第69話68.王都 2

 一番古い記憶は、闇の中で四角く切り取られた光。

 それはおそらく幼い頃、崩れかけた塔の中から見上げた空だったのではないかと思う。その光は常にそこにある暗がりの中で頼りなく小さく、だがそれだけに余計にまぶしく見えた。

 たった一人で、誰にも忘れ去られて、自分は空を見ていた。


 王都を見下ろす丘の上に立ったレーニエは、瞳を閉じて封じ込めていた記憶を手繰った。

 風が髪を梳かしてゆく。

 あの塔はどこにあったものなのか? 女王が跡形もなく壊させてしまったと言うから、今の自分に走る由もない。もともと、誰の目にも触れないところにあったのだと言う。

 そこにいたのは長い間だったのか、短い間だったのか、今となってはわからない。しかし、それも当然で、そこにいた時間は二歳から四歳くらいまでだから、記憶が曖昧でも仕方がない。

 その間たった一人だった。

 けれど幼くとも自分は生きのびたのだ。

 だから、今この時を耐えられない訳がない。いくら心が引きちぎられてしまいそうでも。

 レーニエは目を閉じて遡る。封じてきたあの恐ろしい時間を。


 今も時折に悪い夢を見る。漠然とした暗い影は未だに自分をさいなんでいる。

 心の底にこびりついた恐怖の残滓ざんしが言いようのない恐怖となって胸を締め付けるのだ。

 周りを取り囲む冷たい石の壁。寝台ともいえないようなボロ布の塊にしがみつく自分。時折様子を見にくる狂ったような女。

 女は食事を置いていくたび、恐ろしい呪詛の言葉をレーニエに投げかけた。

 ――お前は生きていてはならないのだ! 

 ――汚らわしい罪の子。なんと不気味な赤い目だろう! 気持ちの悪い白髪だろう! まるで化け物の子どもだ!

 その言葉はレーニエの幼い魂に刷り込まれた。

 だからかもしれない。

 自分が他の人と同じ存在であることを、未だに疑わしく思えることがあるのだ。

 そしてある日。

 暗い塔の中に突然救いの手が差し伸べられた。恐ろしい女が狂ったように何かを叫んで飛び出していった。

 どこへ行ったかは知らないし、もしかしたら逃げて行ったのかもしれないが、それはわからない。

 ただ女が自分の前からいなくなった事と、いなくなって良かったと思った事だけは覚えている。

 そして、自分を救いだした立派な服を着た美しい貴婦人――後でその人が母だと聞かされたが――は、自分をそれまでとは違うとても明るい場所に連れて行った。

 そこには塔の女とも、立派な貴婦人とも違う優しい女――オリイがいて、抱きしめられたり、話しかけられたり、今まで想像もできなかった暖かい家の中で、大切に大切にされた。

 それまでと比べて不思議だと思ったのだろうが、その辺りの事はよく覚えていない。だが、傍にいてくれる人は一人増え、二人増え、ついには自分より小さな男の子まで傍にいてくれるようになった。

 その家でいろんなことを知るようになった。

 笑う事も、学ぶことも覚えた。変わり映えしない生活だったがそれでよかった。その小さな屋敷と庭が自分の世界の全てだ――ずっとそう思っていた。

 だが、彼女が、後一月で18歳になろうとする時、ひっそりと隠れ住む小さな屋敷に母が訪れた。

 母が訪れるのはこれが初めてではなく、このような訪問がある時は事前にオリイから聞かされていたので、レーニエは特に驚くことはなかったが、それにしても母の訪れは久しく、かれこれ半年ぶりのことだった。

 午後もまだ早いのにオリイや、彼女の娘サリアは、そわそわしてあれこれと世話を焼き、少しでも立派に見えるようにレーニエを着飾らせた。

 着飾ると言っても、婦人物の衣装は彼女が頑として断ったので、いつもより上等の黒い上下に、レースのシャツとタイ、そして髪を丁寧にくしげずるくらいしかすることがなく、サリアはかなり不満そうだった。

「多分、レーニエ様のお誕生日のお祝いに、何を望まれるかお聞きになりに来られるのでしょう。今年も陛下は忘れてはいらっしゃらなかったのですわ!」

 楽しみでならないようにサリアが言う。

 誕生日など何がめでたいのだろう?

