第89話88.障壁17

 それは昨夜、もうかなり遅い時刻であった。

「閣下、夜分に失礼いたします」

「ファイザル少将殿かな?」

 ザカリエの宰相達を送り届けたその足でファイザルはドルトンの部屋の扉を叩いた。非常識な時刻にも拘らず、意外に速やかな返答があり、扉を開けてくれたのはドルトン自身だった。

「このような時刻に押しかけ、申し訳ありませぬ」

「いいえ、構いませんよ。遅くまで御勤め御苦労さ……おや?」

 ドルトンはファイザルに椅子を進めながら彼の切れた唇を見て面白そうに眼を細めた。言うまでもなく、先ほどセルバローに殴られた痕である。

 これでは言い訳のしようもない。ファイザルは仕方なさそうに苦笑した。

「お見苦しくてすみません。ついさっき同輩と少々揉めまして」

「ほぉ、『掃討のセス』を打擲ちょうちゃくするとは大胆なご朋輩ですな。一体どなたなんだか……」

「お見苦しいものを晒し、痛み入ります」

 知っているだろうに、食えない男だとファイザルは思った。この男は商人や官僚などの色々な顔を持っているが、その実、国の機密事項を扱うハルベリ少将の懐刀と言われている男なのである。

 しかもレーニエの補佐を務めているという事は、国王ソリル二世にも拝謁できる身分であることを示している。

「して、何でまたそのような事態に?」

 ファイザルがなかなか口火を切らないので、ドルトンの方から水を向ける。興味深々な態度を隠そうともしない。

 軍人らしく背筋を伸ばして椅子に腰かけた男は、自分の事を話すのは不慣れな様子で視線を床に落とした。

「これは謙遜ではなく、全く私の不徳の致すところで」

 ファイザルはドルトンの従者が茶を持ってくるのを辞退し、部屋を下がるのを待って言った。

「それはそれは、なかなか興味深い経緯のようだが……いや失礼。して、私に何かお話があるのでしょう?」

「はい。お伺いしたき儀が」

「何でしょうか?」

「私のような者が何を言うかと思われるだろうが、ある事柄について一切の修辞抜きでお伺いすることを許していただきたい」

「わかりました。で、それは?」

「先ず初めに、閣下は様々なお顔をお持ちのようだが、そのお心根は国王陛下の忠実な臣下であらせられますな?」

「言うまでもなく」

 ドルトンは力強く頷いた。

「と言う事は、レーニエ様の事をどのように捉えておいでで?」

「あなたのおっしゃりたいのは、私が完全にレーニエ殿下の御味方かどうかどうかと言う事ですな?」

つづめて言えばそうです」

 国王直属の股肱ここうで貴族であるドルトンのあからさまな指摘にも臆さず、ファイザルは認めた。

「成程、それを先に確かめられると言う訳ですか」

「ええ、まぁ。で、どうなのです?」

「そうであってもなくても、偽りを告げるのは容易い事だと思いますが」

「確かに。ですが、それは私が判断します」

 自信ありげに軍人は頷いた。

「ふむ、成程。大した自信ですな。いや、揶揄やゆしている訳ではありませんよ。真面目に感心しておるのです。では申し上げましょう。私はアストラ・ドゥー・ドルトン伯爵。家は代々王家の忠実な臣下ですが、あまり表に出る事の無い家柄です。女王陛下にお仕えしておりますが、レーニエ殿下の事も昔から存じております。しかも、今のところ王宮内では唯一の味方と申し上げてよい……これでどうですかな?」

