第50話49.領主の選択 11

 

 どのくらいの時が経ったのか。

 洞窟の中は暗く、夜が明けたかどうかも定かではなかった。

 レーニエは眠るつもりはなかったが、できる事もなくて横になっている内にいつの間にかうとうとしていたらしい。小さな焚火の向こう側を見ると、マンレイは薬が効いたのか、よく眠っているようだった。もう一人の男、ブリッツはその隣で背中を向けている。焚火はすっかり熾火になっているようだ。

 レーニエたちがこの場所に辿り着いてから直ぐに秋の短い日は落ちた。かなり冷え込んで、ブリッツは日が暮れてからついに小さな火を起こした。夜になったら流石に煙が流れても見えないだろうと判断したらしいが、それは正解だった。氷室に隣接しているせいで、洞窟内は奥から冷気が染み出してきたからだ。幸い粗朶そだはそこら中にある。ブリッツが試しに小さな火を起しても洞窟内には空気の流れがあるらしく、煙が充満することはなかったのだ。

 熱のせいで弱っているマンレイにはもちろん、マントを与えてしまったレーニエにとっても、火はありがたかった。

 多分今、明け前だ。

 そう判断したレーニエはそっと起き上った。体が痛く、服が煙臭いが何とか動ける。昨日の朝サリアが整えてくれた髪がすっかり乱れてしまっていた。

 レーニエは少し考えて緩く編んだ髪を解き、項の後ろできつく一つに結わえた。それからゆっくりと起き上がる。マンレイの様子をみる為に。

 そっと額に掌を当ててみる、自分が熱を出した時によくオリイやサリア、フェルでさえもこのようにしてくれたが、人に施したことのないレーニエには、彼の熱が高いのか低くなったのかよくわからなかった。

 ためしに自分の額に手を当ててみたが、自分の方が低いと感じたので、まだ少しは熱が残っているのかもしれない。

「おい。何をしている?」

 ブリッツの低い声がした。彼はマンレイよりも入口に近いところで蹲っていたが、ほとんど眠った様子はなかった。

「何もしない。この者の熱を見ていただけだ。少し下がったような気がするがまだ熱っぽい。氷がすっかり溶けてしまっているな……代りを取って来ようと思うが、構わないか?」

「……」

 ブリッツが返事をしないので、レーニエはそれを承諾と取って、静かに立ち上がった。額に置いた布はぐっしょりと濡れている。それをきつく絞って立ち上がった。

 ゆっくりと奥の扉をあけ、閉める。手前の氷は割らずに洞窟の奥に向かった。

 これは昨日から考えていた行動だった。

 昨日氷室に入った時に、レーニエは頬に微風を感じた。これは洞窟の奥のどこかに風穴がある証拠だった。どこかに抜け穴があるのだ。そして、そうと考えられる理由は、もう一つあった。

 レーニエ達がたどってきた古い壁の跡は昔、領主村を守る為のものであった。キダムから村の歴史を聞いた後、レーニエは自分でも調べてみたのだ。

 領主館の図書室には古い本や記録が沢山残っていた。レーニエが読んだ二百年前の領主村の史書には、まだエルファラン国に併合される前のノヴァゼムーリャ地方の様子が記されてあった。それはまだ地方の豪族が相争っている時代で、現在の領主村は、その中でも一番大きな荘園だった。

 記録にはその頃、この地を治めていた豪族が、万が一、敵に包囲された時のために、秘密裏に避難経路を作ったと記されていたのだ。

 記録は古く、地図は大まかだったが大体今レーニエがいるくらいの場所だったと記憶している。この洞窟がその避難経路だという可能性はある。

 時代が下り、ノヴァの地はエルファラン国に併合され、天領になった。そして軍が駐留しだし、村境の壁が不必要になって、要らなくなった抜け道は忘れ去られ、ただの洞窟として氷室に利用されるようになったのだろう。

