第62話61.戦場 1

「フェルディナンド、いるの?」

 甲高い声が廊下に響いた。

「はい、ただいま」

 観音開きの扉を肩で押し開け、両腕いっぱいにリネンを抱えた黒髪の少年が、声の主の方へやってくる。長い廊下は寒々しいほどに人気がなく、少年と、彼を呼んだ若い貴婦人の他には誰の姿も見かけない。

 王宮ではちょうど午後のお茶の時間帯で、人々は各々にあてがわれた部屋で思い思い過ごしているのだろう。

「どこに行っていたの? フェルディナンド。今日は私の主催するお茶会を手伝ってくれる約束よ」

「申し訳ありません。ドロレスお嬢様、こちらが済み次第直ぐに」

 フェルディナンドはリネンの端から、顔を覗かせて申し訳なさそうに謝った。

「まぁ、なぁに? その荷物は。何であなたがそんなものを抱えてるの? そんなのは部屋付きのメイドの仕事でしょ?」

 尊大な態度で腰に手をあてたのは、年の頃、二十歳過ぎかと思われる紫のドレス、褐色の髪の女性だった。

 褐色の髪はこの国――ザカリエで一番ありふれた髪色だが、高々と結い上げれられていて見栄えがする。

 瞳も同じ色で、顔立ちは美しいが、やや派手めの姿かたちはフェルディナンドの目にあまり好ましく映らない。

 彼にとっては少しぐらいの見かけの美しさなど、何ほどの事もないのだった。遥かな北の地で暮らす彼の主人に比べたら、このような田舎の国の貴婦人など、女性とも思えないほどだった。

 そう言う意味でフェルディナンドは、十五歳の少年にしては、不幸にも目が肥えすぎている。彼の審美眼は厳しすぎるのだ。しかし、彼は如才じょさいなく小声で答えた。

「申し訳ございません。ですが、オーラリア様からそれは厳しく仰せつかりまして。今すぐに部屋の中をきれいにしろと、」

「まぁっ! このお部屋の中にオーラリア様がいらっしゃるの?」

 ドロレスと呼ばれた娘はとたんに声を落とし、右手の扉を恐ろしそうに見つめた。

「オーラリア様なんでいまごろこんな所に? あの方ならもっと人の多い所にいるでしょうに」

 今にも観音開きの扉から誰かが出てくるのを恐れるように、ドロレスは柱の陰にフェルディナンドを引っ張って行った。

「それは私にはわかりかねますが、先ほどオーラリア様から、急にこちらのお部屋に二人分のお茶の支度をと言われまして。私はすぐさまご用意したのです。その間オーラリア様はお部屋でお待ちで、しばらくしてもう一人の方がお庭の方から参られた様子で……それで私は廊下に出るように言われ、そこで控えておりますと、急に室内から物音が響いてきまして……」

 ここでたっぷり余韻を残してフェルディナンドは口をつぐんだ。案の定、ドローレスはその話に喰いついてきた。

「まぁ! まぁまぁ!」


 ここはザカリエ王宮の東側にあたる、芙蓉宮と呼ばれる建物の一翼。一階の部分は平貴族たちが多目的に使える大小の談話室が並んでいる。

 このあたりは王族や、もっと高位の貴族たちの住まいである青蘭宮からは割合離れていて、身元さえ確かなら、比較的軽い身分のものでも出入りできる。

 現在、彼らがいるのはそんなところだった。

「それで、あなたはどうしたの?」

 今や爛々と瞳を輝かせながらドロレスが続きを促す。

「勿論、物音を聞いきつけて直ぐに私はお部屋に入ったのです」

 フェルディナンドはしたり顔で話を続けた。

「ええ、ええ。それで? 何の音だったの?」

「はい。驚いて私が顔を出しますと、お部屋の中は花瓶が倒れてあちこち水浸しで、壁に掛けられていた装飾品が床に転がっていたりと、それはもう、大変な有様で。それらはいましがた片付け終わったばかりですが」

「まぁ! それでオーラリア様は? お一人でそこに? お相手は?」

 最早貴婦人とは形ばかりの猛禽類になった女性に、フェルディナンドは辟易しながらも、表面は大人しく応じる。

「え? ええ……まぁ、それは……私には……」

 フェルディナンドは、よく躾けられた召使の常で、その辺りは上手に口を濁したが、私の口から言えませんのでお察しくださいませ、と言う態度を巧みににじませている。

 相手は噂話に目がない田舎の国の小貴族である。フェルディナンドの話にたっぷりと密会の匂いを嗅ぎとったドロレスは、ますます目を輝かせた。

「ふぅん、きっと男の方がそこにいたのね? そうよねぇ。そうでもないと、いつも人の出入りの多い広間ばかりをうろうろ徘徊しているオーラリア様が、こんな静かな場所には来ないわよねぇ……で、不首尾に終わったと。ほほほ、いい気味だわ。あのろくでなしの父親の権力をカサに着るしかない年増女が!」

