第36話35.領主の恋 11

 そろそろ空気が必要だ。

 レーニエは勢いをつけて体を伸ばす。自分のしたことに大変満足し、水底を蹴ると大きく水を掻いて、えいと伸びあがる。期待通りの浮上の感覚。顔に風が当たる。のびやかな気分で水面に浮きあがり、弾みをつけて背筋を伸ばした。

 髪から放たれた水滴が四方に散り、薄青く輝き始めた朝の空にきらきらと舞ってゆくのが、不思議にゆっくりとした速度で感じられた。自分が風に溶けこんで、全てから解き放たれたような心地に満たされる。

 レーニエは両腕を空に翳して目を閉じた。

 ああ、きもちがいい!

 だが、突然腕がものすごい勢いで後ろに引かれる。

「!?」

 頭が何か分厚いものにぶつかり、激しく水しぶきが上がった。太くて長いものががっしりと胸に巻きついて、呼吸すらままならない。

「レーニエ!」

 驚愕に満ちた、しかし聞きなれた声。それに恐慌に陥りかけていた頭が急速に|鎮しず)まっていく。

 ああ、これは……。

「レーニエ! 馬鹿な事をっ! なぜ……こんなっ……!」

「ヨ……」

「こんなことをっ!」

 レーニエは何とか顔をあげて、自分を拘束するものを見上げようとした。

 しかし、腕に抱え込まれて顔が上がらない。厚い胸は大きく呼吸を乱して波打っている。あまりに強く押しつけられているので、どくどくと鼓動を打つ心臓の音さえ聞こえるような気がした。

「……む」

 レーニエは本気で苦しくなってきた。体に回された両腕は一向に緩む気配がなく全力で彼女を締め付ける。視界は完全に遮られて顔を横にすることもできない。覆いかぶさってくる大きな体の重力もあり、気が遠くなりそうだった。

「ヨシュ……くるし……」

 その声に我を取り戻し、ファイザルはやっと体を離した。とたんに今まで抱いていた体が、力なく後ろにくたりと倒れ込みそうになるのを慌てて支える。きらきら光る水面に銀色の髪が絹糸のように流れた。

「レーニエ様!」

「ああ……驚いた……何かと思った」

 首元まで水に浸かりながらレーニエは、ようやく焦点があったかのように、ファイザルを見た。彼もすでにずぶ濡れだったが、身長のおかげで胸から上は水に浸かってはいない。

「え? 俺はてっきり……いや、とにかく話は後です。先ず水から出なければ」

 赤ん坊にするように両手で彼女を高く抱き上げたが、いかんせん水深があって、レーニエの体を水から全て出しきるが事できない。早く上げなくては体が冷え切ってしまう。ファイザルは大股で岸に向かって歩き出した。

 初夏とはいえ、山の空気は冷たい。ましてや早朝だ。あるかなきかの微風しか吹いてないが、水から出たらすぐに体温が奪われてしまうだろう。城に戻ろうにも馬で急いでもしばらくかかる。病み上がりのレーニエをこのままにしておくわけにはいかなかった。

 ファイザルはあたりを見回し、平らな大きな石が幾つも重なっている場所を見つけた。一度レーニエを下ろすと急いでハーレイ号のくつわを取って帰ってきた。ついでに木の枝に引っ掛けたままのレーニエの上着も回収する。

「あの……ヨシュア?」

 おずおずとレーニエが問いかけるのにも、じろりと冷たい視線が一瞬落ちてくるだけで、彼は何も答えない。形の良い唇が一文字に引き結ばれていた。

「さぁ、こちらで服を脱いでください」

 日当りのいい石の上にレーニエを立たせてファイザルは怖い顔で命じた。

「服を? ここで?」

「四の五の言っている場合ではありません。ほら! 既に震えがきています。私は馬のこちら側にいますから早く脱いで!」

「……」

 彼にしては珍しい剣幕にレーニエは何も言わずに従う。

「脱いだら、そら、これで体と髪を拭いて! それからこれを着て!」

 それは命じることに慣れた男の口調で。レーニエが冷たくなった手で、もたもたと濡れたシャツを脱いでいると、馬の背に何かがふわりと置かれた。それは乾いた木綿の布と、ファイザルのシャツだった。

