第52話51.領主の選択 13
金色の木立の中を黒い馬が疾走する。
半ば葉の落ちた朝の森は
レーニエを抱いたままファイザルは巧みに馬を操り、木立の中を進む。人々が騒いでいるだろう村を駆け抜けるより、少しだけ迂回して西から領主館まで戻った方がいいと、彼は判断したのだ。おそらくハーレイの脚力では半時も掛からないだろう。
「お身体は辛くはありませぬか?」
マントにくるみ込まれたレーニエを抱き直し、心配そうに覗きこむ青い瞳にレーニエは手首をゆらゆらさせて微笑んでみせた。
「大丈夫。手の怪我だってちっとも痛くない」
「本当に? お熱は? 昨夜はさぞ恐ろしかったでしょう?」
ファイザルは大きな掌をレーニエの額に当てた。今のところ発熱の気配はなかった。緊張が解けていないせいかもしれないが。
「それはそうだが……病人がいたし、私もあの男も、そちらに注意が向いていたから。あまり怖いとか考える暇がなかった……と思う」
昨夜の事を思い出しながらレーニエは答えた。その声も特に乱れる様子はなかった。
「相変わらず
腕の中の小さな体を抱きしめながらファイザルは呟いた。すぐに折れてしまいそうなこんな人が、一晩
「そんな事はない。内心怖くて仕方がなかった……だけど必ずあなたが来てくれると信じていたから」
「……」
「なのに……どういう訳か今の方が怖い気がする……何故だろう? あなたの傍にいるのに……」
無条件の信頼と、そしていくらかの哀しみを
「それは……わかります」
彼は森のはずれの明るい空間で馬をゆっくり停めた。そこは黄金色に葉が色づく種類の木々に囲まれた空間で、もう少し走れば森が切れ、荒野が見えるはずの場所だった。
レーニエを一刻も早く館に連れ帰り、休ませた方がいいのは無論分かっている。だがしかし、彼にはどうしても確かめなくてはならないことがあった。
「レーニエ様、申し訳もないのですが、少しだけ、少しだけ……よろしいですか?」
ファイザルは馬を下りた。
自分を包んでいたマントを解かれて、ここはどこだろうと、不思議そうな顔をするレーニエを黙って馬から抱き下ろし、大きな木の根元に彼女をそっと座らせて片膝をつく。
「うん?」
金色の絨毯の上で、怪訝そうに小首を傾げるレーニエの両腕をそっと掴み、曇りのない瞳を覗きこむ。
「お館にお連れする前に、どうしてもお聞きしたいことがあったのです。お身体は本当に大丈夫ですか?」
「体? 体なら大丈夫。流石にちょっと疲れたけど……何?」
ファイザルの酷く真剣な様子に、少しだけ身構えてレーニエが予防線を張る。掴まれた腕が少し痛い。
「奴らは……あなたに、その……嫌な事をしませんでしたか?」
言いにくそうに言葉を選びながら、ファイザルは彼女の命の次に気に懸っていたことを問うた。レーニエの方は思いもかけない質問に、急いで記憶の中に答えを探す。
「嫌なこと? 攫われる以上に? ええと……」
「俺の言うのは、たとえば……無理やり服を脱がされるとか、肌に直に触れられるとか言うようなことです」
「ええ? そんなことはされてない。マントも上着も自分で脱いだし。この怪我は自分の責任だし」
質問の意味がよくわからないまま、レーニエはありのままに答えた。そう言えば、最後に追いかけられた時以外は特に乱暴はされていない。
「男たちの一人が病人で、あのブルックと言う男はそれをいたく案じていたから、私に構うゆとりはなかったように思う」
