第71話70.王都 4
再びここに帰って来たか。
レーニエは馬車の中から壮大な王宮を見上げた。
白亜宮と呼ばれるこの巨大な建物は、文字通り白い輝きを放ちながら、王都の北の丘にそびえ立っている。
優美な形の屋根を持つ尖塔、高さや厚みを変えながら幾重にも張り巡らされた城壁、数々の美しい宮殿がその中にはある。
建物だけでなく、多くの庭園や池、小川、練兵場や馬場、そして森や墓地までもその中にはあるのだ。王宮はそれだけで一つの大きな街であった。
国内で一番大きく美しい建造物を一目拝もうと、国中から見物人たちが、年中引きも切らず王都ファラミアにやってくる。春は特にその数が多い。それらの人々に紛れてレーニエ達も王都に入り込んでいた。
「……風が生ぬるい」
レーニエはドルトンに頼んで細く馬車の窓を開けてみた。
空気は仄かに花の香を孕んでいるが、王都ファラミアは緩やかな盆地になっているため、晴れていると大気があまり動かない。
北の地ノヴァゼムーリャの清涼な清々しさに比べると、同じ早春と言っても、空気は濃くてきらびやかだ。
馬車の中にはサリアとオリイ、そしてドルトンがいた。いささか手間はかかったが、ドルトンの手引きでなんとか王宮、そしてそのもっとも重要な区域に入れる手筈が整っていた。
窓は大きくは開けられないの、周りの様子はほとんど見えなかったが、街は活気にあふれているようだった。車輪の音に紛れて、春を迎えようとする町の喧騒が感じられる。
遠い南の戦場では毎日のように人が死んでいき、家が焼かれているかもしれないのに、この差はなんだろう。静かな北の国から帰って来たレーニエは複雑な気持ちで街の様子に見入っていた。
そして―――
「陛下、ノヴァゼムーリャご領主、レーニエ・アミ・ドゥー・ワルシュタール様をご案内いたしました」
城門を潜ったところで馬車を下りるのかと思ったら、そのまま王宮の奥まで乗り入れる。本来なら辺境領主の身分ではそこまでは許されないのだが、ドルトンが巧く計らってくれたのだろう。レ-ニエの目立つ風貌をなるべく隠すためでもあるらしかった。
降りたところはそれほど大きくはないが、青い屋根をした優美な小宮殿だった。女王の居城、瑠璃宮である。やっと辿りついた王宮深い宮殿の、更に奥の部屋。
重厚な扉に付けられた仰々しい金具を独特の節で鳴らし、落ち着いた中年の侍女の声がそう告げる。
王家の紋章のついた重厚な欅の扉をゆっくりと開けたのは、柔和な顔をした初老の婦人だった。レーニエを見て、微かに涙ぐんでいる。古くから女王に使える侍女だ。
王宮の中心のやや北にある独立した宮殿、瑠璃宮は大きさはさほどでもなかったが、国王の私邸として常に厳重な警備が施されている。しかし、三階以上に男性の姿はなく、少年小姓の姿もなかった。許しがない限り、入れないことになっているのだ。
「お待ちしておりました。さあ、どうぞ中に……」
侍女は深く腰を折ると、恭しく道を開けた。目深に帽子をかぶったレーニエを先頭に、後ろにはオリイ、サリアが控えている。中年の侍女や、初老の婦人はオリイと面識があるらしく、微かに微笑みながらお互いに頷きあった。
控えの間に侍女を残して扉が閉められた。
「レーニエ! おお……レーニエ!」
女王ソリル二世、アンゼリカ・ユール・ディ・エルフィオールは、二年以上ぶりに会う一人娘を見たとたん、思わず走り寄りかけたがさすがに自制し、黒い姿の前で立ち止まった。
「陛下……お久しゅうございます」
レーニエは鍔広の帽子を取り、片膝をつく騎士の礼を取る。臣下の礼をとるその姿を見て、女王は複雑な表情を浮かべたがすぐに立ち直った。
「挨拶は要らぬ……早く、早く顔を……上げて」
ゆっくりとレーニエが身を起こす。赤い瞳がひたと鳶色の瞳を受け止めた。
「おお! おお……レーニエ、ご立派になられた! レーニエ……レーニエ! 娘や!」
込み上げるものに耐え切れず、終に女王は王者の威厳をかなぐり捨て、一人の母親に戻って娘を抱きしめる。
