第51話50.領主の選択 12
「レーニエ様!」
森の方から錆びた男の声が響く。
レーニエを追いかけて斜面にしがみついていたため、気配に気づかなかったブリッツは、あっと上を見上げた。
ざっと砂を蹴る気配。
レーニエも首を反らせて伸びあがると、片足を崖の淵にかけて下を覗き込む男の姿があった。それは限りなく慕わしく、懐かしい男の顔。見開かれた青い目がレーニエをがっちり捕らえた。
彼が見たのは、自分を見上げる小さな姿。危なっかしい岩の上に難を逃れたのだろう。顔が土で汚れているが、見たところ大きな怪我はなさそうだった。
「レナ!」
「ヨシュア! 待っていたの」
「そこに行く! 動かないで!」
後方からたくさんの
「お前は誰だ!」
圧倒的に不利な状況で、それでも剣をレーニエに向けたまま声を張り上げたブリッツの根性は、称賛に値するかもしれなかった。しかし、ファイザルは眉一つ動かさない。
「俺はノヴァゼムーリャ砦の指揮官、ヨシュア・セス・ファイザルという。お前にもう逃げ場はない。諦めろ。お前の仲間はすでに我々の手に落ちた。奴は素直に従ったぞ」
「何?」
ファイザルの名乗りを聞いた男の驚愕は、見るも無残だった。汗ばんだ顔にさらに汗が吹き出す。しかし、ブリッツは最後の足掻きをやめなかった。木の根を掴む手を緩めると、一気にレーニエに剣先が届くところまで滑り下りる。
「指揮官殿!」
「ご領主様は崖の下に!?」
ファイザルの背後で、大勢の男たちがこちらに駆け寄る気配がしたが、彼は振り向きもせず、片手を上げてそれを制した。ピタリと足音がとまる。
「貴様……」
「引け! どうせ殺されるんなら、コイツも道連れにしてやる。いいか、俺は本気だ、どっちみちもう後がねぇ。今ここで、この若造の死に様を見たくねぇんなら、お前も後ろの奴らも消えろ! 今すぐだ!」
そう言って頼りない足場に片足を掛け、ブリッツはレーニエに剣先を突き付けた。レーニエは身を仰け反らせたが、こちらも足場は狭い。これ以上は逃れられなかった。
「その方に僅かでも傷をつけてみろ……俺の知る最も
ファイザルの青い瞳は、レーニエが見たことのない獰猛な光を放ち、声は地を這うほどに低かった。温厚で頼もしい、いつもの姿が嘘のように。
ヨシュア……。
レーニが見ている前でブリッツはごくりと唾を飲み込んだ。この男がそう言った時は本気なのだ、本能がそう告げた。戦場で悪鬼と呼ばれた男は今、彼の目の前にいる。
「う、うるせえ! 少しでも動いてみろ!」
ブリッツは、こみ上げる恐怖を振り払うように
「さぁ、お前の剣をこっちに滑り落とせ! 剣帯ごとだ! いいか、投げるんじゃねぇぞ、ゆっくり滑り落とすんだ。脇差しも短剣も、武器は全てだ! ごまかすんじゃねぇぞ」
「……」
ファイザルは黙ってゆっくりと剣帯を解いた。
「そうだ、斜面に垂らすようにして落とせ」
ファイザルが自分の剣と短剣の吊るされた剣帯を、ブリッツの方向に向けて落とした。重い皮の剣帯は、ファイザルの手を離れ、ずるずると斜面を滑り落ちてゆく。
ブリッツがそれを取ろうと剣と反対側の腕を伸ばした瞬間。
「うわっ!」
ファイザルが地を蹴って大きく跳躍した。真上から飛びかかり、ブリッツを蹴り飛ばしたかと思うと、自らも斜面を転がり落ちた。
「ヨシュア!」
レーニエの絶叫が森の中に響いた。
二人の男は立ちあがると僅かな距離を挟んで対峙した。双方埃まみれである。ブリッツの方は顔のあちこちから血が流れている。ファイザルの方は流石に体術が優れているのか、汚れている他は、大きな外傷はなさそうだった。
額から血を垂らしながらも、ブリッツは抜かりなく掴んでいた剣帯から剣を引き抜いたが、ファイザルの方は丸腰である。
「指揮官殿!」
上からジャヌーをはじめ、大勢の男たちが、顔を出した。ブリッツは既に剣を構えている。
「俺はいい! ご領主様をお助けしろ! そして下に回り込め」
