第68話67.王都 1

 ウルフェイン平原の決戦よりさかのぼること一月―――ノヴァゼムーリャ、冬の終わりの頃。


 ノヴァの地は例年並みに伐採の季節を無事に終え、人々は近づく春の気配に表情を明るくしていた。

 領主もいつものように、村の大仕事にできるだけの協力を惜しまず、すっかり大きくなったミリアやマリが、自分より年下の子ども達を世話するのを微笑ましく見つめている。

 ファイザルが去って二度目の春を迎えようとするレーニエは、この冬で二十歳になった。

 いつしか彼と過ごした季節よりも、彼と離れてしまった年月の方が長くなってしまったことに、胸の痛みを逃すようにため息をつく自分がいる。しかし彼女は普段はなるべくその事を考えないようにしていた。

「レーニエ様、オーフェンガルド様が参られました」

 サリアが主の後ろ姿に言葉を掛けた。

「お通しして」

 大きな窓辺から前庭を見下ろたまま、領主は応える。床まで届く濃い色の長いガウンに銀髪がよく映えている。

「畏まりました。あ、それとあまり窓辺に寄らないでくださいませ。水気を含んだ雪が陽を弾いてお目に悪うございますよ。それに、肌が焼けてしまいます」

 明るいサリアの声にようやくレーニエは振り返った。幾らかさが減ったとはいえ、まだまだ地面は顔を出さない白一色の大地。ただ、陽光は黄色みを増し、日が長くなってきた。

「ん」

 外ばかり見ていたので部屋の中が真っ暗に見える。彼女は瞳を伏せながら椅子に腰かけた。

「今日も戦地の話をお聞きになりますの?」

「それもある」

 戦場の噂にはすっかり過敏になってしまっていた。彼女の情報源は主としてオーフェンガルドだったが、この辺境、ノヴァの地にも退役した兵士がいない訳ではない。

 僅かだがこの村出身の志願兵もいるのだ。多くは農家の三男坊や四男坊だったが。

 彼らからも情報を集め、レーニエは南方の戦況が著しく回復し、危機的状況にあった多くの鉱山をほぼ回復できたとは知っていた。

 多くの功績がヨシュア・セス・ファイザルのものであることも。そして彼が半年前に平民出身の士官としては異例で、しかも、異常な速さで少将に昇進したことも。

 しかし、それらは少しもレーニエを慰めるものではなかった。

 そうやってファイザルの責任はどんどん重くなり、彼の手足には益々重いかせきつくことだろう。そして、彼が面する危険もその度合いを増してゆくに違いない。

 常に最前線の戦場で戦う彼の戦死報告がいつ届いてこないか、不安にならない夜はなかった。昼の間だけはなんとか気丈に振る舞えるが、それももう限界に近づいている。

 何かしなければという気ばかり逸る。

 しかし、現実には黙って自分の領地に住まう人々の為に心を砕く以外することはない。それこそが領主の仕事だとわかっていても、それだけでは彼女はもう満たされなかった。

 伐採期が終わり、春の農作業が始まる僅かの間、人々は一時の休息を得る。その間隙を縫ってオーフェンガルドは、レーニエのたっての勧めで領主館で休暇を過ごしていた。

 去年身ごもったオーフェンガルドの妻ナディアが、一月前に初めての男の子を出産していたのだった。

 その時、ちょうど伐採期直前の寒冷期の訓練の最中で、オーフェンガルドはたった一日親子水入らずで過ごした後、ほとんど休みなしに砦に詰めていた。

 南の戦況が回復したとはいえ、戦力の補充になる若い兵士の育成は何時でもセヴェレ砦の最重要任務だったのだ。

 そんな任務が一段落ついた後のレーニエの勧めを、オーフェンガルドは断る事ができなかった。ちょうど若い兵士たちの訓練も一段落し、相次ぐ大勝利で南方戦線に対する危惧が薄れつつあったころでもあった。