「俺の着替えです。新しいものですから遠慮なくどうぞ」

 どうやら、馬具につけた荷袋から、自分の私物をよこしたらしい。

 慣れない作業に苦労しながらも、レーニエはなんとか濡れて肌に吸いつく服を脱ぎ落とした。それから目の粗い布で体と髪をごしごし拭くと、素肌の上に彼のシャツをはおった。それはかなり大きくて、太ももが半分以上隠れてしまうし、指を伸ばしても手が出ない。

「……できた」

 レーニエがハーレイの首の下からひょっこり顔を出すと、ファイザルも下衣の着替えを終えたところだった。

 シャツの着替えはレーニエに渡してしまった分で終わりだったらしく、上半身はむき出しになっていて、胸にも、背中にも、腕にも大小の傷跡が無数に走っているのが見える。足もとに彼が脱ぎ捨てた衣類が丸められていた。

「あっちを向いて」

「……?」

 彼の傷を見ていたレーニエが訳がわからないまま回れ右をすると、ファイザルはレーニエから受け取った布で髪を丁寧に拭き始めた。櫛も何もないので、長い髪はくしゃくしゃになってしまったが、彼は自分の手ぐしで、腿まで伸びたレーニエの髪を軽く整える。それが終わると再び彼女を向き直らせた。いささか乱暴に。

「あの……?」

 険しくゆがんだ眉。彼女を見下ろす厳しい青い目。引き結ばれた口角。何もかもが彼の怒りを表しているようだった。レーニエがとても正視できずに目を逸らした途端――

「わ……!」

 再び抱き上げられ、森に近い岩場に運ばれる。広い胸が頬に触れそうなほどに近い。自分の素足がゆらゆら揺れるのを、レーニエは不思議な気持ちで見つめていた。

「すっかり冷えてしまっている。病み上がりなのに!」

 具合よく傾斜した岩が背もたれのように、突き出している草地にファイザルは、レーニエを抱いたまま腰を下ろした。

 彼は華奢な体を自分の足の間に落ち着かせると、そのまますっぽりと自分の身体で彼女を包み込んでしまう。高めの体温がシャツを通して伝わってきた。彼に抱かれて体を温められたことは以前にもあった。吹雪の後の夜。

「……」

 レーニエは黙って彼を見つめた。彼女を抱いている大人の男は、いつも自然に後ろに流している鉄色の髪が濡れたおかげで額に落ちかかり、普段よりよほど若く見えた。男らしい眉が隠れている。いつもと違うその様子を少女はうっとりと眺めた。

「……」

 視線を感じてファイザルは、レーニエが自分の無礼な振る舞いを咎めているのだと誤解したようだった。

「お嫌でしょうけど我慢なさい。まずは体を温めることが先決です」

 そこは朝日がよく当たる場所で、夜の間に草に宿った露もすでに乾いている。二人は真横から朝日を浴びていた。

「……嫌じゃない」

 腕の中で大人しくなった娘が、耳まで朱に染めて呟くのに敢えて気づかない振りをする。下手に聞き返すと、とんでもない事を彼女は言いだしそうな気がしたからだ。

 この娘はさっき自分がどんなに無防備な姿だったか、ちっともわかっていないのだろうか?

 びしょ濡れのシャツが素肌に貼りつき、肌や体の線が透けて、こんなに怒っているのでなければ、まじまじと見つめてしまいそうになった危険な男がすぐそばにいるのに。

 北の砦で過ごした間中、なんどもレーニエの事が夢の中に出てきた。白い肩も露わに、燃えるような赤い瞳で自分を見上げてくる美しい娘が。

 彼に組み敷かれてけ反る喉を味わい、白い肌に幾つもの跡をつける。繊細な体が彼の愛撫に応じて昂ぶってゆくのを満足げに眺め下ろし、そして――

「暖かい……」

 小さな声でファイザルは我にかえった。レーニエは安心しきったように頬を彼の胸に寄せている。

「……」

 一番信用してはいけない人間にすっかり体をゆだねきっている娘をファイザルは見つめた。自分がどんなに危うい状況に置かれているか又く気づいていない。

「傷が……」

 しかし、ファイザルの心中などお構いなしに、レーニエは自分の間近にある胸に走る大きな傷をしげしげと見ていた。

「ああ……お見苦しくてすみません」

 こんなに腹立たしいのに、うっかりファイザルは応えてしまう。

「痛い?」

 細い指先が古い傷跡をなぞる。傷跡を見るのは初めてで珍しいのか、その行為が男にとって甘い刺激になるとは全く思わないらしく、醜い瘢痕はんこんを何度も細い指が往復した。