 だとすれば、この奥に。

 もしかしたら。

 そこらの石を適当に投げて氷を割るふりをしながら積まれた氷の裏側に回り込むと、予想通りレーニエが腰をかがめてやっと通れるくらいの細い穴が見つかった。

 こうなればここを通るしかない。レーニエは迷わずに頭を低くして、その穴に飛び込んだ。

 抜け道は上り坂になっている。これは間違いないようだ。ここらはセヴェレの山々に続く丘陵地帯のはずだから。しかし、ブリッツに気付かれるのは時間の問題だろう。

 自分より大きな男たちだから、ここを通り抜けるのは難儀だろうが、いったん外に出てしまえばすぐに追いつかれて捕まってしまう。レーニエは出来るだけ身を小さくしながら、先を急いだ。

 無我夢中でしばらく進むと、来た方角からウォンウォンと男の声のようなものが響く。どうやら逃げたことがわかってしまったらしい。

 しかし、行く手に少しずつ光が見えるのに勇気を得、レーニエが思い切って駆け抜けると、いきなり体が明るい場所に倒れ込んだ。洞窟から出られたのだ。

 レーニエの思ったとおり、そこはセヴェレの森の端で、朝霧に木々が霞んで見える。知らない場所だ。ほっと息をついたが、休んでもいられない。村の方角は後ろだが隠れる場所がない。自分の体力では見つかったらすぐに追いつかれてしまう。

 レーニエは迷わず森の方角を選んで走った。

 走りながらレーニエは、上着を脱いでその辺りに放る。何かの目くらましか、軍の手がかりになるかもしれない、そう思って。

 いくらも行かない内に遠くに人影が見えた。おそらくきこりか、早朝の茸とりの男らしい。だが自分が助けを求めると、巻き込んでしまいそうで声はかけられなかった。しかし、男はこちらを見たような気がした。構わずにひたすら走る。

 しかし、どうやら見つかってしまったらしく、後ろから人の気配が近づいてきた。枝をぽきぽき踏みしめる音や、落ち葉をかきわける音が派手に聞こえてくる。

 ダメだ! 捕まるわけにはいかない!

 レーニエは喘いだ。

 父上! 神将と呼ばれていた父上、私にはあなたの血が流れているはず。どうか、私に力と勇気を……父上!

 レーニエは力の限りに地を蹴った。


 それより遡ること数刻前。深更。

 ファイザルは例えようもない焦燥感に身を焼かれていた。窓の外を眺めても、夜空は厚く曇っていて月もなく、眼を凝らしたところで何も見えぬ。しかし、彼は窓の前から動こうとはしなかった。

 レーニエと男たちの足取りはぷっつり途絶えていた。

 今のところ収穫と言えば、村内にも、南の街道にも、東西に広がる農地や荒野にも、彼らが逃れ出た形跡はないと言う事だけだった。それだけは確かだ。残るは村の北に連なるセヴェレの険しい山並みと、その麓に広がる森林丘陵地帯だけである。包囲網は確実に縮まっている。

 山にはおそらく逃げ込まない。ファイザルはそう考えていた。

 ジャヌーからは男たちは大して重装備ではなかったと聞いている。土地のものでもないのに、この季節に道なき山などに入るのは自殺行為だ。

 しかし、手前の森林地帯ならば、籔の茂っている窪地や洞穴などがあり、一晩程度ならなんとか過ごせるかもしれなかった。村長むらおさのキダムをはじめ、主だった村人には密かに事の次第を打ち明け、軍が知らない樵小屋や洞窟の情報をいくつかもらっている。ファイザルは、特別に訓練させた夜目のきく斥候部隊を放ち、その辺りをしらみつぶしに探しているが、暗く広大な森林を前に、未だに手がかりはもたらされていなかった。

 明日になればもっと完璧な包囲網が敷ける。しかし、今夜はもう、どうしようもないのか?

 ファイザルは血のにじむほど唇を噛んだ。隅に部下が控えていなければ、剣をひっ掴んで飛び出し、馬を駆っていたことだろう。その感覚はこの数時間、彼を酷くさいなんでいた。

 領主拉致の知らせを聞いてから、彼は食事はおろか水さえも摂っていなかった。心配した部下に何度か軽食を勧められたが、その都度苛立だしげに断った。狂おしい焦燥感に身を焼かれ、何も喉を通るはずもなく、時折激しい吐き気が胃を絞るのを懸命に堪えている。

 今は耐えるべき時なのだ。夜明けに備えて。

 しかし何故、土地勘もない奴らが俺の包囲を、こうも完璧に掻い潜れる?