そちらを見ようともせず、ファイザルは怒鳴り、構えの体制で腰を落とす。ファイザルの体術がどれくらいのものかは分からないが、長剣を持った相手に対して形勢は明らかなように見えた。
「ヨシュア……」
ファイザルに聞こえないようにレーニエは口の中でつぶやいた。緊張のあまり口腔がからからに乾いている。だが、ファイザルの貌は冷たく凪いでおり、自分の不利を些かも感じていないようだった。
それはレーニエが初めて見る戦士としての彼の姿であった。
「来い」
ファイザルが酷薄な笑いを唇に浮かべてブリッツを挑発する。ブリッツも場数は充分に踏んでいるのか、構えに不安定さはない。
「どうした、来ないのか? 俺は丸腰で、お前の得物は長いぞ、さぁ……」
ファイザルが両手を大きく広げてわざと隙を見せ、肩で息をしている男を嘲笑った。
「来いよ」
「うおお!」
怒号もあらわに、ブリッツが襲いかかった。
勝負は一瞬であった。
勢いも凄まじく大上段から大降りする相手を難なくかわして、懐に潜り込むと、ファイザルは相手の|脾腹(ひばら)に深く拳を埋め込んだ。
「ぐお」
呻いて身を折った男の手から剣を奪い、ファイザルは軽く一閃させる。結末はあっけない程だった。ブリッツはものも云わずにうつぶせに倒れる。体が虫のように丸まり、みるみる血だまりが地面に広がった。傷は筋肉を深く抉ったかようである。致命傷とまでは言わないが重傷であることは確かだろう。
「うう……」
傷口を抑えてブリッツがあえぐ。傷を押さえた指の間から鮮血が溢れた。
ぼたぼたと血の滴る剣を手にファイザルはゆっくり、倒れた男に歩み寄った。僅かに背を丸めた姿は静かだが、下目づかいに男を見るその顔は氷のように無表情だった。
「……」
剣は明らかな目的を持って切っ先が下に構えられる。ブリッツはもがき苦しみながらも、絶望的な視線を上げた。男の命はここで終りなのだった。
「ヨシュア! いけない!」
すぐ後で、聞こえるはずのない声。ファイザルは愕然と振りかえった。
そこにはあろうことか、体の半分ほどもある彼の長剣を引っさげて
レーニエはファイザルの言いつけを守らず斜面を下りてきたのだった。
「レ……!」
後ろに彼の剣帯を持ったジャヌーも突っ立っている。どうやらレーニエを追いかけて斜面を滑り降りて来たらしく、彼も埃まみれだった。
「ヨシュア、殺してはだめだ」
「レーニエ……なんで……来たのです」
ファイザルは喘いだ。
「えと……その……あなたが怪我をしてはと思って……」
レーニエは、丸腰のファイザル案じ、とっさに斜面の途中で引っかかっている剣を取ってファイザルに渡そうと、上からの救助も待たず、突き出た木の根を足がかりに、斜面を滑り降りてきてしまったのだ。転げ落ちたのではないにせよ、レーニエにとっては離れ技に近いものだったろう。
ファイザルはゆっくりと歩み寄り、血まみれの剣を放り投げるとレーニエの前に立った。
「ヨシュア?」
ファイザルは無言でレーニエの右手から自分の剣を取り上げると、レーニエの背後に立つジャヌーに向かってがらんと投げ捨てた。ジャヌーも何も言わずにそれを拾い上げ、剣帯に吊るされた鞘に収める。
「ヨシュア……」
レーニエの呼びかけに彼は答えない。ただ黙ったまま、厳しい顔で彼女を見下ろしていた。しかし、その顔は先ほどまでの表情のない、氷のような顔ではない。レーニエのよく知ってる慕わしい男の顔に戻っていた。
「あの……」
「血が」
ファイザルは掠れた声で呟くと、レーニエの顔を
「え? ああ……これくらいなんでもない」
レーニエは慌てて拳でごしごしと頬を拭う。
彼女の頬や、掌は大小の
「よくもこんな傷を……!」
染み一つなかった白い肌が、傷と血と土で汚れているのを怒りを込めてファイザルは見つめた。華奢な手を包む無骨な両手がわなわなと震える。
「畜生! レナ!」
眉根が厳しく歪んだ。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
