第93話92.障壁21
「レーニエ様、ちょっと……あまりくっつかないでください」
自分から外套の中に抱きこんだはずなのに、腕の中の娘がぴったりと体を寄せてくるのに辟易してファイザルは呻いた。
「何故? 私はこうしていたい」
「俺が妙な気を起こす恐れがありますので、宜しくない」
ファイザルは半ば本気で言った。
例え色は濃くても夏服の生地は薄い。ここまで柔らかい体を押し付けられては。しかもその上、何やら甘い香りが立ち上って鼻腔をくすぐるのだ。
「みょうなきって、何?」
「……言えません」
言える訳がない。
「聞きたい」
「俺が頭の中で考えていることを少しでも知ったら、あなたはきっと逃げ出してしまうでしょう?」
「そんなことはない!」
「そうか……なら」
「きゃっ!」
片手で胸を覆われてレーニエは思わずびくりと背筋を伸ばし、ファイザルは意地悪そうに微笑んだ。
「ほら、ね?」
「びっくりした……それだけ」
「お会いしたときはお痩せになられたと思いましたが、ふふふ……ずいぶんお育ちになられましたね」
「そっそうかな? 背も目方もあまり変わってはいないはずだけど……」
「お胸の事です」
レーニエの見当違いな説明を遮ってファイザルは囁いた。それは悪い男の声である。
「それは……いいこと? あ!」
マントの中で男の手が何をしているのか、王女殿下の顔は赤く染まる。
「このうえなく」
「そ、そぉ?」
「申し訳ありません。やっぱり俺の方が抑えられない。少しだけ周り道をいたします。この辺りは見通しもいいし、俺たちがここを通ることは誰も知らないから」
そう言うとファイザルはハーレイの速度を落とした。
「うん」
嬉しそうにレーニエは彼に身を預ける。ファイザルは胸を覆っていた手を伸ばして顎を掬い上げ、身を屈めて軽く口づけた。手綱は御さず、馬に任せている。
「ずっとこうしたかった……まったく俺は馬鹿だ。自分ながら呆れてしまう」
「馬鹿じゃない」
「馬鹿です。それも大馬鹿野郎だ。あなたは必死で伝えようとしてくれたのに、俺は耳も貸さず、それでいて嫉妬に身を焼いていた」
「嫉妬? あ! そうだ」
すっかり忘れていた事を思い出し、レーニエは眉を顰めた。しかし、こんな事を聞いてもよいものだろうか。
「はい?」
「あの方……えっとぅ……フレデリカ殿は?」
レーニエは言いにくそうにもじもじと俯いた。フレデリカとはあの襲撃の直前にファイザルが会っていた婦人のことである。
「フレデリカ? ああ! あの時の事か」
「お美しいご婦人だった」
「そうですか? 奴はずっとこの街に住んでいる女で……若いころは色々教えてもらったことがあるが、今では貴重な情報提供者、それだけです」
「だけど、あなたは……そのぅ……お楽しみとか何とかおっしゃって」
色々ってなんだろう、レ―ニエは真面目に考え込んでいる。
「覚えていたのですか?」
些かきまりが悪そうにファイザルは尋ねた。
「うん……だって、あなたはフレデリカ殿とその……口づけを……」
「あー、あの時は自分でも感心するくらい咄嗟に芝居ができましたね」
「芝居?」
驚いてレーニエは身を
「ええ、彼女にドーミエ残党の情報を聞いている時、突然ノックの音がしてあなたの声が聞こえたものだから……フレデリカは後で怒っていましたけど」
「なんで?」
「あなたが不埒な俺を見て、俺を嫌ってくれたら俺もあなたを諦められると思って。それでフレデリカは俺に怒ったんです。俺の事を酷い馬鹿だって。まったくその通りですが」
「そうだったの」
ほっとしたようにレーニエは肩の力を抜いた。
「気にしていたのですか?」
「……かなり」
「それは嬉しい。あなたに妬かれるなんて本望だ……だが、今聞くとそれも笑いごとですが、あの時は俺もなりふり構っていなかったから。あなたはふらふらと外に出てしまうし」
「うん……あの時は混乱して、ただ悲しくて……何かで気を紛らわせたかった」
「ええ。今更ですが最悪の結果になりました。俺が馬鹿な事をしたせいであなたを戦闘に巻きこんでしまった……今でも悔やんでます。あんなものを見せるつもりではなかったのに」
「あなたのせいではないし……それに、もう済んだことだ」
「ええ、もう言いません。思い出すだけで背筋が寒くなる……あなたは俺が守る。これからはずっと」
「ずっと? ほんとう?」
レーニエは自分を抱く腕に頬を寄せた。
「本当ですとも。だけど……困ったな。あなたを手に入れるにはまだかなり間があるのに。まだ抱けない」
とん、と髪に唇を落とす。
「一度でも抱けばきっと一度で済まなくなる」
「いけないの?」
「ええ。それは俺が俺のけじめをつけてから。あ、『抱く』の意味がわかりますか?」
「あ~……」
なんとなく理解したようにレーニエは頬を染めた。