 応えてからドルトンは相手の反応を窺うように眉を上げた。

「なるほど左様でございますか。率直に答えて頂き御礼申し上げます」

 暫くドルトンの言葉の意味を探っていたかのように沈黙していたファイザルは軽く頭を下げた、

「ふ……流石はファイザル殿。なかなか良い眼をしておられる……それで、本題は? 前置きはもういいでしょう。さぁ伺いましょうか?」

「……それでは申し上げます―――レーニエ姫殿下とザカリエ王弟殿下の婚約は、国事として成される事になったのでしょうか?」

 対峙する二人の男の間に奇妙な沈黙が流れた。ファイザルの発した問いの唐突さを思えば当然である。彼は王家とは何の縁もない無骨な軍人である。

「う~む」

 暫くしてからドルトンは低く唸った。彼の眼は相変わらず面白そうに細められたまま、ファイザルに注がれている。

 この男はレーニエの味方なのかもしれないが、腹の内を全てさらけ出したわけではない、ファイザルは直感的に感じとった。

「……私のような一介の軍人には教えられないような事なのですか?」

「いいえ。そう言う訳でもないのですが……ファイザル殿」

「はい」

「その事をお答えする前に……失礼ながら、私の方から質問するのですが、なぜあなたがそのような事を気にかける必要があるのか教えていただいてよろしいですかな?」

「俺が答えれば、あなたにも応えて頂けるのか?」

 ファイザルは短く問うた。軍人の言葉は常に簡潔且つ明瞭であるが、ドルトンの熱が感じられない落ち着き払った態度が彼の心の琴線に触れたたようだった。

「お約束致しましょう」

 ドルトンは硬質な鋭い光を放つ青い眼を受け止めながら頷いた。

「それでは申し上げます。馬鹿げたことと笑われるかもしれませぬが……身分の差を考えれば畏れ多きの極みなれど、俺はレーニエ様に懸想をしている」

「なんと」

 驚いたような顔をしたものの、ドルトンの態度は相変わらず気持ちがこもっていない。

「だから、この問題は俺にとって非常な一大事なのです」

 ファイザルは目の前の官僚を睨みつけるように言い放った。

「驚きましたな」

「御冗談を」

 そらとぼけるドルトンをファイザルは容赦なく切り捨てる。

「あなたは俺が何を言いに来たか薄々気づいていたはずだ」

「ほぉ、何でそう思われましたかな?」

「あなたとお会いするのは今回が初めてではない」

「覚えていて下さったか。光栄至極。あれは―――二年前でしたかな」

 忘れるはずがない。今とはずいぶん風体が異なってはいるが、二年前の春、商人としてノヴァの地を訪れたドルトンにファイザルはレーニエからの書状を手渡しているのだ。

 その折にこの男はただ者ではないと感じとっていた。

「そう、あの折にあなたは俺とレーニエ様の事を陛下に報告したのだろう?」

「慧眼ですな、その通りです。最早隠しますまい。ちとわずらわしいかも知れませんが、順を追って申し上げます。宜しいかな」

「伺いましょう」

「実は私は昔から陛下にレーニエ殿下のお目付け役を仰せつかっておりましてな。ただし、殿下は私の事は知らされてはおらぬのですが……私はあの方の複雑なご事情も全て承知いたしております。都を出られた経緯も……そして、あの春の日、私はノヴァゼムーリャで久しぶりに殿下にお目にかかって文字通り驚嘆したのですよ」

「それは?」

「はい。王宮の最奥の小さな屋敷で、いつも物憂げに退屈しておられたあの方が、ノヴァの地で生き生きと領民と交わり、小さな子ども達に慕われておいでになった。それは楽しそうに……そして」

 ドルトンは思い返すように一旦言葉を切り、目の前の軍人を見つめた。『掃討のセス』の二つ名を持つ、恐ろしいばかりに腕の立つ男を。

「あの美しい眼がずっと追っていたのは――あなたでした」

「……」

「ええ、間違いありません。レーニエ様はあなたに恋しておられた」

「……それであなたはどうされたのか」

 用心深く表情をおし隠しながらファイザルは相手の様子を窺う。

「どうもしやしません。この事は陛下にも申し上げませなんだ。まだ、時期尚早と思いましたのでね……ただ、あなたの事は調べさせていただいた」

「ふん、それならば俺の最低の出自や、好ましくない昔の行状なども全てご存じと言う訳だ」

 苦々しげにファイザルは吐き捨てた。

「あなたにははなはだ笑止千万だろう。こんな男が国王陛下、ただお一人の姫君に懸想等と」

「私はそのような事は一言も申し上げておりませんよ。軍人としてのあなたの経歴はご立派なものでした。挙げられたご功績を全て出世に置き換えれば、かつてのブレスラウ公もかくやと思えるほどの」

「……」

 ファイザルは黙った。ドルトンも口をつぐむ。

 再び奇妙な間が二人の間に漂った。


「ご婚約はありません」

 唐突にドルトンは言い放つ。ファイザルは顎を引いた。してみるとシザーラの話は彼女の直感ではなく、政治的な事実だった事になる。

「おや、あまり驚かれませんな。どなたからか漏れ聞かれましたかな?」

「……」

「そう、ご婚約はありません。レーニエ様がきっぱりとお断りになった」

「レーニエ様が?」

 それまで皮肉なほど冷徹を極めていた男の声が僅かに上がったのを感じとり、ドルトンはにやりと笑った。

「はい。ザカリエ宰相に面と向かっておっしゃられた由にございます。私は後で伺いましたが」

「あの髪は……」

「ええ。レーニエ様は婚約は拒否されたが、かの国の事情をおもんぱかり、偽りの婚約ならされてもよいと言われたそうです」

「だが、それでは……」

「左様。お察しの通り、ザカリエ国内は敗戦に加えて、国内事情もいまだ安定せず、民は戦争再開や略奪の恐怖に怯えきっております。ザカリエ国内でこれでは、両国間に広がる自由国境地帯の安定など望むべくもない。国民には明確な平和の証が必要なのです」