「いえ、どれも古いものなので。背中にはもっと大きな傷もありますが」

 黙っていると、ますますおかしな気分になりそうな彼は、無理に何でもないように受け流す。

「ここは?」

 レーニエは少し視線を上にあげた。肩に大きなあざがある。既にかなり薄くなっているが比較的新しいもののようだった。

「ああ、これは。ついこの間訓練をしていた時にジャヌーの剣を受けそこなったもので……油断でした。これが戦場だったら、腕がもげていましたね」

「ジャヌーが?」

 驚いてレーニエが声を上げた。あの優しい青年がこのような傷を上官につけるものだろうか?

「ええ、奴は非常に膂力りょりょくがあって、素早いくせに重い剣をつかう。訓練用の刃をつぶした剣だし、防具をつけていたのに、二日は肩が上がりませんでした」

「あなたは……負けたの?」

「いいえ。俺は両利きなので、倒れるふりをして剣を持ちかえた手で、奴の足を掃ったんで、俺の勝ちです。実戦ならばわかりませんが」

「……」

「訓練の話など、お聞き苦しいでしょう?」

「いや……私にも傷の一つぐらいあればよかったのに」

 うらやましそうにレーニエは言った。

「何をおっしゃいますか。その白い肌には似合いません」

 傷を負う痛みも知らないくせに。

 ファイザルはそう思いかけ、自分の傷を興味深そうに見つめるレーニエをみた。

 ちがう。この人は既に傷だらけなのだ。心の中で常に血を流している。一体何を思ってこの湖にやってきたのか……。

 彼はさっきの恐慌が蘇り、内心ぞっとすくむのを封じ込めて厳しく言い放った。

「そのような事を言うものではありません」

 後はしばらくお互い口をきかない。

 彼女が分かるのは、彼がどういう訳かひどく怒っていることと、自分の頬が押しつけられた胸から感じるファイザルの熱い体温と心臓の鼓動だけで。

 トクトクトク

 とても安心できる音。意識を保とうと努力はしてみたが、規則正しい心音を聞いている内にゆっくりと|瞼(まぶた)が落ちてくる。

「……です?」

「ん?」

 眠りの入口に立った瞬間引き戻されたレーニエは、問いの意味も解さぬまま、適当な返事をした。とたんに強く体をゆすられる。

「何故、こんな時間にあんなことをされていたのかと聞いたんです。訳を話してもらいましょうか」

「……」

 厳しい低い声。眠るなんて許さないとばかりに、体に回された腕に力が込められる。先ほどの様に苦しくはないものの、レーニエは身動きすることすらかなわなくなった。

「それは……この間の夜、ジャヌーが話してくれたんだ……」

「ジャヌー? あいつが何を?」

 レーニエはおずおずと言い伝えの話をした。ファイザルは黙って聞いている。

 やがてレーニエを押しつけている胸が大きく膨らみ、彼が大きく息を吸い込んだのがわかった。しばらくして、震えるような吐息が前髪に漏れてくる。

「……どうしてそんなくだらない言い伝えを信じ込まれたのです」

 長い溜息の後、静かにファイザルは腕の中の娘に尋ねた。

「先日やっと病が癒えたばかりの身で、供もつけず……今頃きっと大騒ぎです。皆が又、心配するとは思わなかったのですか?」

「それは……でも、くだらなくなんてない」

 子どもをあやすような言い方にレーニエは、思わず頭を上げて抗議しようとしたが、苦もなく再び胸に押さえつけられてしまう。

「くだらないですとも。おかげで二人ともびしょ濡れだ」

「済まない。でも、くだらなくない。言い伝えは本当だった」

 押さえつけられたまま、レーニエにしては珍しく口答えをした。

「はぁ……一体何を願われたのです」

「それは……まぁ……だけど、あなたは何故こんなところに突然現れたの?」

 問われたことを無視してレーニエは逆に聞いた。

「突然ではありませんよ。あの時数日で戻ると言い置いたでしょう?