「おや、分かるのですか? 大人になられましたね。そうです……だから今は奪いません」
「……」
「ふ……そんな顔をしない。直ぐにでもそうしたいのを必死に堪えているんですからね。今は残念ながらこれだけです」
そう言うと彼は腕にぎゅっと力を込めた。
ハーレイは短い夏草が茂った乾いた草原を疾走する。先程までの強風は既に弱まり、吹き飛ばされた雲が切れはじめ、漸く薄青い空が見え始めている。ウルフィオーレの町がすぐ左に見えてくるが、ファイザルは構わずに右にハーレイの鼻先を向けた。
「ところで、あなたは陛下に何とご報告されるのですか? ザカリエの申し出を断られたのでしょう? 俺にとっては重畳ですが、敗戦国とは言え、あちらにも面子がありますから」
余計な事を考えないように話題は当面の問題に移ってゆく。
「さぁ、何も考えていない。私が経験したことをそのまま話そうと思っている」
「お母上はあなたの幸福を望まれておられると伺いました」
「うん、そう」
「では、偽りのご婚約もせぬ方がいい。後は国に任せる事だ」
「ふ……あなたもドルトン殿にも同じことを言うんだね。ドルトン殿もエルファランの基盤は私一人の犠牲の上に成り立つほど
ファイザルは頷いた。
「ザカリエ。敗戦国としては何としても国民に知らしめる平和の|礎(いしずえ)となる証が欲しいのでしょう。あちらにとってあなたは大変都合のいい存在だったようだ」
「かもしれない。だけど、ザカリエにだって問題はあったんだ。実は」
「へぇ、それは?」
「フェルからの知らせで、アラメイン殿とシザーラ殿が恋人同士で、以前は婚約していたとドルトン殿から教えて貰ったの」
「フェルディナンドが!?」
心から驚いたようでファイザルは大きな声を出した。
「うん。知らなかった?」
「いいえ、ザカリエ王宮にハルベリ大佐の手の物が入り込んでいるとは分かっておりましたがそこまでは……そうですか、フェルディナンドが。成程、小姓として……か。確かに彼ほどうってつけな人物はいないな。しかしよくあなたが承知なさいましたね」
「最初は大反対だった。だけどセバストに諭されて……」
「セバストさんが? あの人はお元気ですか?」
「私がノヴァを出る時までは。オリイもサリアも私の供をしてくれているから、セバストは今一人で館を守ってくれている」
「そうですか……俺の知らないところでもいろいろあったのですね。当たり前だが」
「うん……」
「で、あのシザーラ嬢とアラメイン殿下が……成程な。だからあの娘が……そうか、だから」
レーニエ様のお気持ちがよく分かったのか……それくらい自分で調べなくてはならなかったな。自分の事で精一杯だったと言う訳だ、俺は。なんと情けない……
「え?」
「いえ、あの二人がそこまでの仲とは思いませんでしたので。何かあるとは思いましたが」
「うん。だから、却って問題は単純になったと思った。お互い愛する人がいるなら意にそまぬ婚姻などする事はない」
「それでよくあの老獪な宰相が納得しましたね。色恋などと言う、個人の感情の問題で」
「個人の感情の問題なのだ」
珍しくレーニエはファイザルの言を遮り、きっぱりと言い放った。
「執政者の心が平安でなければ国は平らかにならない」
「きれい事だ」
レーニエの一途な気持ちは理解できるが、戦争や外交、政治はそんなに簡単なものではない。
「きれい事でいいのだ。戦は人の心の欲が起こす。なら、心が満たされていればいい。国の平和は形式だけの婚姻に依らない。人々の努力で|贖(あがな)う。ジキスムント殿も最後は納得された。後は国民をどうやって安心させるかで……なんでも嘘も方便とか。その辺りは私はよく分からないのだが、私の言葉を信じて頂くために髪を差し上げた」
「……」
ファイザルは改めてこの少女を見た。美しいだけの人形ではないとは知っていたが、ここ数日彼女には驚かされっぱなしなのだ。あらゆる意味で。
しかし、当の本人は自分が何か酷く間違ったことを言ってしまった生徒のようにもじもじしている。
王家の血筋、故か――
「それで自分から偽りのご婚約をご提案されたと」
「そう……なるのかな? 正式な平和条約が締結されたなら破棄したらいいと思って。結局あまり良い案ではなかったけど」
「おさすがです」
「この後はどうなるのかな? ジキスムント殿のご信頼に出来るだけ応えたいのだが、私に何ができるかしら」
「ドルトン殿が全て承知しておられます。おそらく、賠償金額の減額や文化、外交使節や留学生の受け入れなどの配慮がなされるのでしょうが」
「私など結局何もしていないのと同じだな……だけど、母上に我儘を言ってこの地に来させて貰ってよかった」
