第90話89.障壁18
ウォウン!
アローウィンの城壁に風がぶつかり唸り声をあげる。
固い城壁の上に寄り添った二つの影は地上からは見えない。
「……大胆なお方だ。敵国の宰相を手玉に取ろうなどと」
「てだま……? いや、私はそんな大それたことは考えてはいない。ただ……」
「ただ?」
レーニエがおずおずと顔を上げると、ごまかしは許さないという強い視線に絡めとられた。
「確かに、それはそう見えてしまうだろう。ドルトン殿もそう言っておられた」
「王族の婚姻は国家間の和平の駆け引きの一部なのですよ。あなたもお母上か、元老院議長辺りから身を
ファイザルがしらばっくれて冷たく問いかけるのへ、身を竦ませながらもレーニエははっきりと言い返した。
「身を呈する? そんな事は一言も言われていない。都を出る時お話をしたけれども婚姻の話すら聞かされなかった。母上は……」
レーニエはそこで言葉を切った。
「母上は、もしも私個人に関わる事態が起きたら、自分で考えて判断するようにと強くおっしゃられた」
「陛下が……そのような事をあなたに?」
「そう……おそらく、陛下も他の皆もこのような話が持ち出されると予見しておられたのだろう。私だけが知らなかった。だが、その時が来たら自分の意志をしっかり伝えるようにと言われた。皆私の意志を尊重するだろうと」
レーニエは片手で自分を抱く男を見上げて言葉を切る。この先を言ってもいいものだろうか?
「だから、私は」
「……」
「婚約はしたくないとジキスムント殿に申し上げた」
一気に言葉を吐き出す。
音を立てて風が垂直に噴き上がる。押さえても押さえても長い髪が男の指に絡んだ。
「あなたは……」
彼を見つめる赤い瞳を覗きこんでファイザルは漸く口を開いた。
「あのザカリエ王弟を選ばれないのですか?」
「うん」
「あの人はご身分も、年齢もあなたに相応しい。しかもあんなに美麗な」
「びれい? 確かに感じのよいお方ではあったが……」
そんなにきれいな人だったかな? と言うように首を傾げた姫君にファイザルはため息をついた。
そう言えばこの娘は出会った頃、自分の事を醜いと思い込んでいたのだ。
周りが散々言いきかせてやっとそうではないらしいことが理解できたようだが、自分を美しいと思っていないなら、あの金髪碧眼のアラメインをさして美男だと思えないのも納得できるな……。
――そうじゃなくて!
ファイザルは妙な方向にずれかけた思考を慌てて修正した。どうもこの娘と関わるとつい己を見失ってしまう。以前からそうだった。
「ヨシュア?」
レーニエは不安そうに奇妙な顔つきの男を見上げた。
「レーニエ様」
ファイザルはあらためて腰を抱く手に力を込め、レーニエを己に引き寄せた。数奇な星の元に生れ、自分の値打ちをまるで知らず、気を付けてやらねば直ぐに瞳を伏せてしまう美しい娘。俯こうとする顎を持ち上げる。
「はい……」
何を言われるのかと覚悟を決めたような赤い瞳が彼を映した。
「攫って逃げると言ったら、あなたは俺に付いてきてくださいますか?」
大きな瞳更に見開かれ、か細く息を引く、刹那の後―――
「はい」
「ふっ……」
ふっくらとした魅惑的な唇から発せられたのは、これ以上は無い程の簡潔な応え。少しぐらいは迷っていいのに。ファイザルは思わず笑ってしまった。
まったくこの姫君に懸っては
「……?」
まさか笑われると思っていなかったのか、たちまち悲しそうに
「あ、あの……ヨシュア?」
「ふ……そんな事をあっさり言ってしまわれてよいのですか」
ぐいと顔を近づけるとファイザルは重ねて聞いた。
「俺は恐ろしい男です。見たでしょう、あの血なまぐさい戦いを。あなたが正視できないようなおぞましい戦場にずっとこの身を沈ませてきたんだ……気づきませんか? 俺の体から立ち昇る血の匂いに」
返事の代わりにレーニエは黒い軍服に包まれた広い胸に頬を寄せた。まるで彼の言葉を確かめるように。ファイザルの言葉はいつもどうしようもなく真実で、なんと言っていいのか分からない。
ただこの人が自分のしてきた事で苦しんでいる、それだけは良く分かった。だから、全てを受け入れたいそんな気持ちを込めて。
「……」
分厚い布をぎゅっと掴む細く白い指。まるで自分の罪を共有しようとするかのように寄せられた柔らかな頬。
不意に顔を鋭く歪めるとファイザルは激しい勢いでレーニエを掻き抱いた。捕まるものもない高い壁の上で。
「あ!」
「レナ……レナ……! こんなに穢れた手であなたを抱ける訳も無い……それでも俺はあなたを諦められない」
風の吹きすさぶアローウィンの城壁の上。
男は華奢な背が
遠い地平線から灰色と黄色の雲がどろどろと沸き上がる空を背景に、二人の人影は一つに重なる。
「愛している」
男の言葉は風が
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