 昨夜はいつもの場所で野営をし、今朝、日が昇る前に出立して湖の横を通りかかったら、霧の切れ間にあなたが溺れそうになっているのが見えて……胆が冷えました」

 我知らずファイザルは腕に力を込めた。脳裏に先ほどの光景が鮮やかに蘇る。


 朝の山道が好きだった。立ち込めていた朝靄が陽が昇ると同時に消えていき、太陽がどんどん昇る。馬は濡れた草を踏みしめながら進んでゆく。

 今朝もすがすがしい空気を胸一杯に吸い込みながら、山陰から湖に射すその日一番の陽を見ようと馬を下りた時、密やかな水音と共に女神が現れたのだった。

 反らされた白い喉。雫をまつわりつかせながら銀色の髪が舞い、空に向かって細い腕が伸びる。おりしも朝日が強まり、水面が一斉に光を放った。

「なっ……!」

 あれは――なんだ!

 味方にも恐れられた血濡れの戦士が|瞠目(どうもく)した。

 ファイザルとてもこの地の女神伝説くらいは耳にしていた。しかしそれは|些(いささ)かも彼の興味を引かず、頭の片隅に追いやられ、たった今まで思い出しもしなかったのに。

 しかし、美しい幻視げんしの瞬間が過ぎ去った時、その影が彼のよく知るある人物の形をとり、夢は心臓を凍りつかせる恐ろしい現実にとって代わった。

 レーニエ様!

 当然の如くファイザルは最悪の結論に達する。

 すなわち、レーニエは湖に死を求めたのだ。

 彼女が語った驚くべき出生の秘密の記憶もまだ脳裏に生々しい。彼に真実を語ったのは、自ら命を絶つための布石ふせきだったのか。

 万分の一瞬の間にファイザルはそのことを思い、思ったと同時に足が動いていた。愛しい体を抱きしめるまで生きた心地がしなかった。

 なのに――

 腕の中の佳人は自分のそんな切なる想いに気づかないばかりか、けろりとしてくだらない言い伝えを確かめたかっただけとおっしゃる。

 この方は……

 思い返すといっそう腹立たしさが募った。

 そもそもなんで一般の士官で務まるところを、指揮官たる自分が自ら北の砦に出向いたか……この無垢な誘惑から一目散に逃亡したい一心だったと言うのに、戻って来た途端、この体たらくだ。

 何のために俺は泡食って逃げだしたんだ!

「ヨ……シュア……い……きが詰まる……腕を……」

 気がつくとまたもや力いっぱい小さな頭を自分の胸に押しつけていた。

「許しませんよ。これは罰です」

「も……う、二度としないから」

 泣きそうになりながらレーニエは呟いた。とっくに体の震えは収まり、冷えて青白かった頬には色が戻っている。何より唇が赤く色づいて半開きになっている。

 その様は、この少女が既に大人の第一歩を踏み出していることを、如実に彼に示していた。

 無意識の媚態びたい

「はぁ……」

 腕を緩められて娘はやっと吐息を漏らした。

 ファイザルは絶句した。その沈黙を、まだ怒っていると思ったレーニエは、けぶる睫毛の下から伺うように彼を見上げた。

「ヨシュア……まだ怒っている?」

「無論です」

「……ごめんなさい」

「……許してほしいですか?」

 こくんと顎が下がる。大きすぎるシャツの襟元から、白い胸が見えた。ファイザルは自分がうっすらと汗をかいていることを自覚する。

「では、あなたが何を女神に願ったのか教えてくださいますか」

「それは……」

「構わないでしょう? もう、叶えられた願いなら」

 正直言ってファイザルは深く考えて問うた疑問ではなかった。この凶悪と言っていいほどの媚態に対抗するには、何か他のことを話題にして気を逸らした方がいい。

「言えないのですか?」

 口の端をにやりと上げて笑って見せ、ファイザルは再び優位に立った。レーニエの眼尻が困ったようにさがり、美しい眉間に影がさす。

「私は……」

「ええ」

 ファイザルはちゃんと聞いてやろうと体制を整えた。

 レーニエは軽く顎を彼の胸につけ、言葉を選んでいる。

「私は……」

 ついにレーニエは意を決したかのように唇を開いた。

「私は……あなたに会いたいと願ったのだ」

 頬を染め、口ごもりながらもレーニエはそう言った。




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