第72話71.王都 5
「王家の方とおっしゃいましたか……?」
錆びた声は静かだったが、驚きの色を完璧には隠せていなかった。
この人が動揺している……何故だろう?
ファイザルが言われたことを聞きなおすなど、ほとんど記憶にない事だ。後ろに控えていたジャヌーは、上官の背中を見つめた。珍しい彼の問いを受けて将軍達も一様に頷く。
「そうだ。我々も驚いている。お使者は既に王都を発たれたそうだ。ほどなく州境いに入られる」
ウルフィオーレの街は埃っぽい風を受けて、街そのものが霞んで見える。
市街地の主だった建物は殆どが破壊され、あるいは焼けて、無残な姿を春の陽射しに晒していた。
しかし、そのどれもが破壊されてから長い時間が経っていて、|瓦礫(がれき)に灌木まで生えている。そしてその間の隙間を縫うように、小規模な建物や小屋がひしめき合っていた。
戦のただ中にあっても人々は逞しく、住み慣れた地で生き抜いているのである。
それでも広場はほとんど昔のまま、その巨大な空間を保っていて、昔は美しかったであろう赤い敷石が過ぎ去った日々の名残を留めている。そこにはいくつかの天幕が張られていた。
それらは仮の司令部で、修復すれば何とか使えそうな、かつての市庁舎を修復するために設けられていた。都からはるばるやってくる休戦使節は、ここに宿泊することになっている。
勿論司令部の担う役割はそれに止まらない。物資の運搬や街道の整備、街周辺の被害状況を調査して街の警備体制を整えたり、はたまた住民の訴えをとりあえず聞いたりもする。
何より激戦地だったウルフェイン平原の後始末もまだ全部済んでおらず、暖かくなりきらないうちに全ての死骸や遺骸の処理もせねばならならなかった。
戦と言うものが膨大な消費だと改めて感じさせられる。
風を孕んで時おり天幕の布がバタバタと大きくはためく。
一昨日降った雨は瞬く間に乾き、そのせいで一斉に萌えだした若い芽が剥き出しの土の上に薄い緑の膜を張っているが、それらが生え揃い、土ぼこりを抑える役目を果たすまでにはあと数日かかるだろう。
空気は霞み、近くに低いなだらかな山並みを見せるウルフェイン山脈もけぶって見えた。この地方の春独特の風景であった。
「一体どなたです? まさかルザラン摂政殿下ではございませんでしょうね?」
エルファラン王家の直系の血を引く人々は今では少なく、いても国外に嫁いだりしている。
このような任を得られるような成人男子は、国王ソリル二世の実弟であるルザラン摂政以外に思いつかなかったファイザルは、思い切り眉を寄せた。
何年も前に行われた休戦協定の使節は、皆殺しの憂き目に遭っている。
今回はそんな事にはならないかもしれないが、ドーミエ将軍の心酔者や、身内をエルファラン軍に殺されて恨みを燃やす輩がいないとは言い切れない。戦争が終わったら安全だと思うのは早計だ。
てっきり勇気と功名心のある、元老院の若手貴族あたりが来るのではないかと思っていたいた人々は、王族が来ると聞き、驚きと戸惑いを禁じ得なかった。
王弟ルザラン摂政は、誠実な政治家だが、そんな大物が来た日には警備の手配に一苦労である。
戦死者の確認、負傷者の帰還手続き等、戦後処理もまだまだ残っているのに、これ以上の面倒を抱えるのは正直お手上げだとファイザルは思った。
「いやまさか。それほどの大物は流石に来んだろ。先触れの使者の話では、先王陛下に
ドルリー将軍はこの埃っぽい中でも目立つ禿げ頭を輝かせて請け合う。
「左様でございますか。先王陛下の? 俺は何分そう言う事情に疎いので、そんな方がいらっしゃるとは存じませんでした」
逞しい肩がなんとなくほっとした様に見えるのはジャヌーの気のせいだろうか?