 それはずっと湧き上がってくる疑問だった。

 日が暮れるまでに打てる手はすべて打ち、必要な人員も動員している。普通なら、とっくに捕えているか、少なくとも、なにがしかの手掛かりを得ているはずだった。

 そして、こういうことに関して、自分は決して無能ではないはずだ。しかし、何故かくも情報が得られないのか?

 まさか……?

 打ち消しても打ち消しても、浮かび上がってくる、ある可能性がある。そこには、たおやかな外見に似合わず、思いがけない発想と行動力を持っている不思議な娘の姿があった。

 レーニエ様が何か考えて動いておられる?

 キダムによると、領主はこの地方の歴史や遺跡に興味を持ち、熱心に話を聞いたと言う事だった。又、ジャヌーを共に馬で遠乗りにもよく出かけている。好奇心旺盛な彼女なら、色々なものを見て楽しんだことだろう。だからこの地方について全く知らない訳ではない。レーニエは聡明な娘だ。

 だが、相手は幼い子どもでさえ人質に取ろうと言う、情け無用の男たちだ。そんな彼らに世間知らずの姫君が何をできようものか。自分の身一つ守り切れまい。

 ファイザルは首を振った。

 しかし、もしレーニエが何かをしようとしているのなら、彼女はとりあえず命は無事だと言う事にはならないか? ファイザルは、そんな可能性にすがろうとする自分の弱さを嘲った。

 その時。

 カタリと音がして、斥候の一人が窓から顔をのぞかせた。ファイザルは我にかえって窓を開ける。ジャヌー達、控えている部下たちにも緊張が走った。

「ナタナエルか。なにかあったか?」

 窓外の黒衣に身を包んだ男に向かって、ファイザルは低く問いかけた。

「はい。ここから五千リベル(五キロ)程向こうの崖の下で、馬の嘶きが微かに聞こえたと言う者がおりました。その者は引き続きその辺りを探索中です」

「たった5千リベルだと? 馬の鳴き声が……」

 馬と言うのはレーニエの愛馬で、彼らが連れ去ったと言う、リアム号のことだろうか。

「はい、ただし一度だけでしたし、ただの農家の迷い馬かもしれませんが、可能性はあります。又、微かにですが煙の臭いがしたとも。奴らが火を焚くとは考えにくいのですが、もし病人がいるのなら、あるいは。ただ……その辺りは森も藪も深く、おまけに大小の洞窟があり、地形も入り組んでいてわかりにくいので難渋いたしております。こちらは松明しょうみょうをつける訳にもゆかず、今夜は月もで出ておりません。しかし、それならそれで余計に可能性があるかと」

「わかった。それはどのあたりだ? 入れ」

「は」

 ファイザルが開け放った窓から、音もなく黒い姿の斥候は部屋に入ってきた。

 それはこのような特殊な事態に備えて特殊な訓練を受けていて、ジャヌー達、一般の兵士ともあまり行動を共にしない部隊の者である。皆、黙って身を引いた。ファイザルは机の上に広げてある大きな地図を示す。

「このあたりのようです。正確には分からないのですが」

 そこはこれと言ったものが何にもない、村人も兵士も普段通らないところだった。

 ファイザルの持っている地図は、前任の指揮官が三年前に作った最新のもので、領主村内外の主要な場所や地形は緻密に網羅されているが、その辺りに限っては大体の地形と標高が記入してるだけで、あまり書き込みは見られなかった。警備上大して重要性がなかったためだろう。

 ファイザルも着任したての頃、その地図をもとに領主村をはじめ、ノヴァゼムーリャ地方を巡ったことがある。しかし、この地はだだっ広い割に何もない場所が多く、流石のファイザルもすべては巡り切れなかったのだ。そこはそんな場所の一つであった。