 言葉の後半は口の中で呟かれたものだが、ドロレスの顔つきに言ったこと以上の感情が滲み出ていた。フェルディナンドは気がつかない振りで、手際よく汚れたリネンを取り替えている。

「フェルディナンドもかわいそうね。あんな女に気に入られたばかりに、こんなしなくていい仕事まで言いつけられて。あなたは芙蓉宮のすべての貴婦人のものなのにね。皆が言っていてよ。ここのお小姓たちの中で、あなたが一番機転がきいて、美しいって」

 芙蓉宮の二階以上はザカリエ王宮の貴婦人達が住まう所である。

 ザカリエの王都ザールの王城は大きいが、様式美と言ったものとは無縁の増築に増築を重ねた建造物で、いくつかの建物が散漫に並んでいる。

 フェルディナンドは、ハルベリ少将の用意した非の打ちどころのない推薦状をもって、まんまと王宮内で小姓の職を得た。生来の頭の良さと度胸で、今では侍従頭にも一目置かれる存在になっていた。

「ありがとうございます。ですが、私は一生懸命お勤めさせていただくだけでございます」

 大変殊勝しゅしょうなそぶりでフェルディナンドは辞儀をした。所作も話し方も典雅な彼は、まだこの宮廷に仕えて二か月しか経たないが、既に王宮の貴婦人たちの間で大変な人気者だった。

「まぁフェルディナンド、お前はいい子ね。それでオーラリア様はどちらへ行かれたの?」

「はい。私にお部屋の始末を申し渡されたあと、ご自分も中庭の方から外へ出て行かれました」

「そう……それならもう当分ここには戻って来られないわね。それは大変都合がいいわ。さぁ、フェルディナンド。そんなリネンはさっさと片付けて、今度は私達の楽しいお茶会の支度をして頂戴。お友達に使いを出しましょう。今日は久しぶりに楽しいお話ができそうだわあ。もちろんお前も一緒に楽しんでいいことよ」

「ありがたき幸せに存じます」

 優雅な仕草でフェルディナンドは一旦その場を辞し、今度はドローレス主催の茶会の支度を整えるために芙蓉宮の厨房に向かった。やや殺風景な感のある廊下や階段は暖房の恩恵がなく、冷え冷えとしている。ザカリエ国の首都、ザールは冬の一番厳しい季節を迎えていた。

 とは言っても、エルファラン国より南に位置するザカリエ国は、一年で最も寒い季節と言えども雪は滅多に降らない。代わりに乾いた強い風がびょうびょうと高い空を吹き抜けてゆく。

「ふぅ~」

 フェルディナンドは厨房の窓から、うす青い空を見上げて大きく息をついた。ドロレスのような単純な貴婦人の相手なら訳もなかった。

 しかしつい先程、こちらの部屋で修羅場に遭遇した時は、さしもの肝の座ったフェルディナンドでさえどうしようかと、身が竦んだのである。

 

 半時ほど前、少し早めの午後のお茶の用意を言いつかったフェルディナンドは、支度を整えてこの部屋にやって来た。

 そこには先程の話の主、芙蓉宮で権勢を奮うオーラリア嬢が上機嫌で座っていた。彼女は猫なで声でフェルディナンドに話しかけていたが、中庭の向こうに人影が見えると、速やかに彼を部屋から追い払った。

 怒鳴り声とものが壊れる音がしたのは、それからしばらくしてからの事だった。流石に驚いたフェルディナンドだったが、すぐには中に入らず外から部屋の気配を伺っていた。そして幾分物音が収まってから恐る恐る部屋を覗くと、オーラアリアが薔薇の花束を素手でつかみながら、それを力任せに振り回していたのだ。床には茶道具や装飾品が無残な姿をさらしている。

 オーラリアは怒り狂った様子で、フェルディナンドが入ってきた事にも気づかず「あの腐れ男が!」と品なく罵りながら、卓の上に残っていた砂糖壺を掴んだ花束で払い落した。

 彼女はきつい美人であったが、まなじりは逆立ち、豊かに縮れた黒髪は乱れ、紅は滲んでさながら夜叉のように拳を震わせて部屋の真ん中に立っていた。だが壁に貼りつくフェルディナンドに気がつくと、さすがにバツが悪かったのか、

