第78話77.障壁 6
華々しく執り行われた儀式の後、急遽晩餐会が設けられ、使節団の主だったものが出席したが、今はそれも果て、各々の部屋で休む時刻になっていた。
「レーニエ様、皆様方が参られました」
サリアが告げた。
和平の式典が執り行われた、その夜の事。
この内々の会談は、ザカリエ側より是非にもとドルトンを通じて求められ、レーニエが応じたものだ。ドルトンは厳正な身体検査を行う事を条件に、二人を迎え入れることを承知した。
二人の将軍たちは難色を示したが、ザカリエ代表の二人が今更エルファラン王女であるレーニエに対し、敵対的な手段に出ることは考えられない故の決断だった。
ドルトンはレーニエに対し、自分はこの件に関して一切口を挟まないと伝えた。
「私に下された命令の趣旨からして、私は介入いたしません。レーニエ様の安全は私が保障いたします。理由は申せませんが」
「……」
レーニエは訳がわからないながらも、彼の判断を信じた。とにかく、会わねば何も始まらないと思ったからだ。
「お通しして」
レーニエは、落ち着いてサリアに案内するように指示した。
ザカリエ王弟アラメインと宰相ジキスムント卿、そして最後に影のようにドルトンが控えの間より、居室に入ってくる。
「お休みのところに押しかけ、まことに申し訳ございませぬ」
ジキスムントは丁寧に頭を下げた。一歩前に立つアラメインも同じく深礼をとる。
「今日は大変な一日でありました……さぞやお疲れのことと存じておりますのに、申し訳ございませぬ」
「構わない。大切なご要件とか。サリア、大事ない。外せ」
「はい。では、ご用があれば、隣で控えておりますので」
扉を閉める前に心配そうな一瞥を主に投げかけ、サリアが下がる。ドルトンもジキスムントに目配せをすると速やかに部屋を出た。彼の事はジキスムントも納得しているのだろう。
「おや、レーニエ姫には男物の服をお召しに?」
アラメインはシャツに下衣という、レーニエのいつもの服装を見て驚いたようだった。公式の場ではこれでも気を使って王女として振る舞ってきたが、窮屈な服装が元々苦手なレーニエは、私室に戻るとすぐに着替えてしまう。
髪も解いて後ろで緩く結わえるだけにしてしまうので、彼は初めて見る長い銀髪を珍しそうに眺めた。
「私はゆったりした服装が好きなもので……お見苦しい点はお許し願いたい」
自分が姫と言われたことを
「いえいえ、よくお似合いで。私もこのような略装で失礼いたしておりますれば」
アラメインは屈託なく笑った。
「殿下、時が惜しゅうございます。レーニエ殿下、失礼ですが早速本題に入ってよろしゅうございますか?」
ジキスムントが自国の王子を遮る。レーニエは無言で頷いた。
「この爺奴は失礼ながら、今日一日のご様子を見て、レーニエ様を大陸で一番古い王家のご直系に相応しい、度量の広い方とお見受けいたしました。
そのご気性をお見込みいたしまして単刀直入に申し上げまする。ドルトン殿もこの事はご承知済みで」
「そうか。申せ」
「では申し上げます。エルファラン王室には、ザカリエ王家と姻戚関係を望まれまするか?」
「……」
レーニエは静かに赤い瞳を見開いた。思わず宰相の横に立つアラメインを見たが、彼は何も言わずうつむき加減に座っている。男にしては長い睫毛が物憂そうに伏せられていた。
「いかがでございましょうや?」
「……なるほどな」
レーニエは柔らかく視線を解いて苦笑を一つ落とした。
「母上の申されたとおりに事が進む」
「ほう……と申しますと?」
「大使の役目を申し出てから、私の知らないところでいろいろ準備が整えられていたという事だ」
「おお! それでは。ソリル二世陛下にはこの婚姻を既に姫にご相談に?」
「そうではない。貴国から私に関する個人的な類の話が持ち出される事もあるだろう、と母上はおっしゃっておられた」
「なるほど。流石にエルファラン国王陛下は
「……」
いや、自分はずっと日陰の身だったからそれはないはず……とは流石に言えず、レーニエは黙ったが、ジキスムントは真面目な顔で続けた。