「……そうですか」
ファイザルはほっと肩を落とした。厳しい色を浮かべていた目が、目に見えて穏やかになり、腕を掴む指が緩んだ。
「あなたに手を出したのなら、たとえあなたのご命令でも、きゃつらを生かしておかないところでしたが」
「……」
人殺しも
「俺が恐ろしいですか?」
レーニエの瞳に浮かんだ恐怖の色を勘違いして、ファイザルは彼女の腕を離した。
「いいや。私が恐ろしかったのは、私のせいであなたが傷つくことだけだった……そうだ、あなたは怪我はないのか?」
心配そうな、だがありえない問いかけに、ファイザルは仕方なく苦笑を浮かべた。
「俺の心配なぞ無用です。だが……」
ファイザルは小さな顔を両手で挟んだ。
「ん……?」
「あなたは今の方が怖いと言われたが、俺も……そう、実のところ、俺の方が怖がっているのかもしれない」
片時も逸れずレーニエを見つめる青い目に、痛みのようなものが浮かんだ。
「恐怖と言う感情を久しぶりに思い出した……今でもまだ恐ろしい」
「済まない……心配をかけた。あなたにも……皆にも」
ファイザルの大きな掌は頬から首を伝い、肩に滑らされて、もう少しで失ってしまっていたかもしれない人の体を確かめるようになぞってゆく。
「どんなに叱られても仕方がない……」
自分を見据える瞳から目を逸らせてレーニエは言った。たぶんまた叱られる。自分を皆から遠ざけたのはきっとそのためだ、そう思って。
「その通り。いけない
「……ごめんなさい」
「そんな言葉で許されると思っているのですか? かつて経験したどんな絶望的な戦況でも俺は、これほど恐ろしかったことはない」
「……」
「この一昼夜、生きた心地が微塵もしなかった。生まれて初めて死んだ方がましだと思った……もしも、あなたを――失ってしまうくらいなら……」
言葉を見失うほどに付き上げる感情。彼は唇を歪めてそれに耐えた。
「俺が死ぬ!」
苦いものを吐き捨てるようにファイザルは唸った。
「ヨシュア!」
「そうとも。あなたは……あなたと言う人は……なんだってこんな……」
「あ!」
いきなり激しい勢いで抱きすくめられる。
「少しは哀れな……哀れな俺の事も考えてください!」
ファイザルがじわじわと体重をかけてくるので、支えきれなくなったレーニエは、背中を木の幹に預けた。逞しい腕が苦しいほどきつく体に巻きつく。
「あなたが攫われたと聞かされた時の俺の心の内を、見せて差し上げたい」
ファイザルは両腕の檻にレーニエを閉じ込め、自身の心臓の音を聞かせるように胸に押しつけた。
「……ヨ……」
とくんとくんと規則正しく刻まれる鼓動。先程彼は心臓が潰れるというような事を口にしたが、まさか、自分がこの音を止めてしまうところだったのだろうか?
そうだとしたら、自分は何と言う事をしでかしてしまったのだろうか? レーニエは瞳を閉じて力強く生を告げるその音に耳を澄ます。
よかった。本当に……この人のところに帰りつくことができて。
瞳を閉じて体を
「大丈夫。生きている。私も、あなたも」
「ありがたいことにね」
ふ、と男の厳しい青い目が緩んだ。
「……レーニエ様」
「ん……?」
口づけてくれるのかと潤んだ瞳でファイザルを見上げたレーニエは、自分を見つめる真剣な青い瞳とぶつかった。
「そうだ。もう一つ聞きたい事があったのを思い出しました」
あれ?
