第63話62.戦場 2
「シザーラ様!」
燃えるような金褐色の髪の娘が扉を塞ぐように立っていた。
フェルディナンドは思いがけない人物が現れたと息をひそめる。
フェルディナンドも名前を聞いているだけで初めて見る人物で、名はシザーラ・ヴァン・ジキスムント。隠棲を強いられているザカリエ宰相、オシム・ヴァン・ジキスムントの孫娘であった。
婦人たちは驚いてお茶を飲む手を止めた。中には腰を浮かしている者もいる。
これは珍しい人物がやって来たものだ。ザカリエ建国の名宰相とされるオシム・ヴァン・ジキスムントの孫娘……初めて見る。
フェルディナンドは部屋の隅につつましく控えながらこっそりこの闖入者を観察する。娘は堂々と部屋を横切り、譲られた椅子に当然のように腰を下ろした。
「突然失礼いたしましたわ。今日こちらでお茶会があると小耳にはさんだものだから。私など招かれてもいないのに、少し覗いてみたくなりましたの。申し訳ありません」
シザーラはきつい巻き毛の頭を振った。毛先が蔓草のひげのようにふわふわと揺れる。フェルディナンドの見るところ、彼の主レーニエよりも年上だが小柄で、小枝のように細い手足の姫君であった。
彼女はパニエを入れてスカートを思い切り広げた、フェルディナンドの洗練された目には少し旧式な衣装を身につけている。やや浅黒い肌が引き立つようにドレスの色は淡い桃色だった。
「いいえ。そんな事はおっしゃらないでくださいませ。シザーラ様ならいつでも歓迎ですわ」
「そうですとも。ただ、このところ公の場にお姿が見えなかったので、もし何かのご事情でもあって、障りがあってはいけないと、敢えてお呼び立てしなかったのですわ。堪忍して下さいまし」
ドロレスと年嵩の夫人は応え、他の婦人たちもそれぞれに頷き合っている。してみると、この小柄でキツそうな話し方の娘は、それなりの人望はある様だった。
正直に言ってさほど美しくはない。しかし、眉がきりりとつり上がり、琥珀色の瞳が強い光を放っている様子は不思議な魅力があった。
「ですが、こちらにお出ましになって大丈夫なのですか?」
「そうですわ。ついさっきもこの近くのお部屋でオーラリア様が騒ぎを起こした聞きました。こう申しては失礼ながら、お顔を合わせてはまずうございましょ?」
「大丈夫よ。この間の件のほとぼりが冷めるまで、少し大人しくしていただけだから。会ったところで特に問題はないわ。少なくとも私にとってはね」
シザーラは勧められた椅子に腰を下ろした。すぐにフェルディナンドがお茶の盆を差し出すが、彼女は黙ってカップを受け取りながらも彼に目もくれなかった。
「戦況が悪くなっているようね。なんでもエルファラン側に新しく着任した司令官が恐ろしくキレ者なんだとか」
てきぱきとシザーラが会話の主導権を取る。まめまめしく菓子を皿に取り分けている小姓の肩が、その言葉を聞いてぴくりと上がったのに気づくものは誰もいない。
「そう聞いてはおりますけれど、私どもには戦のことは詳しくはわかりかねます。ねぇドロレス様」
「はい。でもドーミエ将軍がこのところ王宮に姿をまったくお見せにならないのは、あちこちで負け戦が続いているからだとは、父からこっそり聞きました」
ドロレスの父親は外交を担当する貴族であった。
「この国の起こしたことは、この国が責任を取らなければいけないわ」
シザーラはきっぱりと言い放った。
「この十数年、この国は始めるべきではなかった戦争に明け暮れていたのだから」
「ですが、そんなことをおっしゃられては、お祖父様と同じに、シザーラ様のお身まで危うくなってしまいますわ」
「さようでございます。今この国はドーミエ親子のものなのですから。国王様や王弟殿下でさえ頭が上がらないと言う事ですし。無論私達ではお目にかかれることは滅多にないのですが」
「アラメイン殿下は聡明な方です。少しお気が弱くてあられるだけで、とても立派な方ですわ」
アラメイン? 病弱とされる王の弟のことだな。この婦人とは親しい仲なのだろうか?
