第37話36.領主の恋 12

「……」

 ファイザルはあまりの事に言葉が出ない。腕の中にすっぽりと収まった娘は可愛らしいあごを彼の裸の胸にくっつけたまま視線を泳がせている。

 一体この子は何を言おうとしているのか……訳が分からない。困った。これは真剣に受け止めず、何かの冗談にしてしまった方がいい、即座にそう決める。

「は? 何を言っているんです? 俺なんかいつでも会えるではありませんか。一生一度の願いに、そんなことを願われたのですか」

 ファイザルは本気で呆れた振りをしてみせた。

「うん」

 肌が触れあったまま、こくんと頭が下がる。

「……そう願った」

 レーニエは彼を見上げて真剣にそう言った。ファイザルの心の奥がざわつく。もしこんな状況でなくて、体の弱い領主を温めると言う至上義務がなければ、彼はレーニエを突き離し、後ずさっていたかもしれない。

「あなたは……あなたは、ご自分が何を言っておられるか、わかっておられますか?」

「勿論わかっているとも」

「……何故そんなことを」

「わからない……だけど会いたかった。とても」

「そんなことを言うと、あなたが俺を好いてくれているのかと、都合よく誤解してしまいますよ」

 わざと軽くかわす。笑いさえ声に滲ませて。

 大丈夫、まだ修正がきくはずだ。

「好き? ああ……そうか……サリアが言ってたのは」

 レーニエは小首を傾げてしばらく考えていたが、やがて合点が言ったかのように頷いた。

「すまない。あまり表現がうまくなくて……でも、きっとそうだ。私はあなたが好きなんだ……とても好き。これが会いたかった理由……」

 ファイザルは自分の体が熱くなるのを感じた。これはいったいどうしたことだ……とにかくここを何とかやり過ごさなければ。大人の男として無難に、冷静に。

「これはまたえらく淡白な愛の告白ですね」

 内心の動揺を見事に押し隠してファイザルはおどけた。それ以外にどうすればいいというのだ。

「愛のこく……?」

「告白、ではないのですか?」

「……そうだと思う」

 大真面目にレーニエは応じた。

「へぇ。それで私の事は、情人にでもしていただけるのですか? 光栄ですが」

 レーニエがどういうつもりで「好き」などと口にしたのかはわからないが、取りあえず大人っぽい冗談で終わらせてしまおう、そう決めたファイザルは軽く笑った。

「情人?」

「私を好いてくださっているのでしょう? だけど、あなたのご身分と私では違いすぎますからね。どうしてもと言うなら情人にでもするしかないでしょう」

「……だけど、よく知らないが、そう言うのは合意の上でなるものではないの? 今のところ私だけがあなたを好きなのだから……それは成り立たない」

「……」

 再びファイザルは、腹の底から絞るような溜息を吐いた。

 何というお姫様だ。

「もし、あなたの言うとおりだったとしたら、この世に愛憎の醜い争いは起きないはずなんですが」

「私はあなたの意を汲まずに情人などにするつもりはない。第一、その言葉の響きがなんだか嫌いだ」

 不愉快そうにレーニエは眉間と鼻の頭に|皺(しわ)を寄せた。美しいくせにそう言う事を平気でする。こういうところはまだ子供なのだ。

「まぁ、どっちにしてもそう言う事は軽々しく口にしてはいけません。俺もいけないことを申しました。もうこの話はやめましょう。そろそろ体も温まってきたでしょう? 戻らないと」

「……あなたのような大人が、私の事など気にも留めないことくらい、分かっていたけれど……」

 彼の言葉を聞いて、瞳に哀しそうな色を浮かべ、レーニエは小さく呟いた。

「改めてあなたの口から聞くと胸が痛むようだ……まぁ、私が何を思ったとしても、あなたが気にすることはないけれども」

「……随分ものわかりがいいのですね」

 ことさら冷淡に聞こえるようにファイザルは言った。話はこれで終わったものを、この娘が諦観ていかんめいたことを言う度に訳のわからない怒りを感じる。

「ものわかりいい? さぁ、よくわからない。だけど、初めから欲しなければ、失うものもない」

 珍しくレーニエはそう断言した。

「……それは?」

「望んで叶えられなかったり、手に入れて失ったりしたら、今よりもっと悲しくなる。ささやかな願いだったが、女神は私の願いをかなえてくれた。だから、もういい……」

「……」

 ファイザルは自分が非常に混乱していることを意識した。

「ヨシュア? 怒ってしまった? すまない。私のようなものがこんなことを言うのはさぞ不愉快だったろう……もう言わない」

 レーニエはうつむく。それは自分の想いの行方より、彼が怒っている方が心配であるかのようにファイザルには思えた。この娘はいつも自分のことは後回しにしようとする。

『初めから欲しなければ、失うものもない』

 それは、まさしく彼の考えと一致していた。

 なのにさっきから無性に腹が立っている。レーニエがそう思っているなら彼にとって都合がいい筈なのだから、それは理不尽で複雑な感情だった。華奢な肩を掴む手に力が入る。レーニエが相変わらず自己否定していることも、初めから何も望もうとしないことにも怒りを覚えた。

 いったいなんだと言うんだ!