声音がさっきと違う。
何だか雲行きが怪しくなってきたと、レーニエは目を
「……はい」
「さっきはなんで、俺の言った通り上にいなかったんです。こんなお怪我までされて……」
ファイザルは自分で包帯を巻いてやった細い指先を握った。
「……えっと……」
「さぁ、言いなさい」
容赦なく、ファイザルは問い詰める。
「え~だからあの……剣があった方がいいのかなって思ったものだから……」
「俺があんなシロウトに後れを取るとでも思ったんですか? 見くびられたもんだな」
「あ、いや……そうではないが……そうだ、あの男、ブリッツはどうなるのだろうか? かなりの怪我だったようだけれど……まさか命を落とすことには……」
「あなたは……あんな目にあったのに、まだ奴の心配などするのですか?」
厳しい声でファイザルはレーニエに問いただした。
「え? いや、そういうつもりは……でも、助かるとよいとは思う」
「今夜を越せたらたぶん大丈夫だと思います。傷は深いが急所ではありませんでしたし。だが、あなたに止められなければ殺していました」
「でも殺さなかった」
「あなたが命じたから。それにあなたの目の前で殺すわけにはいかなかったし。いくら俺でも。それより」
「……」
「あなたが剣を持って立っていたのには流石の俺も
扱い慣れない重い剣など持って怪我でもしたらどうするんです、と言いながら細い指先が握りしめられる。
「いや、すぐに使えた方がいいかなって……ヨシュア、あの……ちょっと痛い……」
どんどん雰囲気が怪しくなる。このままではもしかすると……レーニエは指先を預けたまま、じりじりと身を離し、身構えた。
「無茶をするにも程がある!」
そら来た。
レーニエはひゃっと首を竦ませた。やっぱり怒られるのだ、この人に。
「大体あなたときたら!」
「はい……」
「そもそもの初めから分別がなかったんです! 人質の交換などと……よくもまぁ思いつかれたもんだ! まったく……前代未聞だ!」
ファイザルは昨日からの
「仮にもご領主様が、村の子どもの代わりに人質になるなんて、ついぞ聞いたことがない! あなたはご自分の立場をわかっておられないのか!」
「子ども……そうだ! ミリアとマリはあれからどうなった?」
話を逸らすという訳ではなく、すっかり忘れていた幼い姉妹のことが急に心配になってレーニエは勢い込んで尋ねた。
「へぇ……御自分がこんな目に遭われたと言うのに、よその子の心配ですか」
「でも!」
「二人はあなたを心配してずっと泣いていますよ。父親のペイザンもそうです。彼の母親はぶっ倒れて寝込みました」
「お婆様が? それはお気の毒な……明日にでも見舞いに行かねば……あ、アンナ婆さまのことも、すっかりほったらかしで……」
「そうじゃないでしょう!」
いつも自分のことは普通に後回しな領主に、ファイザルはついに堪忍袋の緒が切れたのか声を荒げた。
「気にする所はそこではないでしょ!」
……本気で怒ってるなぁ。
何か言う度に墓穴を掘っているような気がして、レーニエはとりあえず神妙な風を作った。
「なぜ身代わりなどに?」
「う……しかし、あの時はああするしかないと思ったんだ。ミリアとマリはあんなに怯えてたいたし、とても見ていられなかった。私なら大人だし、何とか対処が……」
「大人ですって!? そんな方は知りませんな。一体どなたのことです」
「私……」
聞き取れぬほどの小さな声でレーニエは反論した。自分は十八歳で、ミリアとマリはたった十歳と六歳だ。そんな子どもを残していけるものか。
いくら叱られてもレーニエはそこは譲れない。例え軽率だ、無鉄砲だと罵られても。
「大人だったらもう少し手段を選ぶでしょう。子どもとはいえ、大切な人質だ。奴らだってそうそうあっさり殺したりはしません。普通ならいったん引いて、奴らの出方を待ちますね。ジャヌーを近くに潜ませて俺に知らせることだって出来る。相手はたった二人だ。子どもを扱い兼ねて油断したところがこちらのつけ目だとも言える」
「う……」
「とにかくあなたを人質に取られるよりは、余程いいのです」
もっともな言い分にレーニエはすっかり恥入ってしまう。しかし、考えてみるとまったくその通りだった。マリに向けられた刃の切っ先に動転し、後先を考える余裕もなく、思いつきを口の端に出してしまった自分はこの人から見るとやはり、どうしようもない愚か者なのだろうか。
