第79話78.障壁 7

 ジキスムントがレーニエの部屋を訪れる半刻ほど前。


「ウルフィオーレ市内は既に静まり返っております。広場に居残って最後まで浮かれ騒いでいた連中も、セルバローの手の者によって強制的に家に帰されました」

「左様か。いやご苦労、ご苦労」

 ドルリーは上機嫌で、その日最後の報告を持って現れたファイザルに頷きかえした。片手には赤い酒がなみなみと注がれた杯を持っている。横には矢張り酒の杯を手にしたフローレスが優雅に椅子にもたれていた。

「済まぬな、ヨシュア。お前達が休みも取らずに働いておるのに、形だけとはいえ、責任者たる我らがこのように……街の連中と変わりのない事を……ジャックジーンにも申し訳がない」

 生真面目なフローレスが杯を卓に置こうとしたが、ファイザルは緩やかに首を振った。

「お気になさいますな。閣下方のお気持ちはよく分かります。市民とて同じこと。長年の辛苦の果ての講和は、何よりも嬉しいものでございましょう」

「全てお前のおかげだ、ヨシュア・セス」

 フローレスは心からそう言った。

「その通りだ。どうだ、そなたも一杯ぐらい飲まぬか? イケル口だろ?」

 ドルリーも禿げ頭を赤く光らせて新たな杯を取る。

「いえ、お気持ちだけ頂いておきます。まだ、気を抜くわけにはゆきませぬ」

「お堅いのう……だが、お前からしてみればそうだろうて……済まぬな、今宵だけは浮かれ爺ぃ共を許してくれい」

「どうぞ、心ゆくまで浮かれてください」

 将軍達は息子を見るような眼でファイザルを見て笑った。ファイザルも老将軍達の気持ちはよくわかる。

 二十年続いた戦争に人生の多くの部分を費やしてきた彼らなのだし、敬愛する方々の血を直接受けた姫君の存在を思いがけず知り、心から嬉しいのであろう。ファイザルは理解を込めて頷いた。

「ですが、一つだけ伺いたい事が」

「ん? 何だ」

「晩餐会の後、ジキスムント卿とアラメイン殿下には、まだ宿舎にお戻りになっておられないとか。他の方々は、先ほど俺の部下達が宿舎までお送りしたようですが」

「ああ……その事か。確かに」

「お二人はまだ帰られておられぬ」

 将軍達はそろって頷いた。どうやら事情を知っている様子である。ファイザルは怪訝そうに眼を細めた。

 午後の市民を前にした講和宣言に続き、急遽取り行われた市庁舎での晩餐会は、使節団の荷に積まれていた多くの食材や酒のおかげで、エルファランの体面を保てる豪華なものとなった。

 ファイザルも末席で晩餐のみ参加したが、早々に切り上げ、和平に浮きたつ市中の警備体制を指示したり、庁舎内を見回りをしたりでずっと忙しくしていた。

 大使たちにしても緊張の連続で、ファイザルは晩餐の終わる頃のレーニエの横顔に疲労の色が濃い事を見てとっていた。食事も殆ど摂っていなかった事も。

 そのすべてが滞りなく終わりった今、あの娘はゆっくり休んでいるのだろうか? 今日一日で行う分の仕事としては充分なはずだった。

「この上まだ何か政治向きの事があるのでしょうか? お二人はドルトン殿とお話でも?」

「いや、ドルトン殿とは直接話はされない……と思う」

「……どういうことでしょうか? まさか」

 ファイザルの眼が険しくなった。

「ジキスムント卿とアラメイン殿下は、そろってレーニエ殿下のお部屋に行かれた」

「なっ! 俺は聞いておりませぬ! 警備の者は!?」

 ファイザルは顔色を変えて扉の方へ身を翻したが、フローレスはその背中に声をかけた。

「ああ待て、ヨシュア・セス。それは問題ない。今ここでレーニエ殿下の身に何かあれば、今度こそ国を滅ぼされるだろうことは、ジキスムントはよく承知しておる」

「しかし!」

「まぁまて、ドルトン殿は今シザーラ殿と会見中であろうよ。つまり万が一の時の人質だな。それほどの覚悟があると言う事だ。我々も黙っていた訳ではない。反対はしたし、付き添うとも言った。だが、最後はレーニエ様が会うと申されたのだ。我々もひかざるを得なかった。身体検査は厳密に私が行った。それこそ口の中までな。だが、今晩の用向きを考えれば、そんなに警戒することもなかったかもしれん」