「わしらだってそうさ。まぁ、どっからか探して来たんだろうよ。古い王家なんだし、探せば遠縁とかはいくらでもいるのかもしれない。
ザカリエだって一応王政なんだから、敵国の王族がわざわざ出向いてきたと知ったら、少しは自尊心をくすぐられるだろう。わしはうまい判断だと思うね」
「……」
「ザカリエ側の折衝人は誰だ? 使者は来ておるのか」
ドルリー将軍は傍らのフローレス将軍を振り返った。
「来ておらぬ」
「ふむ。あちらでも人事に難航しておるとみえる。まぁ、もともとドーミエ一人に抑え込まれていた情けない連中だからな。人材もさほど揃うておらんのだろうて」
「ドーミエに失脚させられた宰相ヴァン・ジキスムントはどうなのだ? 彼はまだ健在のはずだが、動く気配はあるのかな?」
ドルリーの独白を受けてフローレスも首を捻った。
「あります」
応えたのはファイザルだった。二人の将軍達が揃って彼を見た。
「なんと?」
「そなたのところに知らせが?」
「正確には私にではなく、私に預けられたハルベリ少佐の部下にですが。王宮に間諜を送り込んであるらしく、今朝がた通信が」
ファイザルは懐から小さな円筒を取り出し、中から丸められた紙を出した。
「ほう。ずいぶん小さな通信筒だな。敵の王宮深くに間諜がいるとは知らなかったわ。さすがだの、ハルベリ殿は。通信手段は? 鳩か隼か?」
素直に感心したようにドルリーが目を丸くした。
「この際、雀でも燕でも何でもいい。手段より中身だろう。申せ、ヨシュア・セス」
フローレスが同輩の驚きに関知せず報告を促す。
「はい。ドルリー閣下の言われるとおり、ザカリエ王宮内には、隠遁しておられたヴァン・ジキスムント宰相を担ぎ出す動きがあるようです。しかもその先頭を切っておられるのが……」
「ふむ」
「国王ギベリン陛下の弟君、アラメイン・ジィド・サマンダール殿下だという事です」
「ほぅ。こちらも王弟が噂に上るか。ザカリエ国王は、確かドーミエに頭が上がらない若者だと聞いた覚えがある。その弟は余り噂を聞かなんだが、そんな気概があるのか? 齢は?」
「二十六歳だそうで。以前から病を得られ、ずっと静養されておられたとか」
「なんだ、やっぱり軟弱ものか」
「さぁ、そこまでは。でも人望はあるようですよ。年の離れた兄王とは仲が良いそうです」
「ふぅ~ん、で?」
「その方の強いご要望で、すでにヴァン・ジキスムントは、隠棲していた首都ザール郊外の僧院を出発しているようです。
よって、彼が休戦協定に乗り出すことが決定すれば、すぐにでも使者は来るはずです。首都ザールから馬を飛ばせばここまでは約三日」
「ようやく古狸が動くか。奴にしてみればよく今まで大人しくしていたものだの」
ドルリーは考え深げに唸った。
「頭を押さえつけていた邪魔者がいなくなったこその動きではないのか? もともとヴァン・ジキスムントは先王と共に、新興国ザカリエの
ここ十年余りは、無理くりドーミエによって隠遁生活を余儀なくされておったが。きっとドーミエがくたばって暗殺の危険も薄れたのだろ」
「では、ほぼ間違いないか。あちらは奴が出てくると言う事で」
「しかし、それならそれで厄介ではないか? 奴は老獪な政治家だ。こう言う事の経験も豊富で度胸もある。敗戦国とは言っても奴だけは侮れん。
一方、我々は派遣される使者の名前も知らないんだぞ。ちゃんとした補佐役をつけてくれないと、王族と言うだけでは奴に言いくるめられて、休戦条件の詰めが甘くなるかもしれん。」
「うむ。今ではすっかり不戦論者だとはいえ、二十数年前、我が国の国境を侵犯してきたのは、奴と先代のザカリエ王だったのだからな」
「かの英雄、ブレスラウ公に叩き潰されるまではな」
「ブレスラウ公……」
今まで黙って将軍達の話を聞いていたファイザルが、ふと反応を見せる。
「おお、お前も存じているだろう。あの方はまさに神将と呼ぶにふさわしいお方だった……」
フローレスは夢見るように呟く。
「はい。確か不慮の事故で命を落とされたとか」
「ああそうだ。もっとも、それについては未だに謎が残されておるがな。まぁ、あの方はそのご誕生からして謎だらけのお人だったが」
「どういう事なのでしょうか?」
控え目にファイザルはドルリー将軍に尋ねた。
「そうさな。まず、公はブレスラウ公爵家の養子だった。何でも先代の大ライナス殿が遠縁から迎えられたという事だったが、一時期、先王アルバイン三世の実子ではないかと噂が立ってな。
少し顔立ちが似てるからという事で。ちょうど先王陛下のご側室が産褥でお子共々お亡くなりになった頃と、公のご誕生がほとんど同じだったし。もしかしたら臣下に下げられたのかと」