 レーニエは不思議に思ったが、言葉には出さない。部屋の隅で控えているフェルにだけわかるように、目くばせをする。少年は全てわかっておりますと言うように、微笑みながら頷いた。

「去年は素晴らしい銀ギツネの外套でしたわね? 今年は何をお願いされるのですか?」

「別に何も考えてない」

 去年も別に外套が欲しいと言ったわけではなく、話の徒然に夏よりも冬が好きだと言っただけである。

 王宮の最奥にある、誰も来ないこの庭に降る雪に足跡をつけて歩くのが好きだと、そう言っただけで三日後に豪華な真っ白な外套が送られてきた。

 それは一度も袖を通されることもなく、今も衣装箪笥いしょうだんすの奥に眠っている。気に入らないとか言うのではなく、必要なかっただけだった。

 そして今年も母はやってくる。

 お忙しい方なのに、わざわざこちらに出向かれなくとも、オリイに書面でもくだされたらよいものを。

 レーニエは決して自分の母が苦手だとか嫌いだとか言うのではなかった。ただ、ほとんど一緒に過ごしたことがないものだからどう接すればいいのか、途方に暮れるだけで。

 幼い頃、自分の出自について、嫌というほど思い知らされた彼女は、その偉大な母についてもどこか他人行儀で、自分の将来について何にも望んではいけないと思いこんでいた。

「レーニエ様の瞳の色に似合う、紅玉の耳飾りなんていかがでしょうか?」

 サリアが何とかして主人の気持ちを引き立たせようと明るく話しかける。

「いらない」

 レーニエは読んでいる本から目を離さない。その本はレーニエのお気に入りの地理の本で、エルファラン国の様々な地方の風物や自然が絵入りで詳しく載っていた。

 この本も確か何年か前の母からの贈り物だったように覚えている。この本だけはとても気に入っていた。

 また、こんな本が欲しいとお願いしてみようか? 厚かましいと思われないだろうか?

 そう思いつつ、目はまた本の挿絵に落ちる。

 ノヴァゼムーリャ……ノヴァゼムーリャ。きれいな響き――。

 もうすっかりどの項もそらで覚えてしまっている。レーニエは特に北の地方の項目が好きで、まだ見ぬ白亜の険しい山脈や、延々と続く荒野などを挿し絵で眺めては、一体どのようなところなのかと思いを馳せるのが常であった。

「お見えになりました」

 セバストが恭しく告げるのを合図にレーニエは重い気持ちで立ち上がる。

 ついと視線を流すだけで、サリアは了解し、傍らにある黒絹の仮面をつけてくれる。頭の後ろでシュッシュッと紐が鳴るのを聞きながら、レーニエはさて母と何を話せばよいやらと考えていた。

 自室を出、オリイとサリアを従えて客間に降りてゆく。小さな屋敷だったが、家庭的な雰囲気に充ち溢れ、どこもかしこも主が居心地良く過ごせるように、細かい配慮が尽くされたしつらいだった。

 ただ、この場所を訪れる人は非常に限られていて、多くのものはその存在さえ知らない。

 この屋敷と庭は、世間から取り残されたレーニエの唯一の居場所であり、憩いの場であった。


「母上、お久しゅうございます」

 深々と頭を下げるレーニエを見たとたん、国王ソリル二世、アンゼリカ・ユール・ディ・エルフィオールは座っていた椅子から立ち上がり、久しぶりに会う娘に走り寄った。

「レーニエ!レーニエ……久しぶりですね。ずいぶん大きくなりました……顔をよく見せておくれ」

 そう言うと母は腕を伸ばし、せっかくサリアが具合よく結んでくれた仮面の紐を解きさった。

「おお、おお! レーニエ……」

 そう言うと、母は両手で彼女の頬を包んで自分に引き寄せる。既に背丈は肩を並べるほどになっていた。王家の慣習である長い髪は鳶色で、太い三つ編みにしてぐるぐると後頭に巻きつけている。

 実用一点張りの簡素な衣装は上品な藍。白い肌によく映っている。そろそろ四十に手が届こうとしていたが、女王は美しい女性だった。

「美しくなられた」

「……」

 そんな事はあるまいとこっそりレーニエは思う。誰もがじろじろ見るほど自分の顔は人と変わっていて、それを隠すように絹の仮面を下されたのは他でもない、この母なのだから。