 ドルトンが丁寧に説明しなくてもファイザルにもその理屈はよく分かる。だからこそ、ザカリエ王弟と釣り合うレーニエがわざわざ大使に選ばれたのだと思ったのだから。

「さもありなん。ならば、婚約が偽りなどと言う事など、到底ありえぬ話では」

「本当ならね。ですが、ここが肝心な部分なのですが」

「……」

「この地に出立直前、女王陛下はレーニエ様のお幸せを第一に考えるようにとおっしゃられ、私にその補佐を命じられたのです」

「何!?」

 こんどこそ男は心底驚いたようだった。

「国王陛下……レーニエ様のお母上がそんな事をおっしゃられたのか」

 ファイザルは独り言のように呟いた。静かだった青い瞳が急にもの狂おしく輝きだす。

「左様。ですから、ここからは私の仕事。レーニエ様は両国の橋渡しの為に出来るだけの事はするとジキスムント卿に誓われた。あの髪はそう言う訳で、口約束の証拠にと」

 ドルトンは男の眼の奥に激しい感情が波打ち始めたのを見据え、ことさらに熱の入らぬ話し方をする。

「なにも御髪まで切られる必要はなかったのですが、殿下はああいう……何と言うか、純粋無垢なご気性ですから、まぁ、仕方なかったかもしれません。私が傍にいたならそのような事にはならなかったでしょうが、卿はいたく感激されておられたので、あれはあれで無意味な事ではなかったと思います」

 ドルトンは頷いた。

「そう、でもまぁとにかく、偽りにせよ婚約をしたとなれば、後で正式に破棄しないといけません。しかし後でやっぱりやめましたとなると、先日あれだけウルフィオーレ市民に騒がれたお二人ですからあまり上策とはいえません。なので後は、ファラミアにこの件を持ちかえって陛下や元老院の方々と協議いたします。ザカリエのお国事情もかんが

みなくてはならず、これは最早高度に政治の問題で、レーニエ様の手には負えません。ですが、御髪を切る等と言う、多大な犠牲を払われた殿下の面目も立つように取り計らいますので、この件についてはお任せください。ファイザル殿」

「委細承知」

 ファイザルの言葉は何時も短い。

「だが、これですべての問題が片付いたという訳ではないでしょう?」

 ドルトンはファイザルを値踏みするように無遠慮に見つめ、椅子に掛け直した。

「俺の事、か……」

「その通り。確かにザカリエとの婚姻は無くなったが、あなたもおっしゃられたとおり、レーニエ様は女王陛下唯一の愛娘。今まで隠してこられたが、陛下には今後レーニエ様の存在を明らかにされるおつもりのようです。そうなれば、如何に戦勝の最大功労者と言えど、一介の将校に過ぎないあなたには万に一つも叶う恋ではない。申し訳ないが」

 言外にお前は身を引けと言う言葉をたっぷり匂わせてドルトンは薄く笑った。

「確かにその通りだ。俺などに出る幕などない――こんな人殺しなど」

 冴え冴えとした瞳が危険な色を浮かべて相手を捉えた。この部屋に入った時に流石に身からは外したが、ファイザルは傍らに剣を置いたままである。ドルトンは思わず姿勢を正した。

「誤解の無いように申し上げるが――これは私の純粋な好奇心からお伺いするのですがね。あなたは一体どうされるおつもりなのです。まさかとは思いますが、王室に仇なす事になればいかに救国の英雄と言えど、ただでは済みますまい」

 ドルトンとてファイザルとは異なる戦場をくぐり抜けてきた男である。ファイザルに発した問いは容赦なきものであった。

「ドルトン殿」

 ファイザルは不意に立ちあがった。座っていてもその長身と体躯のおかげで威圧感のある男がすっくと身を伸ばし、真正面からドルトンを見下ろしている。

「よくぞ、このような大事を俺のような男に話してくださった。あなたのご示唆は俺にある啓示を与えてくれた。この点において俺はあなたにいくら感謝してもしきれぬ程だ。だが――」

「……」

 今度はドルトンが黙る番だった。

「ここからは俺が考える」

「だから何をなさろうと言うのですか? くれぐれも短慮はお控えられた方が」

「わかっている。しかし、わかっていないとも言える。レーニエ様がご自分の御髪を犠牲にされたのなら、俺も何か代価を支払わなくてはならない。だがこれだけは誓おう。あの方の髪の一筋の方がこの右腕よりも大切だ」

「何をなさる?」

「俺にしかできない事を」

「……あの方を手に入れられるつもりなのですか? できますかね?」

「さぁそれはやってみないと。ここからは柄にもない事を滅法する必要がありそうだ。あなたには心からの感謝を。だが」

 不意に男の瞳から静かな火花が発っせられたように感じ、ドルトンは思わず背を反らした。

「……」

「俺の邪魔はしないで頂きたい」

 そういうとファイザルは丁寧に一礼し、剣を取ると返答も待たず、大股に部屋を出て行った。


「ふぅ~」

 残されたドルトンは大きく溜息をつき、椅子の背に深々ともたれかかった

 やれやれ『掃討のセス』か……などほどな。一瞬斬られるかと思ったわい。レーニエ様も恐ろしい男を望まれたものだ。

 じっとり湿った掌を乾かすようにひらひらと振る。

 ともあれ、お膳だては整った。後はあの男次第と言う訳か……ふむ、この場に陛下がおられたらどうされるであろうなぁ、ちょっと見てみたい気もするが……。

 ドルトンはくくくと含み笑った。

 まぁ、明日からまた忙しくなるわい。レーニエ様にはもうさっさとここからお引き取り頂いて、ご自分の事だけ考えて頂くようにしなくては――あのお方こそ、お幸せになられなくてはいけないのだから。


 ドルトンはファイザルが去った扉を尚も見つめながら一人考え込んでいた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る