返す言葉もなく、レーニエはすっかりしょげかえっている。ファイザルは何にも云わずに、素直に悪びれたその顔を見つめた。
「どうしても助けたかったんだ……それだけで……他の事は考えられなくて……」
「そのお気持は理解できますが、明らかに無謀な行為でした。村の子どものために、現国王の一人娘が身を
「もう……わかったから、もうしないから。怒らないで、ヨシュア……」
しょげかえった瞳が揺らめくのを見て、今まで烈火の如く怒っていたファイザルが急にその勢いを失った。
「俺は別に怒っている訳では。それに……」
「うん」
「……そんなあなただから、どうしようもなく可愛いのだ」
「え?」
「ええ……おっしゃる通りです。あなたは一人前の立派な女性だ」
乱れた鉄色の前髪の下から覗く深い青い目が、レーニエを捉えて離さない。
「ヨシュア?」
「俺をこんなにしてしまった……」
ゆっくりと彼の顔が近づいてくる。
「レナ……レナ……本当に無事でよかっ……」
込み上げる感情に耐え兼ね、男の声は詰まった。何度抱きしめてもまだ不安に駆られる。
「愛している……レナ。俺のような者が愛など、口にするのも
愛など馬鹿げている。しかし、この狂おしく
「あなたより大切なものが今の俺にはないから」
武骨な指が柔らかい生え際の巻き毛を掻き上げ、白い額を露わにする。
「……ヨシュ……」
熱いものが自分の額に触れたことがわかった。触れた部分から彼の想いが伝わってくるようで、レーニエは瞳を閉じた。
やがて落とされた口づけは、優しく触れるだけで。唇に、頬に、瞼に、髪に、そしてまた唇に。落ちかかる鉄色の髪の先が白い頬に触れる。
「あ……」
「レナ……! 俺のレナ!」
唇が離れるたびに名を呼ばれ、呼ばれるたびに更に熱く飢えたように塞がれる。今まで感じたことのない幸福感が波のように押し寄せ、レーニエはいつしか腕をまわして彼の首を抱いていた。背中に回った腕がかろうじて引っかかっていた髪のリボンを解く。金色の落ち葉の上に幾筋もの銀の流れができた。
「あ……ヨシュ……もっと」
苦しかろうとファイザルが少し唇を浮かせたとき、レーニエは不満そうに強請った。
「もっと? なにを?」
レーニエが紡ぐ言葉を思って、柄にもなく胸が高鳴る。これではまるで女を知らぬ青二才のようではないか。あざ笑う自分を押し込める。今は目の前の娘のこと以外、何も考えたくはなかった。
「何が欲しいのです」
「……口づけ」
素直にレーニエは応じた。この瞬間が恋しくてならなかったのだ。あの夏の湖以来、どんなにこうしてほしかったか。レーニエは今更ながら気がつく。ずっと待っていた。この瞬間を、二つの季節の間中。
「好きなの……大好き」
「く、殺し文句を」
再び圧し掛かる。一つに重なり合った体が無意識に揺れ、身じろぐたびに地面の落ち葉がカサコソと優しい音を立てた。
やがてファイザルは僅かに顔を上げ、先ほどのようにレーニエを覗き込んだ。小さな唇はびっくりするほど色づき、僅かに腫れて濡れていた。ゆっくりと長い睫毛が上がって赤い瞳が彼を見上げる。
「そんな顔をされると堪らなくなる……このまま奪ってしまいそうで」
「奪うの……? 何を? 私がもっているものならなんでもあげる」
無邪気にレーニエは聞き返した。ファイザルはレーニエが奪うという言葉の意味を、まったく解していないことに微笑んだ。
誰にも汚されていない無垢な姫君、こんな娘が自分を想ってくれている……。
「あなたは何もご存じない。男と言うものは、あなたが考えるよりずっと罪深いものなのですよ。こうしてあなたが無事でいる方がむしろ奇跡なのだ」
彼はレーニエの首筋に顔を埋めると、再び腕に力を込めてその体を抱きしめた。唇で耳元の窪んだ部分を味わいながら、ともすればシャツのタイを解いてしまいそうになる衝動を抑えつける。
「こんなあなたを置いてゆくのは、不安で不安で仕様がない……」
しばらくして、ファイザルは呻くように言った。
「……?」
「俺がいなくなったら、どんな無茶をするか分からない姫君だから。あなたは」
「……え?」
娘らしい甘い感情に浸っていたレーニエは、いきなり言われた言葉を理解しかねて戸惑ったように首を傾けた。
「いつかは言わねばならなかったのですが」
「ヨシュア?」
「レナ……俺はもうすぐ戦場に戻ります」