背はレーニエの方がやや高いが、二十年も君主の座にある女王の威厳は大きく、レーニエをすっぽりと包みこんでしまった。
「よくぞ戻られた!」
「はい。陛下もご健勝のことと」
レーニエはようやく抱擁を解いた母、女王に微笑みかける。
「おや……そなた、仮面は? ああ、オリイに預けてあるのですね」
両手で娘の頬を包み、女王は久々に会う愛娘の顔を見つめて言った。
「いいえ、陛下……いえ、母上、あれはもう捨てたのです」
「なんと! 捨てられたと?」
女王は鋭い瞳でさっとレーニエを一瞥した。相変わらず黒を好み、男子の礼装に身をやつしている。
しかし、以前この娘に貼りついていた諦観と
そしてなにより――
レーニエは女になっていた。
抱きしめた時、服の上からでも柔らかな体が感じられた。嘗てあれほどか細かった体は、華奢な線を残しながらも、女らしい丸みを伝える。また、人形のようだった表情が柔らかくなり、内から発しているかのような光が滲み出ている。
これは……。
女王は目を細め、感慨深げに呟いた。
「そう……そうですか。仮面を捨てても生きていけるほどに、あなたも大人になられたのですね」
「この冬に二十歳になりました」
「そうであろう。冬を越して……二十歳になられたか。二十歳と言えば、私が摂政になった頃です。そして……あの方に出会った――」
「父上に? 左様でございますか。私にはとても母上のようになれませぬが」
レーニエも微笑んで母の呟きに応じた。
「ですが、娘や? 何かを乗り越えられたようですね。お顔に強さが見えます……お父上に似てこられた」
「そうですか。嬉しゅうございます」
「!」
なんと……!
この娘の口から父親を肯定する言葉が聞かれたのは、初めてのことだった。今まではただ母が語るブレスラウ公の話を黙って聞いているか、よくわからないと話を逸らすだけだったのに。
「――かの地は、そなたに良いものをもたらしてくれたようですね」
「はい。ノヴァの地に赴かせて頂けたこと、このレーニエ、いくら感謝申し上げても足りませぬ」
「ドルトンから話だけは聞いてはおりましたが……領民にも慕われ、村の子ども達と交流しているとか」
「はい。人々はみな素朴で優しい人ばかりです。このような私を受け入れて、親しく声をかけてくれる……」
「そなたが北の辺境の地を望まれた時には驚きましたよ。いくらでも他に穏やかで豊かな領地があるものを」
「私は北に行きたかったのです。そしてそれでよかったのです。母上」
「冬は厳しゅうございましょう。土地も痩せているのでしょうに」
「……貧しくはないとは申しませぬが、人々は互いに助け合い、逞しく生きております。私もそのお仲間に」
「……」
生い立ちのせいだろうか、この娘には少しも偉ぶったところや欲どおしさがない。
そんな人柄が、厳しい辺境に地に住む人々に受け入れられたのだろうか? そして自信を得たのだろうか?あんなに嫌がっていた素顔すらを表に出して……だが、この娘の身に起きたことがそれだけとは思えなかった。
「何がありました? いえ、なせここに戻られたのです、レーニエ。訳があるのであろ?」
女王は改めて娘と向き合って問うた。
「はい、母上。母上に是非とも叶えて頂きたい儀があるのでございます」
「まぁ、これは……そなたから願いと言う言葉を聞くのは初めてですね。何をこの母に願われます」
「南の戦が終結に向かっていると伺いました」
「なんとな」
思いもよらぬことを言い出す娘に女王は目を見張った。
「間違いありませぬか?」
「それは……そうです。しかし、まだ決まったわけではありません。戦の
おそらく前線では今頃最後の決戦の準備が整っているでしょう。確かに終わりは近いといえるかもしれません……ですが、それがあなたに何を願わせるのです」
「私に休戦協定の使者のお役目を賜りたく」
レーニエは母を見据えて静かに告げた。
「なんですって!?」
女王は絶句した。心底驚いたようだった。
「レーニエ、そなた一体何を……」