 乱暴に部屋を片付けるように命じると、自分も中庭に続く扉から立ち去ったのだった。


「……でね、フェルディナンドは何も言わなかったけども、絶対に何かあったと思う訳よ」

 ドロレスが手柄顔に声を上げた。白と青色で装飾された室内は明るく、それなりに華やかに見える。芙蓉宮の中でもここはしつらいが美しいのでご婦人たちがよく使う談話室だ。

「まぁ。でも嫌なお話ね。今回はどこのお気の毒な殿方が犠牲になったのかしら? ああ、フェルディナンド、いつもながら上手なお茶の淹れ方ね。このお菓子も美味しいわ」

「お気に召していただいて嬉しゅう存じます」

 上品に微笑んで少年は辞儀をした。丁寧に入れた茶と、焼き菓子が配られ、それほど規模の大きくない茶会は、十人もの婦人達のお喋りで盛り上がっている。

「前にも領地に婚約者のいる方を誘惑してを騒ぎになっていたでしょう?」

「その噂も収まらないうちにこれだものねぇ……」

「ねぇ、フェルナンドその殿方は一体どなただったの?」

「私は遠目にしか見ておりませんので……中庭の木々越しでございましたし……」

 フェルディナンドは手を差し出した夫人にクリームの皿を差し出しながら言った。

 なるほど。噂には聞いていたが、オーラリアの横暴はかなりのものだな。そして、嫌われようも。

「だけど、オーラリア様を袖にしたとなればただでは済まないわね。またお父上に言いつけて、最前線に送られてそれっきりじゃないのかしら?」

「まぁ、お気の毒ねぇ。しかも、ここ数カ月の我が軍の戦況は、どんどん分が悪くなっているって話でしょう?」

「まぁ、怖い。まさか、我が国が負けるなんてことは……」

「まさか、だって我が軍はあのバルリングの大熊、イワノヴァ・ドーミエ将軍に率いられているのよ。あの戦うしか能のないケダモノにね」

「あら、じゃあそのケダモノの娘であるオーラリア様はいったい何なのかしら?」

「さしずめ猛獣使いってところかしら?」

 別の貴婦人も愉快そうに応じた。カチャカチャと茶器が鳴る。

 おやおや、熊将軍もご息女と同じく、随分と嫌われているようだ。姿かたちはともかく、今までこの国を盛り立てていた重鎮であるはずなのに。

 フェルディナンドは用を言いつかれれば、すぐに応じられるように衝立(ついたて)の蔭に下がった。召使いの姿が見えないとなれば、軽薄なおしゃべりはさらに加速し、ザカリエ王宮の内幕を晒してくれる。

 彼は完全に表情と気配を消し去りながら、婦人たちの噂話に神経を集中させていた。

「ほんとう、親子そろって、どうにかなってくれないかしら?」

「あら! だめよ、あなた。滅多な事を言うと毒を盛られるわよ? ご存じでしょ? あの噂」

 あの噂? なんだろう?

 フェルディナンドは耳をそばだてた。

「ああ、引退されたヴァン・ジキスムント宰相の、亡くなられたご子息の話でしょ? かなり前の話だけど」

「そうそう。あんなに若くして原因不明のご病気を得られてねぇ……それもなんだか微妙な時期にね」

「ジキスムント宰相様の引退は事実上は強制退官でしょ? それでご子息が抗議した途端の病死だものねぇ。宰相様は以来御領地に引っ込んだままだとか」

 隠棲している宰相の息子が誰かに毒を盛られたのだろうか?

「しっ、単なる噂よ。この話はやめましょう。フェルディナンド、そこにいるの? お茶のお代わりをお願い」

 少し年配の婦人がその場をなだめ、その話は途絶えた。

「はい、ただ今」

 せっかくの情報だったのに、この話はそこで打ち切られたようで、フェルディナンドは些か失望しながらも、御婦人たちの話など聞いていなかった風で衝立の蔭から顔を出した。

「確かに他愛のない話しがどう漏れるか分からない現状ですしねぇ。ここ数年間、この宮廷はあの熊の親子が支配しているのも同然だわ。陛下もご遠慮なさっておられるし」

「でも、確かに以前は飛ぶ鳥落とす勢いだったけど、最近はどうも……ね。西じゃ大きな負け戦があったと言うし、さすがにエルファランは伝統ある大国だわ。なかなか我が国の軍門に下りそうにないじゃないの」

「ここだけの話、私はエルファラン国に恨みなどありませんわよ。むしろ文化的で豊かで、新興国である我が国の手本になる国かと」

「美しい布や、美味しいお酒の産地でもありますしねぇ。まぁ、だからこそ熊は併合したいのでしょうけど」

 どうやら戦の趨勢すうせいとは別に、エルファラン国は貴婦人達にとってはあこがれの国の様である。

「だからそんな事、ここだけの話になさいね。戦争で家族を亡くされたお家の方々もいらっしゃるのだから」

 窘め役の婦人はやっぱりここでも思慮深い意見を述べた。

「ですが、元々は我が国から資源目当てに仕掛けた戦争でしょ? 途中休戦期間は長かったけれど、ここ最近は以前より激しくなって……戦死者の中には名のある騎士もいるそうよ」

「もうやめたらよろしいのに。不安ですわ」

「始まりがどうだったかなんて、あんまり昔のことで、もうみんな忘れているでしょうにね?」

「忘れてもらっては困りますわ!」

 戸口から厳しい声が響き、皆は一斉に声のした方を向いた。勿論フェルディナンドも。

 そこにはきつい顔をした細い娘が立っていた.



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