 ナタナエルが指した所にあるのは、古い時代の防御壁くらいで、それさえもほとんど原形をとどめていない。そんなものに何の価値もない。

 だがここだ。間違いない。

 ファイザルは確信を持ってレーニエの思考を辿れるような気がした。レーニエは彼がキダムや村人たちに聞き込みをすることを念頭に、自分の行動を決めたのだ。

 もっと早く気がついていれば。

 彼は脱走兵達の心情に立って考えてばかりいたのだ。だが、ノヴァゼムーリャの領主は型にはまった軍人たちの斜め上を行く。

 レナ! あなたと言う人は……!

 ファイザルはぐっと背を伸ばすと声を張った。瞳が剣呑に輝いている。

「行く! ナタナエル先頭に立て!」

「はっ!」

 外はまだ漆黒の闇。だが、東の雲が切れ始めている。長い夜が明けようとしていたのだ。


「よくも逃げやがったな、若造!」

 ブリッツが抜き身をひっさげてレーニエに迫ろうとしていた。朝靄はいつに間にか消え失せ、朝日に映える銀髪は格好の目印になる。

 レーニエは振り返る余裕などない。必死で落ち葉を舞いたたせて走る。方向も分からず走っている内に次第に木立がまばらになってきた。

 どうやら森の切れ目に出てしまったらしい。くるくると逃げまわるには、森の中の方が都合がいい。しかし、方向転換などできなかった。二人の差はそれほどまでに縮まっていたのだ。

「もう逃げられねぇぜ! ご領主様よう」

 レーニエが足を止めたのは、崖と言うにはやや傾斜がある丘の端だった。

 傾斜と言っても、駆け降りるには些か急勾配すぎる。しかも、木の根っこが地表に表れ、瘤のように波打っている。転がり落ちたら、死なぬまでも大けがをするだろう。高さはざっと十リベル(十メートル)と言うところか。

 レーニエは後ろを振り返った。ブリッツはすぐ向こうの木の下で笑っている。

「覚悟するんだな。なに、安心しな。まだ殺しゃしねぇ、ただ二度とこんなことをしでかさないように、痛い目を見てもらう」

 ブリッツは大股で向かってきた。

 迷っている暇はなかった。レーニエは思い切って斜面を腰から滑り降りた。三リベルほど下がったところに、人一人立てるほどに岩が突き出ている。そこをめがけて。

「おいっ!」

 まさか、弱々しい風貌の若造が、ここまで度胸があるとは考えなかったブリッツは、大慌てで駆けより、斜面を覗き込んだ。

「くそっ! よくもっ」

 ブリッツは、他に足場になりそうなところはないか見渡したが、木の根がうねるばかりで、彼のような大柄な男が下りていけそうなところは見当たらなかった。

「お前……絶対許さねぇ……根っこを伝って上がって来い! でなけりゃ俺から下りて行くぞ! そんときゃ、殺されるときだと思え!」

 ブリッツが恐ろしい形相で叫ぶ。レーニエは困り果てて彼を見上げた。

「去年の今頃ならこの命、くれてやるにやぶさかではなかった」

「そうかい! ならすぐにお望み通りにしてやるぜ」

「だが、済まないが、今はできない。私は捕まるわけにはいかないんだ。私が死ぬとある人が困るかもしれない……罪は問わぬ、そなた達も早く逃げるといい」

「うるせぇ! 早く上がって来い! でないとこっちから行くぞ!」

 ブリッツはレーニエの決心が堅いと見たか、今度は自らが斜面を下りようとして、浮き出た太い根を掴んだ。そのままじりじりと根っこを辿りながら、レーニエの立っている岩の付近まで下りてくる。

「へへ……覚悟しやがれ……」

 次はここから滑り降りるしかない、レーニエがそう覚悟を決めた時。

「レナ! どこだ!」

 いましがた逃げて来た方角から、切羽詰まったファイザルの声がとどいた。

「ヨシュア……? ヨシュアか! 私はここだ!」

 声の限りにレーニエは叫んだ。




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