 だが、一方ではこれ以上ないくらいに明白だ。世間知らずの深窓の姫君が、初めて会った類の男の毒に当てられ、一時的にのぼせているだけのこと。その内、熱も冷める。そして、もっとふさわしい身分の男がどこかやんごとないところから彼女にあてがわれるに違いなかった。

 このような方が、こんな辺境で埋もれていいはずはない。

 自分の考えがそこまで至った時、更に訳のわからない怒りが胸の奥から湧き上がる。

 俺は一体なにがしたいのだか。

 ファイザルは馬鹿げた感情を氷の刃で押し込めた。

「ヨシュ……」

 自分を見下ろす冷たい顔をレーニエは正視できなかった。

 この方がそう思っているならば、自分にとってもその方がいい。彼女が望んだとして、自分は何も返せない。

 生まれも知れないただの平民出の軍人が、いくら大切に想っていても、高貴な血を濃く受け継ぐ彼女の気持ちに応じてやれるとでも?

 だからこの話はこれで終わりだ。物分かりのいい大人の振りで、この人を優しく抱きしめ、今まで通り頼りになる男を演じ続ければいい。これ以上近づくは明らかに危険だ。俺にとっても。

 そうだ、俺にとっても――。

 何のために、わざわざ自ら北の砦に出向いたのか? 吸い込まれそうに見開かれた紅玉の瞳から逃れるためではなかったか? 本当は自分の方が、あなたを欲していると告げそうになる感情を押しこめるために、冷たい海風に我が身を晒しに行ったのではなかったか……?

「ヨシュア……怒らないで……怒らないで……もう言わないから……」

 険しい沈黙を続けるファイザルに赤い瞳が懇願した。その瞳を受け止めた時、ファイザルの心でで何かが暴れだす。

「あなたは何もわかっておられない」

「……え?」

「あなたは俺がどういう人間か知らないでしょう?」

「……」

「私のすべてを知っておれば、俺を好きだなんてとても言えませんよ。教えてさしあげましょう。そうだ、そうすればいいのだ」

「……ヨシュア?」

「あなたはご自分のことをいつもおとしめておいでだが、俺から見ればあなたは神にも等しい存在だ。美しく、純粋で、愛らしい。ご存知ですか? 俺はこの手で何千人もの人間を、死に追いやった男なんですよ。直接手にかけた数だけでも、既に数えきれません。世にも恐ろしい男なのですよ、私は」

「……」

「子どものころから戦場から戦場を転々とし、生きるためには何でもして来ました。言ったでしょう、生き延びるために軍に入ったのだと。そして軍は、生きるために合理的に人を殺すことを教えてくれた。俺が手にかけた者、作戦で犠牲になった者たちの中には女子供、老人もたくさんいたのです。人を殺しつくし、町を焼きつくした。いつしか俺にはたくさんの二つ名ができた。掃討のセス、血濡れの戦士、ウルフェイン平原の悪魔」

「でも、それは任務だからで……」

「任務でもです。確実に遂行するので上からは重宝がられましたよ。殺し尽くし、破壊し尽くし、友と呼んだ男まで裏切って……大勢の人間が俺故に死んでいく中で、何故自分だけが正気でいられるのか不思議だった……いつのまにか大佐になっていたが、そこでもう限界だった」

「俺は願い出ました。しばらく戦地から離してほしいとね。そしてこの地にやってきた」

「……」

「わかったでしょう? 本来ならこうしてあなたに触れることなど、夢にも見てはいけない人間なのです。恐ろしいでしょう? あなたを抱いているこの手は血ぬられ、罪にけがれているのですよ」

 レーニエは自分を抱きしめるたくましい腕を見た。

「罪ならば、私も生まれながらに背負っている」

「それは違います。あなたの出生がどんなものであれ、それはあなたの罪ではない。私は自分でどのような結果になるかも知りつくした上で、作戦を立て、剣をふるったのだ。 知っていますか? 人間のどの部分を斬れば、あっけなく死んでしまうかを」

 ファイザルの指はレーニエの喉をなぞる。その白い細い喉は剣を使わずとも、少し力をこめて握れば簡単に折れてしまうだろう。

「ここを斬れば、血が高く噴き上がる。次に控える敵がそれを見て怯んだところに踏み込んで剣を|薙(な)ぐ。 血だらけの悪鬼のような私を見て、敵はおろか、味方の兵までも後退ったものです。そうして私はたおした敵の剣を奪い、殺し尽くしながら先へ進んできたのです」