レーニエは泣いてはいなかったが、彼がひどく怒っているのを知って、ほとんど泣きそうな表情になった。
ファイザルは改めて酷いありさまになった領主を見た。
美しい髪はくしゃくしゃで上着もなく、あちこち破れたシャツと胴衣だけで。おまけに体中に木の葉や土くれをくっつけて。
その上、擦り傷だらけで。
自分などのために。
「……」
「ごめんなさい……」
「……が……れるかと……」
男の唇が僅かに動いた。
「え?」
「……心臓が……潰れるかと思っ……た」
弱々しくそれだけ言うと、ファイザルはさっと腕を伸ばしレーニエを引き寄せた。そのまま深く腕の中に抱き込んでしまう。生地の厚い軍服越しに、逞しい体が細かく震えるのがレーニエに伝わった。
この冷静で、経験豊かな男が震えている。
「ヨシュア……」
その時、後方から騎馬の足音が聞こえてきた。兵士たちがやっと道を見つけて駆け降りて来たらしい。ファイザルが僅かに体を離した。
「指揮官殿! ご無事で」
「ご領主様!」
あっという間に彼等は十騎ほどの騎馬に取り囲まれる。ファイザルは、それへ顔を上げて命じた。
「救護袋、そして水を!」
「はっ!」
慌てて一人の兵士が、緑色の麻袋を持って駆け寄ってくる。
ファイザルは、草の上にレーニエを座らせると、汚れた手と顔を水で|濯(すす)いでやった。幸い大きな傷はないようだ。濡れたところを清浄な布でそっと拭き取り消毒すると、レーニエは少しだけ染みたのか、きゅっと目を瞑った。
「すみません、痛かったですか? だが直ぐに消毒しないと悪いものが入るかもしれないので」
「へいき。でも少し臭いね」
「後で十分な手当てを」
擦りむいた掌には包帯を巻きつける。親指の付け根の傷が一番ひどい。この手に醜い武器等二度と持たせたくはない。ファイザルはぎりぎりと胸が締めつけられたが、その間にも口頭で、周りの部下たちに次々と指示を発してゆく。
「救護班! 応急処置をしてやってそこの男を連れて行け! ご領主様のお情けだ。砦に付いたら医師を呼んで手当てをしてやるように。さっき捕えた男も同様だ。ただし、顔は合わさせるな。個別に対処せよ。それからお屋敷に使いの物を、至急に」
「承知いたしました!」
ばらばらと兵士たちが命令を遂行するためにきびきびと動き出す。ブリッツは仰のけにされ、衣服を脱がされ、止血帯を巻かれた。一太刀目と言う事でァイザルが手加減したのか、重症ではあるが致命傷には至らなかったらしい。
彼はすでに逆らう気力もなくしたようだが、その目がじっとレーニエを見つめていた。
「……」
自分が逃げ出したりしたからこの男はこんな目に合っているのだ。血の染み出した白い布を見て、不意にレーニエは恐ろしくなった。
私のせいだ……。
思わず彼女は、ファイザルの胸に額をつけて、血の気のない顔で自分を見ている男を視界から消した。
「……」
ファイザルはレーニエの視線を追って彼女が何に怯えたのか察すると、優しく抱き寄せ、安心させるように背中を撫でた。
「もう大丈夫です」
「でも私が……」
「レナは何も悪くない」
そう言うと、さっとレーニエを抱き上げる。
「ご領主様は酷くお疲れだ。俺は一足先にお屋敷にお送り申し上げる。お前たちは後始末をしてから来い。ジャヌー、剣帯!」
「は!」
ファイザルは片腕でレーニエを抱いたまま命じたので、ジャヌーはちょっと気を使いながらも、ファイザルの腰に剣帯をまいて留めた。
皆の見ている前でファイザルは、兵士たちが連れて来た自分の愛馬までレーニエを運び、彼女を乗せると自らも素早く馬上の人となった。
「ここからの指揮はルカスが行え」
「かしこまりました!」
「はぁ!」
ファイザルは軽く馬の腹を蹴ると、兵士たちが見送る前から風のように駆け去った。
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