「用向き? それは?」

「わからぬかな?」

「……」

 わかりたくもない。

 協定の場にザカリエ王弟が突然現れてから、ファイザルの心中はかつてないほど混乱を極めていた。この状況についても、そして自分自身についても。

「俺は政治家ではありませんから」

 ファイザルは扉に手を掛けたまま言った。非常に気分が悪かった。

「……であるか。ふむ……おそらくアラメイン殿は、レーニエ姫殿下に求婚しに行かれたのであろうよ。だから野暮は止す事だ」

 フローレスの言葉にファイザルは愕然と向き直った。

「……求婚?」

「そうだよ。だがまぁ、さもありなん。わしはよい話だと思う。お二人は御身分も年の頃も釣り合う。ついでに言うならば、ご容姿もな。

 しかも、お二人とも王位継承権や利権、富にさっぱり拘泥こうでいされていない。両国を摂り持つ関係として、これほど理想的な縁組みはそうはないだろうよ」

「……」

「まぁ、早計は禁物だがな。陛下も元老院もこの事を見越して、あの姫殿下を使者としてお寄こしになったのだと今になって納得できるわい。ん? どうしたヨシュア・セス。酷い顔をしておるぞ、やはり疲れているのではないか?」

 ドルリーは強張ったファイザルを見ると杯を置いた。

「お前……」

「いえ、なんでもございませぬ」

 言葉は明瞭だが声が限りなく低い。

「なんでもないとは思えぬ風だが?」

「恐れ入ります。確かに伺っていない段取りなので、かなり驚いております。できれば一言伝えてほしかった……俺は王女殿下の安全に責任があります」

「それは我らもだが……しかし」

「失礼。俺はこれからレーニエ殿下のお部屋に向かいます。ご会見の内容がどのようなものであるにせよ、万一と言う事がございますれば、お部屋の前で待機する所存でございます。それに、もしザカリエのお二人が、こちらにお泊りにならぬのであれば、宿舎までお送りする者が必要でしょう」

「そうか……後で確認するつもりであったが、お前に頼んでよいかの」

「は」

「お前も苦労だのう……」

 ドルリーが大げさな溜息をついた。

「王都に戻ったら必ず良き処遇を進言するでな」

「ありがたきお言葉……では」

 ファイザルは一礼すると大股で部屋を出て行った。


「――そのお言葉、まことでございますか?」

 レーニエが、彼女にしては非常に珍しく、自分の思いの丈を述べて口をつぐんだ時、ジキスムントがゆっくりと顔を上げて言った。

「真だ。繰り返すが、こんな未熟者がジキスムント殿のような経験豊富な施政者に、このような事を申すのはさぞや笑止千万だろう。けれども今の言葉に偽りはないと約束しよう。

 私とて和平のためとあれば、いつまでも我が領地に籠っている訳にも……多分、いかぬ。出来るだけの事はしたい。我が身でよければお役に立てて頂きたい」

「そのお言葉しかと承りました。この爺ぃめの、乾ききった心の内に沁みとおりましてございます」

 ザカリエ宰相、ヴァン・ジキスムントは恭しく頭を下げた。その灰色の頭部を当惑しながら見つめ、レーニエは慎重に言葉を選ぶ。実のところ本当にこれが正しい判断なのか、彼女にはまったく自信がなかった。彼女としてはかなり無理をして言った言葉なのだが、老宰相に言質を取られてはまずいのかもしれない。

「お顔を上げられよ。ジキスムント殿。私は自分の意志を伝えたまでで、何かを決められる権限がある訳ではない。既に王位継承権もなく、政治的には全くの無能力者だ。 全てはファラミアに帰って母上にご報告申し上げてからのことだ」

「しかし、あなたの今のお言葉は」

「私は……いや、私もそれが良いと思いまする」

 意を決したように王弟アラメインも言葉を挟んだ。その白い頬は、先ほどよりも幾分赤みを帯びている。

「けれども、正しいことかどうかは分かりませぬ」

「それは私とて同じこと。もしジキスムント殿がこの意見をご採用になられたなら、この後は卿をはじめ、ドルトン殿や文官達で宜しく取り計らい、条件などをまとめられたらいいと思う。目指す方向さえ決まれば、推進するのも可能であろう」

「御意。レーニエ殿下には幾重にも感謝申し上げます。現国王ソリル二世陛下のただ一人の娘御である、あなた様の言葉は重みがございました。私などには及ばぬ発想で、正直驚きを隠せませぬが」

「……」

 レーニエはいよいよ当惑した。この事をファイザルが知ったら何と思うだろうか?

 何の経験もないくせに、勝手にこのような重大な事を進めた愚か者だと、今度こそ本当に嫌われてしまうかもしれない。そんな事になれば自分はどうすればよいのだろうか?