「それで……真実はどうだったのでしょう?」
僅かに興味の色を見せてファイザルは尋ねた。それまで天幕の柱にもたれ、眠そうに彼らの話を聞いていたセルバローが薄く眼を開けた。
「さぁねぇ。今となってはなぁ。その当時でさえ誰も証人はいなかった様だし。ただの噂で。ただ、わしは違うと思う」
嫌にきっぱるとドルリーが断言する。
「なぜでしょうか?」
「ブレスラウ公は直情的な性格で、奔放で純粋なお方だった。それに引き替え、こう申しては不敬ながら、先王アルバイン陛下は老獪とか、陰険という言葉がぴったりのお方だったからな」
「しかしお顔が似ていると……」
「王家と公爵家は、歴史の中で何回も姻戚関係を結んだのだ。つまり親戚だよ。少しぐらい似ていても不思議では無かろう。公の方がよっぽど美男だったがな。骨太で」
「なるほど……そう言う事だったのですか」
「なんだ、珍しいな。お前がこういう事に興味を持つなんて」
不思議そうにドルリーはファイザルを見つめた。
「いえ、公は若い頃、私にとっても英雄であられましたので……」
ファイザルは曖昧に言葉を濁した。
「そう言えば、お前知っているか?」
「は?」
「年かさの兵士たちの間で噂になっているようだぞ。『掃討のセス』はブレスラウ公の再来だとな」
かくしてその一週間後。
セルバローが指揮した突貫工事のおかげで、なんとか貴人の宿泊場所に相応しく整ったウルフィオーレ市の旧市庁舎が、休戦協定の舞台となった。
昼過ぎに一行が到着すると先ぶれを受けていて、今は正午。生憎、太陽は顔を見せない空模様であった。
エルファランの南の国境に近いこの街は、幾度も戦禍を受けてまともな城壁も残ってはいず、丸見えの荒れた街道からはいつ何時、戦いを諦めきれないドーミエ軍の残党が襲来をかける危険がある。
だが、他に使えそうな建造物はなく、周辺の小さな町や村はさらに荒れている。かと言ってザカリエ国側に近い場所ではさらに危険は増す。
貴人を迎えるには些か殺風景な風景だが、この場面では致し方ない。危険が潜む休戦協定に臨む様な人物なら、宿舎の文句は言わないだろう。
「どうだ、いい仕事だろ?」
セルバローは自慢げに胸を張った。
確かに言うだけの事はあって、以前はさぞや美しかったろうと思われる建物はかなり傷んではいたが、夜を日に継ぐ工事のおかげで6割方修復され、何とか体裁を保てている。
建物周辺の瓦礫もかなり取り除かれて、警備がしやすいようになっていた。
「俺は本来、こう言う仕事が好きなんだ。物を作る仕事がな。餓鬼の頃は大工になりたかったくらいでさ」
「その割に、戦場では鬼人のご活躍でございましたが」
将軍達から使者の話を聞いてから後、ずっと何か考え込み、セルバローの話をロクに聞いていない上官の代わりにジャヌーが返事をした。
「わははは。まぁね! 俺は何をやらせても人並み以上だからなぁ。自分でも時々恐くなるよ」
確かにその通りだったのだが、こうもあからさまに自画自賛されるとなぁ……と半目になったジャヌーである。
もちろんセルバローは、外装内装の入れ物を作っただけであるから、内部の調度や備品消耗品を王族に相応しいように手配準備したのは、事務手腕にも優れるファイザルだったのだが。
「さぁて、そろそろ行くぞ。皆の物、整列いたせ。使者殿をお迎えするぞ」
フローレスが整った顔立ちに笑顔を浮かべ、穏やかな声で命じる。
「おお! お着きになられたようだ」
先頭に立って出迎えの指揮をとっていたドルリーが、ファイザル達を振り返った。
「皆くれぐれもご無礼の無いようにお出迎えするのだ。特にジャックジーン、よいな」
フローレスの念押しに、セルバローは肩をすくめて応じた。
ドルリーの言ったとおり、街道の遠くの方から、騎馬の一群がやってくる。
馬の数は二十騎余りで、馬車を二台取り囲むようにして隊列を組んでいる。総勢は武官と文官、合わせて約三十人と言うところか。この種の使節団にしては少ないようにも思える。
ウルフィオーレ市の郊外に休戦交渉の使節を迎えに出たのは、将軍2人とファイザル等、高級将校数名、そして護衛を入れて三十名だから、ほぼ同じ数の人数が街道でまみえることになる。
彼等はよく訓練された軍隊の精鋭である事を、誇らしく思いながら儀仗槍を構えていた。
「しかし……一体どなただろう、この期に及んでご到着されるまでお名前すら明かされない方とは……」
フローレスはまたしても首を捻った。ドルリーよりも政治向きな立場にあるフローレスは、王族に関してもよく知っていたが、彼をして今回の人選は想像できなかったのだ。
ましてや、先触れで名すら明かせないとは一体どういう訳だろうか?