ファイザルは重々しく告げた。口づけを受てうっとりとけぶったレーニエの瞳が、言葉を受けて鮮やかな緋色に変わる。
「先日使者がきました。おそらく一月以内に俺はこの地を出発しなくてはなりません」
「あ! あ……!」
思いがけない宣告に、レーニエは身をぞっと竦めた。ファイザルの言葉が浸透していくにつれて体が小刻みに震えだす。
「い……や、嫌……嫌!」
震えが止まらず声に力が入らない。それでもレーニエは、必死で彼にしがみついて首を振った。髪が流れ、落ち葉の上でさらさらと密やかな音をたてる。
「いやぁ……ヨシュア」
「ふ……まったくあなたと言う人は……可愛くてたまらない」
あどけなさと女らしさの同居するその仕草に、ファイザルは目元を
「嫌だ! 行かないで!」
悲痛な声と共に華奢な体が広い胸に投げ出される。ファイザルは、しっかりその身を受け止め、包み込んだ。
「目を閉じて……耳を塞いで……あなたを悲しませるもの全てからあなたを守りたいのに。すまない、レナ。あなたを傷つけるのはいつも俺なんだ……」
あの湖でもこの人は泣いていた……
愛しくてならないように長い指が銀の髪を
「あの男たちのようにあなたを
ファイザルは静かに笑った。
「攫って!」
白い頬に涙が溢れて彼の上着を濡らした。
「ヨシュア! お願い、私も連れて行って!」
幼子のように嫌嫌を繰り返し、娘が彼の胸に取りすがる。軍服の厚い生地を細い指が握りしめた。怪我をしたばかりの手を案じ、自分の手で優しく剥がしてやる。
「あなたを攫って逃げたりしたら、俺は命令不履行と王族誘拐の大罪を犯した極悪人になりますね。それも面白そうですが、捕まえられたら問答無用で極刑になるな」
わざと冗談めかしてもレーニエはごまかされない。
「嫌だ! ヨシュア! 傍にいて! 行かないで……私を愛しているって言ったのに!」
「愛していますとも。自分でも驚くくらい本気だ。だから俺は、俺にしかできない方法であなたをお守りする」
「そんな方法で守ってなどほしくはない!」
レーニエは、ファイザルの腕の中で子どものように泣きじゃくった。それしかできなかった。
「お願いだから……」
「レナ、レナ……泣かないで」
「母上にお願いしたら……」
自分の思いつきに、はっとなってレーニエは急に顔を上げた。
「そうだ! 母上に……」
「いけません、レナ。誰かが行かなくてはならないのです。今回は、たまたまそれが俺だったと言うだけのこと」
ファイザルは静かにレーニエの言葉を遮った。
「仮に俺が逃げても、誰かがこの任につかなくてはならない。命令に背くことはできない……と言うよりしない。自賛ではなく、おそらく現時点では、この国に俺以上に適任者はいないでしょう。南の戦地では攻める方も守る方も疲弊し、戦いはそろそろ終わる時期が来ている。誰かがケリをつけなくてはいけないのです」
「それが……あなたでなければならないの?」
「どうしてもね」
何でもないことのように唇を上げて、ファイザルは笑った。
「可愛いレナ。戦場を駆け抜けることが生きることだと思っていた俺にとって、この地に来て、あなたと出会ってからの月日は夢のような時間でした」
「……」
「あなたを知って、
「ヨシュア……それは……」
不吉な物言いにぞっとしてレーニエは目を見張った。
「そんな顔しないで、レナ。何も俺は死にに行く訳ではありません。人生がそれほど捨てたものではないという事を、あなたに出会った今では理解できますからね。ただ必ず戻ってくると約束できないだけで」
|訥々(とつとつ)と紡がれる言葉は飾り気がなく、それだけに紛れのない真実なのであった。もはや言葉もなく、レーニエは首を振るだけだ。その瞳から拉致された時ですら見せなかった涙が溢れて流れる。
「私などのために、そのきれいな瞳を曇らせないでください」
ファイザルは唇で涙をぬぐってやったが、それは後から後から頬を伝い、ぬぐい切れなかった雫が赤い唇までも濡らした。
「レナ。あなたに会えて本当によかった。この先何があっても、それだけは俺の中の
痛みともつかぬ愛しさをこめて、ファイザルはそう告げ、赤い唇に付いた雫を吸った。
朝の森は、落ち葉を舞わせながら恋人達を静かに包んでいた。
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