 そうして今日、レーニエはオーフェンガルドを自室に呼んだ。


「レーニエ様、おはようございます」

 サリアの案内でにこやかにオーフェンガルドが入ってくる。

「ああ、おはよう。ディーン坊やは元気?」

「ええ。昨日はあまり泣きもせず、今朝も機嫌がよさそうで」

「そうか、後でお顔を見に行こう」

「レーニエ様には、一日一度は息子の顔を見に来て下さるとか。恐れ入ります」

 領主は赤ん坊が好きらしく、ナディアの部屋に来ると飽きもぜ寝台に屈みこんでずうっとり眺めている。

 ただ、まだ首も座っていない赤ん坊を抱くのは怖いらしく、指さきでおずおずと触れるだけだが、その時の様子はとても嬉しそうだと妻から聞いていた。

 ナディアの出産の折は村から老医者もやって来たが、ほとんどオリイが采配をふるい、サリアや他の召使達もその手伝いをした。

 レーニエはおろおろしながら次の間でオーフェンガルドと待機し、元気な鳴き声が聞こえた時は喜びよりも先ずほっと胸を撫で下ろした。以来赤ん坊の成長を館の人々達と共に非常に楽しみにしている。

「うん。その内勇気を出して抱かせていただこうかと思っている」

 レーニエは少し照れたように笑った。

「大丈夫でございますよ」

「それで……あなたは春になればこの館を出ていかれるのか?」

「左様でございます。今までご領主様の暖かいお心に甘えてこちらで過ごさせていただきましたが、村に借りた家の方も放ってはおけませんので」

「よければ、敷地内に新たに別棟を建ててもいいと思っているのだが。ここにいては何かと気を使う事もあるかもしれないから。幸い空地はいくらでもあるし」

「そんな滅相もない」

 オーフェンガルドは、あっさりそのような事を言う領主に少々当惑気味であった。

「そこまでしていただく訳にはいきませぬ。私どものことなら、もう大丈夫でございます。ナディアも、もう元通り元気に過ごしておりますし、赤ん坊が落ち着いたら一家でそちらへ移ろうかと考えております。ちょうど気候もこれからよくなる頃ですし」

「それが望みなら、敢えてとは勧めぬが……私は寂しくなるな。この広い屋敷の中に子供の声がするのは良いことだと思っていたから」

「声と申しましても、ぎゃあぎゃあうるさい泣き声でございますが」

「それが良いのではないか。ああ、今日も元気だと嬉しくなる。赤ん坊は泣いて心肺を鍛えているのだそうな」

「そんな事をどこでお知りに?」

「ああ、奥方の読んでいる本をお借りしたのだ。ディーン坊やを見て、私も少し赤ん坊のことを知っておこうと……」

「……」

「私には無駄な知識かもしれないけれど……」

 少し寂しそうにレーニエは呟いた。

 この人もいつかは、愛する人の子供を授かりたいと思っているのだろうか? その胸の中で想う男とは、おそらく……オーフェンガルドは痛ましそうに領主を見つめた。

 動きやすいからと男の成りはしていても、彼女はどこまでも美しい乙女であった。

「そうそう、つい昨日良い知らせを受けました」

 少しでもレーニエを慰めたくて、オーフェンガルドは思い出したように明るい声を上げる。

「何?」

 はっとレーニエの顔が上がる。


「都よりの早馬の知らせで、先月の大戦おおいくさで、ファイザルがあと一歩のところまでドーミエ将軍を追い詰めたとか。残念ながらあと一歩のところで豪雨に阻まれ、討ち取るところまでは行かなかったようですが、かなりの打撃を敵軍に与えたことは確かなようで」

「ファイザル殿が? それで、彼は怪我などはなさらなかったのか?」

「ご安心を。知らせにそのような事は書かれてはいませんでした」

 オーフェンガルドの言葉にレーニエは緊張していた肩をほっと下ろした。

「それどころか書簡に依ると、次はいよいよ決戦で、もしかしたらこの長く続いた戦争も終わるのでは、と言う所見まで示してありました」

「決戦……」

「はい。前線ではただ今、その準備に追われていることでありましょう」

「それは……凄い話だな。やはり激しい戦闘になるのだろうか?」

「おそらく。しかし、ファイザルは決して無謀な事をする男ではありません。奴は幾通りも戦術を練り、はかりごとを巡らし、一番確実な方法で敵を討とうとしているのに違いありません」

「それで……もし戦に勝ったとして、それからどうなる? ファイザル殿はこの地に帰ってこられるのだろうか?」

「さぁ、それは今のところはなんとも。奴も今では将になりましたし、もし次の戦闘に勝利し、この長い戦争を終わらせた功労者として、ますます出世するかも知れない。彼の今後のことに関しては、元老院の方々や、将軍達がお決めになるでしょう。残念ですが、私などでは何とも」