フェルディナンドは衝立の蔭で気配を消す。
「ですが、オーラリア様は……」
ドローレスは言いにくそうに口を濁した。これは何かありそうだとフェルディナンドは耳をそばだてた。
「あの方が何を狙っているのかは知らないけれど。たぶん思い通りにはならないでしょうよ」
「ですが、あの親子の権勢は決して侮れないものがありましてよ」
「情けない話ですが、私共もこうして悪口は言えますけれど、面と向かってはなにもできません」
「だけど、あまりにあからさまな男漁りは何とかならないものかしら? かつての夫を放逐して、将軍の威光を背景に宮廷での地位を手に入れたはいいけれど。今度は王弟殿下にまで結婚を迫ったと言うお話」
「アラメイン殿下もお気の毒にね。嫌で嫌で逃げ回っておられると言うではないですか」
「ですけど次にドーミエ将軍が宮廷に戻って来られた時には是非良い返事をって、ドーミエ将軍に恫喝されたって」
「まぁっ!」
「それは本当に!?」
「いよいよ陛下は、オーラリア様を妃にお迎えになってしまうのかしら?」
「もしかしてもう夜這いくらいはかけたかもしれませんわよ」
「まったく体だけが自慢の雌熊ですわ」
「やりかねませんわね!」
「あなた方!」
噂話に興が高じ、いい感じにご満悦の婦人たちがびくりと肩を竦めた。
「いい加減になさいませ。あまり無責任に噂話をするものではありませんわ」
「そ、そうでしたわね」
「すみませんわ。私達、つい調子に乗ってしまって」
「そう言えば、国王陛下のご容態はいかがなのですか? ご病気と言う事でしたが、私どもも最近はお姿をお見かけしないので、それは心配して」
「大丈夫。皆の前に出ると気を遣わせるからとおっしゃられて、少し自粛されてされていると、アラメイン殿下から伺っております」
「と言う事はシザーラ様は、最近アラメイン殿下にお会いになって?」
「当然ですわよね。もともと殿下とシザーラ様は幼馴染ですし」
「私たちもゆくゆくはお二人が婚約されるとばかり思っておりましたのよ」
「国王陛下もアラメイン殿下もシザーラ様のことをそれは頼りになさって……それをあのドーミエ親子が」
ガチャン!
かなり乱暴にカップが皿に戻され、皆は一瞬にして押し黙る。
「無責任な事を言ってはいけないと言ったはずです。そこのあなた!」
衝立の後ろのフェルディナンドに向かって鋭い声が飛んだ。フェルディナンドは悪びれた様子も見せずに恭しい態度で、姿を見せる。
「そんなところで何をしているの?」
「申し訳ございません。お嬢様。お菓子の替えを準備しておりました」
「あ……シザーラ様、フェルディナンドはいいんですの。私が呼んだのですわ。シザーラ様はご存じないだろうけど、彼はしばらく前からこちらで小姓を務めている少年なんですの。とても気がきくいい子ですのよ」
フェルディナンドを庇うようにドロレスが取りなした。
「ふぅん……」
「申し訳ありません。ご用があればと控えておりましたが。私はこれで失礼いたします」
鋭い視線が注がれているのを感じながらもフェルディナンドは特に卑下もせず、きれいな所作でシザーラに辞儀を返した。
「こちらへ!」
再び厳しい声が放たれる。フェルディナンドは大人しく前に進んだ。
「あなた色が白いのね。北の出身なの?」
内心ぎくりとするが、そんなことはおくびにも出さずにフェルディナンドは微笑んだ。
「いいえ。ですが、私の母がセイラム市の出身でございまして」
「セイラム市の?」
セイラム市と言うのは自由国境地帯の北方に位置する宗教都市だった。緯度的には、エルファラン国の首都、ファラミアより東に位置する。総じて北の人間は皮膚の色が白い。
それに対してここ、ザカリエの国の民はやや浅黒い色の皮膚をしていた。
「はい。母の伝手でセイラム市の南、マイル地区の司教様から推薦状をいただき、こちらでお仕えすることになった次第でございます」
フェルディナンドはつるつると言ってのける。セイラム市の司教から貰った推薦状は本物で、見せろと言われても、一向に構わない。その辺りのハルベリ少将の手配は完ぺきだった。
「そう。じゃあいいわ。気がきくと言うのが本当ならば、あなたのとるべき態度は分かるわね?」
「はい。決して他言は致しませぬ。ではこれにて失礼いたします。ご用があれば廊下で控えておりますのでお呼びくださいませ」
そう言って再び辞儀をして部屋を出てゆく。廊下は寒いからかわいそうだわと言うドロレスの声を背中に受けて。
驚いた。一瞬バレたかと思ったじゃないか。
フェルディナンドは扉をゆっくり閉めてから大きく息をついた。
だけど、あの人がドーミエ将軍に疎まれて、無理やり引退させられたヴァン・ジキスムント宰相の孫娘なのか。さすがに鋭いな。
しかも、さっき聞いた感じでは、どうやら彼女はアラメイン王弟の幼馴染で……もしかするとこれは面白い事を聞けたかも。もう少し聞けなかったのは残念だけど。
多分まだ手はいくらでもある、そう思い直してフェルディナンドは自分にあてがわれた居場所に甘んじた。
それから数日、フェルディナンドはいつものように卒なく仕事をこなしながら、情報を集めた。
それは暇を持て余している貴婦人達であったり、同じ小姓仲間であったり、下働きの女中たちからであったが、それによると、どうやら王弟アラメイン・とジキスムント宰相の孫娘シザーラは現在二十五歳。幼い頃から祖父について王室の私宮殿にも出入りしていたためか、二つ違いのアラメイン王弟とは乳兄弟のような間柄だったと言う事だった。
そして、ザカリエ建国当初の功労者であるジキスムントは、戦功をタテに台頭してきたドーミエ将軍にうとまれ、現在は自分の領地の僧院に隠遁していると言う事を知った。
知れば知るほど、まだまだ知りたくなる。戦争終結のカギはおそらくジキスムントにあるようだ。しかし、
ある小姓の話では、シザーラは宰相ジキスムントに、女ながらも一番自分に近い政治手腕を持っていると言わしめた娘だったと言う事だった。
王族は無理でも、なんとかしてシザーラ嬢に近づけないものだろうか?
