい、それは二人にとって自然な行為で。

 触れ合った部分からどんなにかお互いを求めているかが溢れるように伝わってくる。

「ん……あ……」

 僅かに離れ、また重ねられる。それは優しく、激しく。長く離れざるを得なかった恋人達がお互いの存在を確認し合うための儀式だったのかもしれない。

「俺のレナ、あなたが愛しすぎてどうにかなりそうだ……誰にも渡さない」

「そうして」

 言葉の合間も惜しむように交わされる口づけこそ全て。

 遠くの雲の切れ間から夏を告げる最初の光が下りてくる。重なり合った影は金色の縁取りに包まれながら微かに揺れた。

「帰ろう? ヨシュア、二人でノヴァの地に」

「お心のままに」


 かくして恋人達は漸くそのいるべき場所をお互いの腕の中に見出したのであった。




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