「あなたは父上のご様子によく似ています」

「ありがとうございます。でも、私には正直よくわかりませぬ」

 大人しくレーニエは母の言葉を受けて言った。

「無理もない……そなたがまだ赤ん坊だった頃にあの方は亡くなられたのだから」

 レスター……。

 生まれて十九か月目に、レーニエは母の元からさらわれたのであった。あの気が狂いそうな事件を思い出し、女王は唇を噛んだ。

「……」

「父上は素晴らしいお方でありました。雄雄しく、美しく……レーニエ」

「はい」

「そなたは私を恨んでおいでか? このような寂しい場所に閉じ込め、年に数度しか会うてやれぬこの母を」

「いいえ、そのような事はございませぬ。私にはこの屋敷が世界の全てでございます」

 それが当たり前のことでもあるかのように淡々と話すレーニエの様子に、母は胸が締め付けられた。

 あれほど自由な魂を持ったの人の子どもだと言うのに、この娘は生れ落ちたその日から、かせはめめられて生きている。

「レーニエ」

「はい」

「そなたももう十八です。世間では成年と言われる歳になられました」

「成年……?」

 正直よく分からなかった。

「父上の事を話してもよいですか? 今まで、あなたが拒むのであまり話してやれませなんだが。そなたはもう大人です。知っておいてほしいのです」

 女王は暗い顔をするレーニエに向かっていった。

「父上の事は、会うた事がございません故わかりませぬ。さして聞きたいとも思いませぬ。いえ、聞かずともよろしゅうございます。おっしゃらないで」

 塔の女は、自分の両親を罵っていた。意味はよく分からなかったが、その呪詛は特に父に対して酷かったように思う。女は罵るたびにレーニエは恐ろしさに震えあがっていたのだ。だから聞きたくない。今まで母にそう頼んできた。悲しそうな母をみてもその気持ちは揺るがなかったのだ。

「おねがいでございます」

「そんなふうにおっしゃるものではない、レーニエや? 私はずっとそなたが十八になったら父上の事を話そうと思っていました。あなたは父上の事を誤解しておられる。以前絵姿をご覧になったでしょう?」

「はい、もうずっと前に一度だけ。ですが、私にはただの立派な肖像画だとしか」

「そうですか。でもあなたは父上のお顔を知っているのですよ」

「え……?」

 思いがけない言葉にレーニエは伏せていた瞳を上げた。

「あなたが生まれた時、知らせを受けて父上は夜を日に継いで南の戦地から駆け戻られたのです。ですから、あなたは父を見ているはずなのです」

「そうなのですか? 残念ながら……」

 思い出せない。当然だ。その頃レーニエは目が開くか開かぬかの嬰児えいじである。母も無論その事を承知で言っているのだろう。

「あなたの名は、父上が付けて下さったもの」

「それは……本当なのですか?」

 小首が傾く。

「そなたが母のなかにいて、男か女かもわからぬ内から、どっちでも通用する名前がいいとおっしゃられ、そして王家にも公爵家のどこにもない名前をと楽しそうに考えておられた。だから、レーニエ。父上のお御名の頭文字を一文字を貰って、レーニエ」

「……」

 不思議そうに赤い瞳が揺らめいた。自分の名について考えたことなどなかった。ましてや誰かが何かを思って付けた等と。

「共に過ごした時間は短いものではありましたが、あの方はあなたを大層可愛がり愛しておられた」

「一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「言ってごらん」

「母上は今も父上を想っておられるのでしょうか?」

 その問いに女王は髪と同じ鳶色の瞳を見開いた。この娘が自分から両親の事を口にすることは大変稀な事だった。

「塔の女が私に、父上と母上は罪を犯したと……」

 さすがにその先は言えず、レーニエはただ母を見た。女王はその瞳をまっすぐに受け止める。

「父上は……レスターは私にとっては至上の方でした。そなたは我らの愛の結晶なのです。我らのよくない噂は知っていますし、真実は遠い時の藪の中です。

 あの方は既に亡くなり、今となっては我らが愛が罪であったかどうかなど、私にとってはどうでもよいこと。そなたは」

 女王はもうすぐ十八歳になろうとする我が娘を見た。

「私のただ一人の娘です」

 赤い瞳、白銀の髪を持つこの娘は、母親の目から見ても非常に美しかった。肌は透き通るように白く、ほっそりした手足は優雅で、しなやかな立ち振る舞いは天性のものだろう。

 しかし、このような容姿を持つ者は凶兆とされ、かつては忌み嫌われることもあったという。だから出生の秘密とあいまって、レーニエの存在は今までとことん秘されたのだ。

 彼女の弟のルザラン摂政ですら、数年前に一度しか会ったことはなかった。

 このままずっとこの娘を日陰の身として、王宮の片隅で飼い殺しの一生を送らせるのか……。


 女王と、母親違いの弟かもしれないと噂のあった、若いレストラウド・サン・ドゥー・ブレスラウ公爵が、激しく愛を交わしたのは僅かな期間だった。

 女王は遥かな日々に思いを巡らす。それは甘い痛みを伴い、彼女の瞳を伏せさせた。

 それはまだ彼女が、アンゼリカと呼ばれていた娘の頃の話だった。




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