レーニエはことんと後頭を厚い胸にぶつけて言った。ファイザルはちょいとその顎をくすぐる。こんな事ができるのも生きていてこそなのだ。
「確かによくお許しが成ったと思います」
使者は必ずしも任務を全うできるとは限らない。現に数年前に休戦の機運が高まった時に派遣された両国の使者はドーミエによって皆殺しにされている。
ファイザルは最初レーニエが大使と知った時、今まで日陰の身であった彼女が担ぎ出されたのは何らかの謀計があっての事だと思っていた。
もしうまくレーニエが両国の橋渡しになればよし、よしんばその身に万一の事があったところで王室にとっても、国にとっても、
特に痛手とはならないと判断した功利主義の元老院あたりが、彼女の生母であるソリル二世を説得したのだろうと。
でなければ、自分の存在にすら疑問を持っていたレーニエが、このような国際舞台の表に自ら出てくる訳がない。
だがそれは先日ドルトンやレーニエ自身によって否定されたのだ。
レーニエが自ら自分の殻を破り、王室も、その股肱も彼女を認めはじめている。自分だけが心の中に障壁を抱え込んでいた。
その壁をシザーラが、セルバローが、ドルトンでさえ叩いてくれたのだ。後は自分が壊すしかなかった。
全てはこの娘の行動力故か……
「ヨシュア?」
考え込んでしまったファイザルを顎を上げて下から覗きこむ姫君。
「え? いや、あなたが無鉄砲なのは知っていましたがそれでも程がある。悪くすれば殺されるかもしれなかったんですよ。先日の事はもう言いませんが、以前の使節がどのような結果になったかご存知ですか?」
「それは聞いた。だけど何かせずにはいられなかったから……ここに来てよかったと今は心から言える」
「……」
やがてファイザルは街を西に望む小さな泉の傍で馬をとめた。
泉は浅いが地下から湧きだしているらしく、小さな泡が幾つも水底から昇っている。周囲には貧弱な灌木が数本、ひよひよと生えている。
「ここは?」
「むかし鉱山で働いていた者達が街に帰る前にここで身を清めたり、道具を洗ったりした場所と言われています。去年まではもっと荒れておりましたが、だいぶ回復してきました」
「ここも戦場だったの?」
「数年前はね。一時は泉も枯れておりましたが」
「こんなにきれいなのに、勿体ないことだ」
「……戦とは限りない無駄の集積です」
ファイザルは周囲に目を走らせて、近づくものがないか確かめている。レーニエは黙って水際に進み、膝をついて透明な水に両手を浸した。傍らでファイザルの愛馬ハーレイ号も鼻づらを突っ込んで水を飲んでいる。
「冷たい」
レーニエは両手で水を掬くいあげ、頬を濡らした。
「湧き水ですから」
背後から声が近づく。鉄色の髪が水面に揺れた。
「一層お美しくなられた」
ファイザルは水面に映るレーニエを見つめたまま呟く。振り向いた瞳の虹彩は外側になるにつれやや黒味を帯び、大きな瞳を更に大きく見せていた。
しかし娘はただ、そぉ? と言うように首が傾げられるだけで、自分がどのように男の眼に映っているかなど気にもしていない。
「幾つになられました」
「はたち」
事も無げに答えると、レーニエはぱちゃぱちゃと水を弄ぶ。
「ねぇ、ヨシュア? ノヴァに帰ったら、またあの山の湖に行きたい」
「ああ、あの時も俺は肝を潰したものでした……」
二年前の夏―――
二人は暫し、あの幻のような出来事を想起していた。
「最初は湖に住むと言う女神が現れたのかと思って……次にはあなたが入水自殺でも図ったのかと……まったく」
「うん。いっぱい叱られたね」
「そんな事しか覚えていないのですか? 俺はあれから暫くあなたの肌を思い出して眠れぬ夜を過ごしたと言うのに」
「……う」
自分でも思い出したのか、恥ずかしそうに俯く姫君の指先が照れ隠しのように水面を滑った。ファイザルはその指を捉え、自分の唇に導く。
「あなたは、どこまで俺を骨抜きにしようというんだか……」
|籠絡(ろうらく)された男は指についた水滴を吸い取って口づける。
レーニエは暫く、指先を男の唇が弄ぶままににされていたが、やがてゆっくりと白い顔を上げた。
「これからも傍にいて」
「またしても」
「え?」
「俺のセリフを横取りする気ですか?」
ファイザルが言うのは、あの遥かなノヴァでの最後の日、領主館で別れを告げた日の事だ。あの時もレーニエは彼にそう言われた。
「いけない?」
「勿論です。ここからは俺が動く」
「何をするの?」
「そうだなぁ。先ずは陛下にお会いしなければ」
「母上に? では私から言って……」
「無用です」
「……けど」
「俺が動く。あなたは待っているだけでいい。今度こそ――」
「今度こそ俺は間違えない」
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