「……」

 優美な曲線を描く眉が、がっかりしたように下がる。その下の大きな赤い瞳は哀しみを湛えて伏せられた。

「あ――し、しかし、その前に」

 慌ててオーフェンガルドは話題を変えた。

「もう一つしなければいけないことがあります。仮に戦に勝利し、敵が降伏したと仮定して、何よりも先ず休戦協定を結ばなくてはなりません。それにはおそらく王都よりしかるべき使者……使節ですかね――が派遣される事でしょう」

「使者……?」

「はい。元老院が指名し、国王陛下が承認した公式の使者が」

「その者が休戦の取り決めをすると?」

「いえ、一人の大使が全て取り決める訳ではないでしょうね。大まかなところは今頃大急ぎでおえら方によって指標が話し合われているはずです。

 大使は、先ずはそれをたずさえて戦地に赴き、後日行われるであろう正式な両国間の平和条約の土台を作る役割です。それは我々軍人にはできないことで。しかし……」

 オーフェンガルドはふと言い澱んだ。

「何?」

「その役割を進んで引き受ける人物が、今の元老院に果たしているかな?」

「危険な任務なのか?」

「危険と言うべきか……」

「なんなのだ?」

 レーニエは非常に気になった。

「この長い戦いの間には何度か、同じように休戦協定が結ばれようとしたこともあったのですよ。成功したり失敗したりしていますが」

「うん」

「一番新しいものは6年ほど前で。しかし、休戦は成りませんでした。協定をぶち壊したのは例のドーミエ将軍だったのです。彼はなんと両軍の大使を殺して戦を続行し、拡大してきたのです」

「そんな事が……」

「そこからザカリエでは彼の台頭が始まったのですな。ですから今回もその可能性が全くないわけではない。例えファイザルがドーミエを討ち取ったとしても、彼を支持しする心酔者もまだ根絶やしにはならないでしょうし……使者の役割に危険がないとは言い切れません」

「つまり、誰もなり手がないというのか」

「いえ、そのような事は。やっぱり名誉な役目ですし、元老院で比較的お若いどなたかが指名されるのではないでしょうか? 副議長閣下あたりかな? 王族方のどなたかが行くとハクがつくんですが、まぁ無理でしょう。我が国の王家は今では直系の方々は非常に少なくなっていますし」

「……」

 レーニエはいまや、一言も漏らさぬように彼の言葉を聞いていた。

「王弟のルザラン摂政殿下は立派な方ですが、国王陛下が指名した唯一の後継者であるアーベル王子の父上に、まさかそのような事は頼めませんでしょうし……ですが、まぁ、前回と同じてつは踏みませんよ。例えどんな身分の方が赴かれたとしても軍の威信にかけて、ファイザルが万全の警備体制を敷くはずです。戦闘再開はあり得ません」

 自身も下級貴族のオーフェンガルドは、なかなか政治向きの事に詳しいと見える。領主はじっと黙考していた。

「これは失礼。私のような者がそんな事を力説する必要なありませんな。ははは」

「――オーフェンガルド殿」

 不意にレーニエは凛とした声で彼を呼んだ。

 打ち沈んだ先程の様子とは違う領主に目の前の士官がはっとする。

「は」

「突然このような事を言いだして済まないが、後、一週間のうちに私はファラミアに行こうと思う」

「は? な――なんですって!?」

 ものすごく唐突な申し出にオーフェンガルドは目を剥いた。

「王都に行くと言ったのだ。済まないが道中の手配を頼めないか? 厳重な警備は要らぬ。なるべく目立たぬように都に入りたい」

「それは――構いませんが、なんでまた突然都に……? 伺ってもよろしいですか?」

「あなたの話を聞いて決めたことがある。今まで気持ちばかりが急いて、何をすればいいのかわからなかったが、今やっとするべきことが見つかった。私はそれを実現させるために都にゆく」

涼やかな声が淡々と語る。

「王都に? 一体どうなさろるおつもりですか?

 この人は何をしようとしているのか。オーフェンガルドは驚きながらもどうしても尋ねずにはいられなかった。

 レーニエはきりりと眉を上げ、その瞳に確たる意志を浮かべて彼を見据えた。

「私が使者となって戦地に赴くのだ。陛下にお会いしなければ」


 レーニエはさっと立ち上がった。



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