 凄惨せいさんな笑いが薄い唇に浮かんだ。

「どうです。驚かれたでしょう? 実直だと村人たちに思われているセヴェレ砦の指揮官は、実はこのような男だったのです」

「そんな……恐ろしいことを言えば、私があなたを怖がると思っている?」

「少なくとも人殺しだと認識できたでしょう。こんな男を想うのは大いなる誤りだ」

「……」

 紅玉の瞳が哀しそうな色を浮かべて揺れた。微かにかぶりが振られたのだ。

「まだわかりませんか? では、これならどうです」

 言うなりファイザルは、暖まりはじめた草の上にレーニエをゆっくり押し倒した。

「あ……」

 大きく開かれた目、白い肩、半開きの唇。何もかも彼の夢の通り。彼のシャツの襟から覗く首筋に唇をわせるとびくりと肩がすくむのがわかった。

「さぁ……抵抗してごらんなさい」

 大きな掌で胸を包む。それは確かな質量と柔らかさを彼に伝えた。ゆっくりと指先に力を込める。

「あ……」

 ファイザルは、自分の重みでレーニエを潰してしまわないように気をつけながらも、その体が自分の愛撫でぴくりと反応したのを逃さなかった。

 もちろん、この行為は彼女を驚かせ、自分に距離を置かせるためのものであったが、少女が無意識に見せた女としての反応に、汚れた満足を感じてしまった事に内心ぞっとしながら、顔を上げた。怯えたような赤い瞳に自分が映っているのをみて、猛烈な自己嫌悪が込み上げる。

「ふ……わかったでしょう? 愛などなくとも、男はこういうことができるのです。今まで数多くの女にしてきたように。あなたでさえ平気で穢せる……こんな男を無暗に信じない方がいい」

 レーニエの瞳を見つめたまま、彼は苦々しく呟いた。彼の手は胸から腰をなぞり、半ば露わになっている白い腿へと這ってゆく。

「このままあなたを無理やり抱きましょうか? それでも俺のことが好きだなどと言えますか?」

「……」

 赤く色づいた唇が戦慄おののいているのを見て、苦い笑いを浮かべると、ファイザルはさっと身を起こした。そのまま立ち上がり、置き去りにしていたレーニエのマントを取りに行く。

 振り返ると、既にレーニエは草の上に片手をついて起き上がり、もう片方の手でシャツの胸もとを握りしめて彼を見上げていた。

 半ば露わになった素足が美しい角度で折り曲げられているのを、ことさら見ないようにしてファイザルは膝まづいた。これでこの人も思い知っただろう。自分がどんなに汚らわしい人間なのかを。

 嫌われていい。その方が自分にふさわしい。

「申し訳ありません。嫌な思いをさせましたね。でもすべて本当のことです。あなたと私の運命は決して交わることはない。交わってはいけない」

 レーニエが動こうとしないので、立たせてやろうとファイザルはその手首を取った。

「もう戻ります。今頃は大変な騒ぎになっているでしょう。さぁ、これを着て」

 ばさりとマントを被せる。

「立てませんか? さぞ恐ろしかったのでしょう。俺みたいなならず者があなたの……」

 不意にふわりと柔らかいものが彼の口をふさいだ。レーニエが手首をいましめられたまま、唇で彼に触れていた。肩にかけたマントがぱさりと草の上に落ちる。

「もう言わなくていい……辛いことをさせて済まない……私の気持などあなたには迷惑なだけなのに」

「!」

「自分を貶めないで……あなたも私にそう言った」

 ファイザルは驚きで口がきけない。

 この娘は今何をした? 自分から俺に……? 

「そんな風に自分を悪者にしないで……あなたの言いたいことはよくわかったから……あなたは何も悪くない」

「俺のしてきたことは紛れもなく大罪だ。あなたが俺を好いてくださることも」

「だから私を遠ざけようとしたのだろう?」

「それは……だが」

「そう。でも……やはり私はあなたが好きだ。あ……愛している。我儘で申し訳ないが……」

「……」

「でも……あなたを苦しめるのならもう言わない。もともと何も望んではいない……ごめんなさい」

 透きとおった赤い瞳に涙が盛り上がり、長い睫毛にさえ留められなくなって頬を滑り降りてゆくのを、ファイザルは細い手首をつかんだまま、息をのんで見つめていた。

「あ……泣くつもりでは……どうも感情がうまく制御でき……なっ……」

 これ以上無様な姿を見られたくなくて、レーニエは身を捩ろうとしたが、逆に激しく引き戻される。

「……っ! だ、大……丈夫。少したてば平気になる……何事もなかったように振るまえる」

 ファイザルは、顔を見られまいと首を反らす顎を捉え、無理やり自分の方を向かせた。しかし、レーニエはかたくなに視線を合わせようとはせず顔を背ける。透明な滴が斜めに頬を伝わり、顎からぽとりと落ちた

「……それじゃ子どもでもだませない」

 レーニエの耳の近くで低く抑えた呟きが漏れた。

「畜生……っ」

 軽い体が宙に浮くほどきつく抱きしめられる。ファイザルの頭の中で警鐘が鳴り響いていたが、今はどうしようもなかった。

 なんてこった、なんて……畜生! 畜生っ!

 頭の中には馬鹿のように、その言葉だけしかでてこなかった。


 誰も愛さないと決めたのに……根こそぎ持って行かれちまった……心を、このお姫様に!




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