第35話34.領主の恋 10

「女神の伝説?」

 夕食後のお茶を飲んでいるときに、ジャヌーが語ったこの地の伝説にレーニエは強く興味を引かれた。

「ええ、新月の夜が明けた朝一番に湖に沈められた女神像を見つけられたら、願いが叶うそうですよ」

「あの湖に女神像が沈められているの?」

 フェルディナンドが意外そうに聞いた。

「あの湖には何度も行ったけれど、そんなもの見えなかったけど」

 フェルディナンドは既にこのあたりの地形を熟知している。いつか北の砦に連れて行ってくれとジャヌーに頼んだりしていた。

「いや~それがね、男には見えないそうだよ。何でも純潔の乙女にしか見えないそうで……」

 にやにやしながらジャヌーはフェルに説明した。

「なんだ、下らない。そんな訳あるはずないじゃないか。どうせ石でできた像なんだろう? 誰にだって見えるはずだよ。実際にあるものならね」

「だから、伝説なんでしょう? いいなぁ。私行ってみようかな? フェル、次の新月はいつだっけ?」

 すっかりロマンチックな気分に浸っていたサリアがうっとりと呟く。

「姉さんが行って何をお願いするんだよ。たいていの願い事は強引に叶えてしまうじゃないか」

「失礼ね! 私だって乙女だわ。叶わない願いの一つや二つ……ねぇ、レーニエ様?」

「ん? あ、ああ」

 突然意味ありげに話題を振られて、レーニエは答えに窮した。

「私なら素敵なだんな様が見つかりますようにって言うかな? それとも、もっときれいになるようにかな?」

「サリアさんは今でも十分おきれいですよ」

 如才じょさいなくジャヌーが応じる。

「でも、私泳げない。女神さまを探している内に溺れてしまうかも」

 ジャヌーのお世辞にまんざらでもないように、頬を染めてサリアは言った。

「湖はそれほど深くはないはずです。女神像はともかく、透明度はすごく高くて泳ぐのには適していますね。俺は何度も試しましたが」

「それって、女神さまにすごく失礼なんじゃ……」

 サリアが呆れたように詰る。

「あ、そうかも。俺、裸で泳いだし。だけど、水が気持ちがいいんですよ。湧水なんでそれほど冷たくないし……あ、一回足がったかな?」

「それは女神さまに追い出されたんだよ。よく罰が当たって溺れなかったな」

 ジャヌーの大らかさに、フェルまでもが呆れている。サリアは想像してしまったのか盛大に吹き出した。

「だけども、そんな伝説がある素敵な湖を、軍の管理下に置くなんて無粋だわぁ」

「同感ですが、あの湖は街道沿いにあって、夏はいろんな人間が通る可能性もあるから、娘たちが朝早くに一人で出かけるなんて実は良くないのですよ」

「一人じゃなかったらいいじゃない。皆で行けば」

「ところが、女神さまはけちんぼで、たった一人の願いしか叶えてくれないそうですよ。しかも願い事を人に言ってしまってはだめで……だけどご利益はあるそうで、大抵の村娘はこの話を知っているはずです。今でもこっそり強行するツワモノの娘もいるらしく」

「まぁ、それじゃあ私もう駄目だわ。今願い事を言っちゃってしまった」

「あはは。軽はずみだなあ」

「じゃあ、ジャヌーが責任とってよ」

「え!? 俺っすか? って、責任ってなんの?」

「……」

 レーニエは黙って皆の会話を聞いていた。部屋に帰ったらこっそり暦をみようと、そう思って。


 それから四日後、まだ夜が明け染めぬ内にこっそりとレーニエは城を抜け出した。ホールを横切ると兵士に見つかってしまう。馬も使わない。いなないて警備している兵に気がつかれたら、せっかくの計画が駄目になるので。

 山城には抜け道がある。これは以前砦として使われていた頃の名残で、今は勿論使われていないが、勿論ジャヌーは知っていて、ここに来た時に案内してもらったのだ。その抜け口は外からは判別がつかないほど巧妙に隠されている。この城は城壁も堀もないので、いったん出てしまえば外に出るのは容易かった。

 兵たちも外からの侵入者には気を配っているが、さすがに城内からご領主様自ら、こんな夜明け前に御出ましになるとは思っていないので、レーニエはさしたる苦労もなく、城の裏から山道に出た。初夏とはいえ、山の、しかも夜明け前の気温は決して高くない。白いシャツの上にマントだけをはおってレーニエは山道を登って行った。

 この日のために体力作りと称してフェルと共に山歩きをしたので、星明りの暗い道もそう苦にはならない。レーニエは用心して城を少し離れてから、カンテラに明かりを灯した。

 自分でも馬鹿げていると思う。こんな辺境の地の他愛もない伝説にこんなに心が惹かれるなんて。しかし、レーニエは小さなことでもいいから、何か目的を見つけたかったのだ。それも目に見える具体的な目的を。

 この地にきて半年余り。ようやく、長いこと見失っていた自分自身を見つけかけたと思っていたのに、過去の幻影はいつまでも自分に影を落とす。このことは一生自分に付きまとうのだろうか?