「……そのように大げさにされると、困ってしまう……私は、そんな大それたことを言ったつもりはない。ただ、私でも何か役に立てるのならと、以前から考えていた事を言葉にしたまでだ」

「それでも、ありがたき幸せにございます。これで両国の平和はなると、爺ぃは確信いたしました。これを聞けば、我が主、ギベリン陛下もさぞやお喜びになると」

「……そうかな」

 赤い唇が噛みしめられる。

「不安に思われますな。僅かな時間ではございましたが、レーニエ殿下のご誠実さとご献身はよく分かりましたぞ。この爺ぃ、老いぼれてはおりますが、人を見る目は確かなつもりでございます」

「自分でもそう思えたらいいのだが」

 ついさっき大胆な着想を示した人物とは思えないほど、不安げに俯いてしまった男装の姫君。そう言えばこの娘は、自分の孫娘よりずっと年下だったのだと、老宰相は思い当った。

「そのようなご発想は誰にでも出来る訳ではありませぬ。故に案じられるのも無理はありませぬが……失礼ながらレーニエ様、もう一つお願いの儀が」

「な――なんだろうか?」

「恐れながらレーニエ殿下、あなた様の証を何かいただけませんでしょうか」

「私の証?」

「はい、言葉は形を成さぬもの。例え書面にしても確かではありませぬ。

 殿下のお心の証になるような品を頂ければ、私どもが国に帰り、この会見の事を伝える折に、レーニエ様のお心の内を皆に知らしめることができると言うもの」

「しかし、私の持ち物と言っても……」

 物欲のない彼女は宝石も、貴金属もほとんど持っていない。周りは至るところ戦争の傷跡だらけだ。決して華美に走らぬように注意を払い、身の周りのものは出来るだけ少なくしてここに来た。

「ええっと」

 レーニエはさて、何があるかと思い出そうと首をひねった。

「何か、あなた様を象徴されるような物がございませぬか」

 真剣に考え込んでしまったレーニエを見かねてジキスムントが助け船をだした。

「象徴……身の回り物……ああ、もしかしてこれなら」

 レーニエは振り返り、背後の机の引き出しから小箱を取り出して引き返して来た。

「これ」

 レーニエが差し出したものは嘗て母から送られた貴石、ソリル二世を象徴する貴石、ティユールカイトの指輪である。濃紺の布が敷かれた小箱の中で、石は秘かな輝きを放っている。

「これはまた!」

 ジキスムントは声を上げた。

「なんとお気前のよい。こんな一国の君主の身代金と言ってもいいような貴重な宝石を」

「構わぬ。これは母から賜った品だが、私のものだから問題ない。さ、受け取られよ」

「……やめておきましょう」

「なぜ? これ以上値打ちのあるものを私は持たない」

「確かにこれは素晴らしい至宝でございます。しかし、いかに貴重なものとはいえ、ただの石でもあります。富裕な物ならば、所有致している場合もございますし、何よりこれは、あなた様のお母上を表すもの」

「母上を表すものは、すなわち私を表す者ではないのか」

「……」

 ゆったりと微笑しながらジキスムントは首を振った。

「では何を……」

 レーニエは途方にくれて、悪戯っぽい光りを含んだその瞳を見つめた。

「私は初めからこれを頂こうと決めておりましたよ」

「ええ? それは何?」

「では、その美しい御髪をいただけませぬか?」

「爺、それは!」

 アラメインは驚いたように腰を浮かす。

「髪? 私の?」

 思いもつかぬ事を聞いてレーニエも目を見張った。

「左様で。このように珍しいお髪を持つ者はおりませぬ。これぞまさしくレーニエ殿下の証」

「髪……髪って、こんな物でよいのか? 本当に?」

「はい、頂けましょうか?」

「それは無論……でも髪?」

 まだ納得がいかぬ気に首をひねりながら、レーニエは再び机に取って返し、机上に置かれていた封書用の短刀を取り上げた。小さいながら鋭利な刃が付いている。

 レーニエは短刀を取り上げ、おもむろに首を傾げると、もう一方の手で無造作にうなじから白銀の髪を引っ掴んだ。

「ちょーっと待ったぁ!」

 少し前まで敵国の大物政治家は、狼狽のあまり素っ頓狂な声を上げた。おそらく彼がそんな声を出したのは青年期以来だろう。アラメインはご意見番が卒中でも起こしたかと、思わずその身を支える。

「爺! 大丈夫か?」

「ちょっと、これ! あなた、何をなさいます!」

 自国の王子の手を振りほどいて老宰相はレーニエに駆け寄る。

「え? だから髪を」

「誰が、根元からバッサリと申しましたか! ああ、恐ろしい。そんな事をされては再び戦争再開だわい!」

「は?」

 まさに髪に刃を入れる寸前でレーニエはぴたりと止まっている。

「少しでいいんですよ、ほんの少しで! まったく、何と言うお方だ、あなたは。ご自分の髪が惜しくはないのか!」

「特には」

 不思議そうにレーニエは老宰相を見た。手にはまだ短刀を持っている。

「いったいこれは……何と言う姫だ。髪は女の命と言うではありませんか!」

「知らない。では、どのくらいならいいのだ?」

「――このくらい」

 ジキスムントは指先を丸め、自分の灰色の髪を少しばかり摘まんで見せた。

「なぁんだ、雑作もない」

 なんで、自分が髪を切ったらなんで戦争再開につながるのかよく分からないまま、レーニエは絹糸のような髪を一筋掬い上げた。




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