フェルディナンドは考えを巡らせた。
そんなある日。
思いもかけず、フェルディナンドはある貴婦人からシザーラへの届け物を頼まれたのだった。
シザーラは貴婦人達の暮らす芙蓉宮には部屋を持っていない。
王宮の外れ、ほとんど隅っこと言ってもいいような棟に、年老いた母親とひっそり暮らしている。
かつては一族で王宮内に一つの屋敷を賜って暮らしていたほど、力のある家柄だったのだが、祖父は失脚、父は謎の病死という不幸な事態が続き、今では領地のほとんどをドーミエ将軍に取り上げられて王宮の一隅に|侘(わ)び住まいをしているのだ。
だがこの間の茶会でも分かったように、この名家に対する宮廷人達や国民の尊敬と信頼はいまだ失われていない。人々はここ数年、一向に止む気配のない戦争と税にすっかり疲弊しきっているのだ。
「どなた?」
フェルディナンドはかなり古びた小さな建物の扉を叩いた。
「お届けものにあがりました」
扉を開けてくれたのはかなり年配の侍女だった。
「エカード子爵令嬢様より、シザーラ様に頼まれたご本だとか」
「あらまぁ」
困ったように侍女は呟き、とりあえずこちらへ、と言ってさほど広くもない客間にフェルディナンドを通してくれた。節約のためだろう、部屋は火も入れられず、空気が寒々しい。
「シザーラ様はただ今、別のお客人と会われているのです。申し訳ありませんがしばらくこちらでお待ち願えますか? しばらくかかるかもしれませんが。それとも、私がご本をお預かりいたしましょうか?」
「私なら構いません。お待ち申し上げます。くれぐれもよしなにと仰せつかった物を、直接御本人にお渡ししなければ、使者の役目を全うしたことになりませんから」
これはもっともな意見だったので、侍女は礼をして下がった。しばらくして茶が運ばれてくると、もう一度お待ちくださいと念を押され、フェルディナンドは一人になった。
庭からよく晴れた冬の光が背の高い窓から射し込む。この国はエルファラン国より南に位置するため、冬の寒さはそれほどではない。だがさすがに暖炉も焚かれていない部屋は冷え冷えと陰気だった。
フェルディナンドはゆっくり庭に面した扉を開ける。庭はあまり広くないが、たくさんの木が植えられており、手入れもほとんどされずに置かれていた。
雪が降らないのはいいが、色あせた落ち葉や草がそのままになっているのは、あまり見映えがよくない。
フェルディナンドは外に出て二階部分を見上げる。彼には大体どの部屋が貴人の部屋かがわかるのだ。うまい具合に彼がこのあたりと目星をつけた部屋の窓は細く開けられていた。
おそらく錆びついてきちんと閉まらないのだろう。
不用心な造りだ。これが国の恩人の孫娘に対する仕打ちなのか
少年はしばらく佇んでいたが、不意にはっと息を潜めた。
風の音に掻き消されるほどの微かな声が上から聞こえてきたのだ。
フェルディナンドは壁際に立っているよく茂った常盤木に足をかけた。
幹には夏の名残の蔓草が絡みついており、さしたる苦労もなく二階の窓まで張りだした太い枝までよじ登ることができる。窓から中を覗き込むわけにはいかないが、かなり近くまで寄ることが出来た。よく茂った葉と窓際に飾られた観葉植物がうまく少年の体を隠してくれる。
……よし、さっきよりよく聞こえる。間違いない。この良く通る声はシザーラの声だ。もう一人は低くて聞き取りにくい。男か。一体誰だろう……もう少し窓際に来てくれないかな?
フェルディナンドはぎりぎりまで体をずらして窓際ににじり寄った。ほとんど壁に耳をつけないばかりに近寄ることができたが、落ちたらただでは済まない。それに万が一、窓から顔を出されたとき身を隠す術がない。しかし彼は躊躇わなかった。
あの年老いた侍女以外に、この屋敷に仕える者はまずいない。先ほど案内された部屋の様子や、玄関の佇まいから彼はそう判断していたのだ。
フェルディナンドはしばらくそのままじっと耳を澄ましていた。
やがて少年の薄い唇がうすく引き上げられた。
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