「さっぱり見当がつかぬ」
「はったりじゃないすかね?」
相変わらず燃えるような髪を風に流しながら、セルバローが気楽に応えた。
「……」
ファイザルは何も言わずに前方を見つめている。その背中が些か緊張しているようだと、後ろに立つジャヌーは思った。平常時では珍しい事だった。
司令官殿は、使者の事をお聞きになられてから、どうも様子が変だ。一体何を考えていらっしゃるのか……。
一行はどんどん近づいてきた。軍馬の蹄や
「!」
突然、ファイザルの青い目が驚愕に見開かれた。彼は無意識に大きく一歩前に出る。それを見咎めたセルバローの金色の瞳もまた、驚きに満たされる。
長年背中を合わせて戦ってきた彼にも見せたことのないほど、ファイザルは
なんだ……?
セルバローはファイザルの視線を追った。使節団は五十リベルの距離まできている。目の良いものならば、彼らの顔が判別できるだろう。先頭の騎馬は五騎。その後ろに三騎。後方に小さな馬車。特に変わったところはない。
一体奴は何を見て……?
騎馬の兵士は、皆美々しく白銀に輝く甲冑を身に付けている。それらが春の穏やかな光を反射して目を射た。彼等が皆かなりの手だれである事は、戦士ならばすぐに分かる。厳重な警備なのだ。
使者を守る騎馬兵達は、万が一に備え、いつでも剣や槍で応戦できるような体勢を整えている。
その中にただ一騎―――
武器も防具も帯びていない黒衣の騎士がいた。騎士たちの白い甲冑の中で、その人物はひときわ目立つ。危険なほどに。
その人物は兜ではなく、鍔の広い帽子を目深に被り、フード付きの長いマントをはおっていた。そのせいで顔は影になっており、よくは分からない。
しかし、衣の裾を緩やかに波打たせ、優雅に馬を操っているほっそりした姿がひどく印象的だ。
騎馬隊の中にいるのだから当然兵士なのだろうと、セルバローは思ったが、よく見ると周りの騎士たちに比べるとずいぶん小柄で、非常に若い。
まるで年端のいかぬ少年のように見える。彼は七人の騎兵に囲まれるように馬をうたせていた。
なんだ、あいつ……ずいぶん毛色の変わった奴のようだが。
セルバローは濃い眉毛を潜めて注視したが、その耳に背後のジャヌーの震える声が届いた。
「し、司令官殿、司令官殿……まさか、あれは……あのお姿は……」
セルバローが振り返って見ると、ファイザルと同じようにジャヌーまでが硬直した表情で、食い入るように前を見ている。
「お前たち、いったいどうした。知り人でもいたか」
セルバローにはまったく訳が分からないが、
もう一度その原因を確認しようと、改めて街道に向き直る。騎馬団が目の前に迫っていた。
ザザザザッ
突然戦闘を行く騎馬兵が一斉に左右に道を開けた。
そのおかげで、真ん中で守られている人物がよく見えるようになった。それは先ほどセルバローが怪しんだ奇妙な黒衣の人物だった。
その人物は黒い手袋に包まれた手をついと上げ、帽子とフードを後ろへ落とした。
待ち受ける人々の間から、声にならないどよめきがわき起こる。
おいおいおいおい、これは一体……。
誰だ?
そこには信じられないほど美しい、若い顔。
薄い春の陽の下でも輝く白銀の髪、見たこともないような赤い瞳。その瞳が見つめる先には―――。
「方々出迎え大義―――」
凛と鈴の鳴るような声が、埃っぽい街道に響いた。
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