「ですが、これは個人的な話ではありませぬ。我が国は敗戦国、賠償問題は概ね決着がつきそうだが、それだけでは疲弊しきった民は心から安心いたしませぬ。そこで両王家の結びつきと言う目に見える、形での関係強化を、と考えるのは人の気持ちでございましょう」
「……話はわかる」
「幸いにも、アラメイン殿下は王弟。レーニエ様はこう申しては失礼ながら、お生まれのご事情の複雑さ故か、王位継承権は既に放棄しておられるとか。もしこの婚姻が実現したとして、両王家にはさしたる波風も立ちますまい。この場合、敗戦国たる国の王族アラメイン殿下の入り婿となりましょうが、レーニエ様には承服頂けましょうや?」
「そんな事を申してよいのか?」
「どういう意味でござりましょう」
「アラメイン殿にはいかが思われる」
レーニエは老宰相には応えず、なぜか苦しげに自国の宰相の話を聞いている、自分の婚約者になるかもしれない青年の方を向いた。
「私は……はい。国の安寧の為ならばどんなことでも致す所存で……それが王家に生まれた者の崇高なる義務かと」
彼は美しい翡翠の目に哀しみの色を
「そうか」
「アラメイン殿下、その言い方ではいかにも気が進まぬというのが明白で、レーニエ姫に失礼ではありませんかな?」
「え? いえっ! 私はそう言うつもりではっ……申し訳ありませぬ!」
アラメインは酷く
「構わない。アラメイン殿には正直におっしゃっていただく方が良い」
「しかし、ソリル陛下がそうおっしゃられたという事は、エルファラン王家には異存がないと言う事でありますな」
「さぁ、それは知らぬが、そう言う話しが持ちあがることを予見できなかったのは私だけであろうな」
苦々しげにレーニエは言った。
「私は事情があって今まで、ずっと隠棲してきたのだから。貴国の事情もよくは知らぬ」
「御意」
満足そうにジキスムントは頷く。彼の思い通りに話が運んでいるのだろう。
「シザーラ殿にはこの事は御存じか?」
レーニエはアラメインに向かって尋ねた。
「え? は……はい。きちんと話はしてはおりませぬが、彼女は聡明ですからおそらく全て察しているでしょう。しかしなぜ彼女の事を?」
「知りたいと思って」
「レーニエ殿下。何をおっしゃりたいのか分かりかねまするが、これは国同士の決めごとでございますれば、個人の私情など挟む余地はありませぬ。よって、形式的にお伺いするのでありますが」
ジキスムントは断固とした調子できり出した。
「聞こう」
「レーニエ殿下には、このお話をご承服していただけるのでしょうか?」
極めて穏やかに且つ紳士的にジキスムントは尋ねた。
「……」
レーニエは静かに彼を見つめる。ジキムスントも彼女を見つめ返す。しばらく沈黙が部屋を覆った。
「ジキスムント殿はシザーラ殿のおじい様であらせられるのだろう? そんな婚姻が成立すれば、もしかしたらシザーラ殿は悲しまれるのではないのか?」
やがてレーニエが静かに問うた。
「なんと!?」
外交的演技ではない、本物の驚きの表情が老宰相の灰色の瞳に浮かんだ。アラメインも同様である。彼は美しい瞳を見開いてレーニエを食い入るように見つめていた。
「失礼を承知で単刀直入に申し上げるが、アラメイン殿とシザーラ殿。お二人は愛し合っておられるのだろう? 以前は婚約もされておられたはず。違うかな」
極めて平坦にレーニエは続ける。ジキスムントは暫し紡ぐべき言葉を失った。
ある意味正念場とも言うべきこの場で、この姫は一体何を言いだされるのか? 作為があるのか、それとも―――。
さすがの百戦錬磨の老政治家も、ガラス玉のような赤い瞳に潜む意図を測りかね、深窓の(としか見えない)姫君を探るように見つめる。
彼に見つめられて震え上がる人間は何人も見たが、レーニエは特に怖気づく様子も見せず、ごく自然に彼の視線受け止めていた。
「なるほど。左様か。先程も感じましたが、貴国はかなり優れた諜報網をお持ちのようですな」
それはドルトンを通じて