「はい。ノヴァゼムーリャ砦の指揮官、オーフェンガルド殿の話では、戦の決着がついたら次は政治的な取り決めがおこなわれるとの事でした。
私には政治はわかりませぬが、陛下や元老院の指示を仰ぎながら、相手国との約条を取り付けることぐらいはできるかと……いや、必ずやってみせまする。
私では荷が勝ちすぎると苦慮されるならば、どなたか参謀をつけて下されるもよいかと。どうかこの私にそのお役目をお申し付けくださいませ」
レーニエは再び深々と片膝をついた。
「な、なりませぬ。これはそなたが思うような簡単な役目ではありません。その上危険が伴うのです」
「承知しております。その上でお願いいたしておりまする。母上……いえ国王陛下! なにとぞ……なにとぞ!」
身を伏せたままでレーニエは懇願する。
「レーニエ……!」
「戦の
おそらくこうしている間にも、元老院あたりでは休戦の条件や、使者の人選が進んでいることと御察しいたします。私は飾り物の使者で構いません。危険があるなら進んでそれを負いましょう」
レーニエは言葉を続ける。この娘がこんなに喋るとは思ってもみなかった女王は、呆然とその言葉を聞いていた。
「私が日陰の身であることは重々承知いたしております。本来ならばこのようなところに来るべきでないことも。ですが、今回に限りで構いません。
私に領地を賜りました時のように、偽りの身分でも名でも何でもお与えくださいませ。そしてどうか、どうかわたしをかの地へ!」
「レーニエ、それは」
レーニエのあまりの必死な様子に、女王は自ら膝を折った。異例の事態に、初老の侍女が思わず数歩近づく。
「よい、バーバラ」
女王は腹心の女官を遠ざけた。女王は手で侍女を制し、|蹲(うずくま)る娘の肩を抱いた。そのまま顔を上げさせる。
「お待ちなされ」
「いいえ……いいえ、陛下、私はもう待ちたくはない!」
「レーニエ……そなた、一体何が……何があったのです。何がそなたをこうまでさせるのですか?」
「……陛下」
「母と呼びやれ、な? まずは訳をお話しなさい」
「はい……つい、先走り過ぎたました。お見苦しゅうございましたでしょう。申し訳ありませぬ」
「話しや」
母であり、女王でもあるは貴婦人レーニエを促す。その瞳は強い興味に満ちていた。
「その決戦に臨まんとされている、ある方のお役に立ちたい。そう思いました」
「ある方……と申されるか」
じっくりと味わうように女王は繰り返した。
「その方の名を伺ってもよろしいですか?」
「はい」
「どなたです?」
「ご無礼
レーニエは母の掌を受けるように左手を差し出した。女王は黙ってそれに従う。
「……」
レーニエは細い指先で女王の掌にある人物の名を書いた。最初の名を示した途端、女王ははっとなったようだった。
「なんと! その名は知っています。なんでも父上の……ブレスラウ公の再来と噂されている方だとか」
「そうなのですか? それは知りませんでした。ただ、私の知っているあの方はとても優しくてお強い、立派なお方です」
「その方を……お慕いしているのですか?」
「はい」
レーニエは
女王は透き通った赤い瞳を覗き込んだ。このような瞳はこの娘の他には知らぬ、女王、ソリル二世はそう思った。
不思議な光を湛えた眼差しは、いささかの曇りもなく彼女を見上げている。昔はこんな瞳をしていなかった。いつも憂いに満ちて希望もなく、彼女があてがった小さな屋敷から窓の外を見ていた。
よほどその男を想っているのか……。
この度の勝利は、その司令官の功が多いと聞く。そう言えば彼は、前任は天領ノヴァゼムーリャの国境守備隊長だったはずだ。そう思いいたって女王はやっと
そういう接点で二人は知り合ったのか。しかし……。
次の決戦はおそらく最大の激戦になるだろう。勇敢な司令官だと聞くその戦士が命を落とさないという保証はどこにもない。愛する人を戦場で失った悲しみは彼女が誰よりも知っていた。
彼女は戦を止めることも、愛する人を守ることもできなかったのだ。
レスター……あなた!