 複雑な想いを持て余し、ファイザルにまで余計な重荷をかけてしまった。そのことを思うと身が縮まる想いがする。心の中でぐるぐる廻る重苦しい思考をこのまま抱いていたくはない。何か道筋を見出したい。痛切にそう願った。

 だから、何かやり遂げてみようと思ったのだ。ジャヌーから女神伝説を聞いた時、何か非常にかれる物を感じたのは、そんな心境のせいだったのだろうか?

 レーニエは道を急いだ。

 湖までそう遠くはないが、早くしないと夜が明けてしまう。気持ちが急いて幾度か転びかけたが、なんとか道を辿ることができた。登るに従って空気に霞がかかってくる。その向こうに真っ暗な水面が見えてきた。

 あそこだ。間に合った。

 次第に木々が切れて、空間が広がる。消えゆく星明りの空の下に、湖は静かな湖面を横たえていた。こんなにドキドキするのは初めてかもしれない。レーニエは息を切らせて水際に立った。既に空の底が明るい。

 上がった息が整った時、その朝一番の光が差し込んだ。しばらくその光景にうっとりと見入る。朝靄がうっすらと染まる様は、いいようもなく幻想的で美しい光景だった。

 もういいかな?

 たどり着いた時は余りに暗くて、これでは潜っても女神像は見つけられないだろう。明け方の弱い光が透明な日差しに変わった時、レーニエはにっこりした。

 マントを傍の枝にかけ、靴も脱ぎ捨て、ためらわずにレーニエは湖に歩を進める。初め冷たいと思った水は体を浸していくにつれ肌になじんでくるようで、構わずどんどん深みに入ってゆく。

 湖はあまり大きくない。どこに女神像があるのか分からなかったが、ある程度の深さまで来るとレーニエは身を屈めて水中を覗いて見る。

 透明度は素晴らしく、青い水の中は朝の光で満ちていた。まるで薄めたインクの中にいるようで、レーニエは不思議に心が弾むのを感じた。このような経験は初めてだった。

 何もかもが美しい青い世界。揺れる水草、戯れる小魚、立ち上る泡――その向こうにあるはずの……。

 白い砂を踏んでどんどん岸から離れてゆく。素足が砂を踏みしめる度に指の間に砂がわき上がり、少しだけ水が濁る。けれど、すぐに砂は沈み、そのままじっとしていると小魚が指の間を突きに来てとてもくすぐったい。

 ゆっくりゆっくり歩を進める。水深は浅いが、そろそろ立ってゆくのは限界だ。レーニエは泳いだ事がない。自分が泳げるかどうかも知らなかった。

 底の斜面がきつくなり、このままではすぐに足が立たなくなる。しかし引き返す気には全然ならなかった。。思い切って軽く飛んで見る。頭の天辺まで水に浸かってしまった。

 体が非常に軽い。髪がゆらゆらと水の中にたなびく。軽く跳躍してみるとすぐに水面に顔が出て息をつくことができた。これなら大丈夫。

 女神像を探す傍ら、レーニエは水の中の不思議に心を奪われていた。どうやら自分は溺れないようだった。髪も肌も青く染まっている。手足が舞を舞うように揺れる。

 服など脱ぎ捨ててくればよかったと悔やまれる。ジャヌーが言ったとおり、水温はさほど低くはない。この湖が湧き水でできている|所以(ゆえん)だろう。

 あ、あれは……?

 青い水の向こうに何か細いものが斜めに立っている。水中だし遠くてよく見えないが、それは優しい曲線でできていた。あれが女神像なのだろうか? しかし、さすがにそこまでは行きつけない。おそらくレーニエの背の倍よりも深いだろう。

 だけど、見つけた。根拠は何もないが、レーニエはそう確信した。

 思い切ってもう少しだけ進んでから息を溜め、レーニエは湖の中心に向かって願い事を囁く。口の中に水が侵入してきたが、平気だった。

 女神よ、心あるならばどうか……。

 幾千もの小さなあぶくが彼女を包み込んだ。




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