レーニエは愛する弟とも言うべき、フェルディナンドが敵国の王宮に潜入し、危険を冒して手に入れた情報を無駄にしたくはなかった。今が、今こそが母の示唆した「その時」なのだ。
「でもそうであろ?」
「エヘン……先程の広間での醜態はともかくとして」
話しの穂を継ぐようにジキスムントは軽く咳払いをした。
「アラメイン殿下と我が孫娘の婚約の事も、それが解消されたことも、我が国でも殆どの者が知らないことでしたが、ここまでの事情を知られているとは。
私の不在の間に随分ザカリエ宮廷も墜ちたものだ。そんな情報を容易く入手できるとなると……」
「容易い訳がない。私の愛する者が命がけで得た貴重な情報だ。無駄になぞ出来ぬ。使うべき時に使うのがよい」
未だ、王宮内に潜入したままのフェルディナンドの事を想い、レーニエは苦しそうな顔になった。その情報は昨晩ドルトンに齎されたばかりのものである。
つい先ほどまでレーニエは、なぜ急に彼がそんな情報を自分に告げたのか分からなかったが、今やっと腑に落ちた。
「それに先ほどのやり取りで、お二方の仲はあの場にいた者達に知れ渡ったも同じだろう。この鈍感な私でさえ気がついたのだ。
婚約がなぜ解消されたかは知らぬが、お二人はまだ愛し合っておられる、そうだな、アラメイン殿」
「……」
「誤解の無いように言っておくが、私とて戦が
それがどんなに不本意であってもな。しかし、母上は私に自分の意思で行動するようにおっしゃられた」
レーニエは今更ながらに母が自分に示したことの重大さを感じて唇をかむ。
今ならわかる。フェルの事も。こう言う時の為にいろいろな準備をしておく必要があったのだ。何が切り札になるか分からぬものだ。だとすれば――。
既に心は決まっている。
「私は想い合うお二人を押しのけてまで、この婚姻を進めようとは思わぬ」
レーニエはアラメインに向かって言った。
「確かに、私とシザーラは愛し合っております」
苦しげに金髪が揺れる。
「幼いころから一緒に育ち……でも、凡庸な私と違って彼女は聡明で、勉強家で、度胸もあり、私は彼女にずっと憧れておりました。
何時でもこの情けない私の相談にのってくれ、その身を危険にまで晒して。ですから、この度の事では私も国の役に立てることを彼女に示したくて……」
終にアラメインは己が両手に顔をうずめてしまう。金の前髪が乱れてその額に懸った。
「それでよいと申されるのか?」
レーニエは静かに項垂れるアラメインに問いかける。見かねてジキスムントが口を挟む
「レーニエ様、暫く。私はシザーラに諦めよと申しました。彼女も我が孫。女ながらによく政治を学び、国家間の駆け引きの事は弁えております。
先ほどもあの子の方から、この話を進めるようにと申して来よりましたわ」
「お辛かったであろうな……」
レーニエはシザーラに己が心の内を重ねた。
シザーラ殿の決意の片鱗も私にはない。今この瞬間も会いたくてたまらないのだから。
伏せられた長い睫。人間を良く知るジキスムント目には、レーニエがまるで自分の事のように心を痛めていると思えた。
しかし、ここは個人の情など入り込む余地のない、国際舞台の幕間である。
「何を仰せられますか。レーニエ様もおっしゃられたではありませぬか。戦は人の心の欲がもたらすもの。ならば施政者同士の絆が深まれば、人々の我欲故の闘争心の抑止力になるはずです。
レーニエ殿下、あなたも国王の娘と言うならば、よく考えてごらんなされよ」
老宰相の声は厳しかった。
ドンドンドン
些か乱暴なノックの音に、隣室で控えていたサリアははっとなった。音はレーニエたちがいる奥の間ではなく、廊下から響いてくる。
ここにザカリエ王弟と宰相が来ている事は、誰にも知られていないはずで、知っておられる人は絶対に会見の邪魔をしないって聞いていたのに。
「どなたでしょう」
サリアは用心深く扉に口を寄せ低く問うた。
「俺です。どうか、開けて下さい」
扉の向こうから低く錆びた声がした。
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