嘗ての痛みが鮮やかに蘇る。女王は心の内で長らく思い出すことを忘れていた、恋人の愛称を叫んだ。
これは……この痛みは我ら母子の運命なのですか!?
「レーニエ」
女王は言うべき言葉が見つからないように厳しい表情を見せていたが、レーニエがまっすぐ見つめたまま動こうとしないのを見てとって、ようやく口を開いた。
娘の名がこれほど重いと感じたのはこれが初めてだった。
「はい」
「本気なのですね」
「はい」
レーニエの推察通り、元老院と共に休戦協定の段取りは秘かに進めている。有能な事務方のおかげで様々な事態に対応した指針もほぼ完成した。
残るは使者の人選だけだったのだ。今のところ名乗りをあげる者はいない。前回の使者は無残に斬り殺されたのだから無理もないが。
妥当なところでは元老院副議長のトール伯か、もしかしたら女王の実弟、ルザラン摂政になるかもしれなかった。
女王が命じれば、ルザランは喜んでこの役目を引き受けるだろう。しかし、彼は彼女が後継者と決めたアーべル王子の父親なのだ。
女王は鳶色の目を
赤子の折に拉致幽閉され、自分が見つけ出してからも世間から隔離してきた。栄光ある処女王などと称される君主の隠し子。ましてやしかも父親がその腹違いの弟であると言う噂のあった、ブレスラウ公レストラウドとあっては。しかも、世にも珍しい緋の瞳と白銀の髪。
二十年前のアンゼリカには、王宮で娘を守り通す自信がなかった。それゆえ腹心の友、オリイに預けたのだった。
しかし、娘は数奇な運命にも、その美しい性質を損なう事なく成長した。
十八歳の誕生日を機会にこの王宮から去らせたのは、このまま一生人生の楽しみも知らず、人生の花の時期を終わらせるのがあまりに不憫だと思ったからだった。
そして今、彼女は再び自分の運命に抗おうとしている。
なんとかして皆にこの娘が誉れ高き我が一族であることを認めさせたい。女王は二年の月日を経て大きく成長したレーニエを見て痛切にそう思った。
これはもしかしたら隠しとおしてきた愛娘を世に出す、千載一遇の機会なのやもしれぬ。
見てくれなど、今となってはいかほどの事もない。しかもこの美貌、着飾らせたらさぞや人目を引くだろう。
独身を貫いてきた私が実子の存在を世に問う。側近たちはどう言うだろうか?
この身にどんな悪評が立とうが別に構わないが、周囲の者たちが女王の体面を慮って反対するのは目に見えている。昔、王宮内を騒がせた醜聞を覚えている者もまだいるだろう。
女王自身は嘗てのブレスラウ公が自分の弟であった等とは思っていない。己が父とは言え、あの疑り深く、陰険な父王の血を微塵も感じさせぬほど、彼は美しく情熱的なまでに奔放だった。
また、体型も骨格も違いすぎる。レストラウド悪度の実の両親が誰かはアンゼリカも知らなかった。二人の顔立ちが似ていたのは、公爵家と王家が婚姻を繰り返した故の遺伝に過ぎないと考えている。
しかし、人々はそう都合よくは思うまい。事実レーニエは狂った女にそう思い込まされ、自分は罪の子であると言う精神的外傷を負わされ続けたのだ。
証拠が要る。
アンゼリカは思った。
今更調べがつくものかどうか、それは分からないが、試す価値はある。この娘のためにも。
さてどうするか。
女王、ソリル二世アンゼリカは、自分を見上げる美しい瞳を見下ろしながら、その答えを見つけようとしていた。
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