第38話37.領主の恋 13

 馬で山道を下る二人を目ざとく見つけたのはフェルディナンドだった。

「姉さん! レーニエ様が!」

 叫びを聞きつけて、サリアとジャヌーも駆け寄ってくる。

「レーニエ様!」

 すっぽりマントを被せられ、馬上で抱えられながらレーニエはファイザルにもたれてじっとしているようだ。ファイザルの様子を見る限りではレーニエはどうやら無事のようである。

 ハーレイ号は軽い足取りで前庭のひさしの下で止まる。ファイザルは彼女を抱え下ろし、サリアに託した。

「まぁ、レーニエ様! こんなに濡れて!」

「へいき。ヨシュアに助けてもらったから」

 サリアに抱きしめられながら、レーニエはちらりと彼を見たが、ファイザルはあえて彼女の方を見ようとはしなかった。

 驚いている彼らの前でファイザルは手短に事情を説明する。

 フェルディナンドは、怒り心頭に達したように、青い目を怒らせてレーニエとファイザルを見比べていたが、まだ髪も乾ききっていない主の様子に言いたい事をぐっと堪え、すぐさまレーニエの部屋を整えに走っていった。

 サリアも同じで、ファイザルのシャツにマントを引っ被ったままのレーニエを浴室まで引っ張って行くが、中に入る前にきっとファイザルを振り返った。

「ファイザル様! 今しばらくここにお留まりを。よろしいですね」

 それはおろおろと佇んでいたジャヌーが青ざめてしまうほど激しい口調だった。

「後でたんと言い訳していただきますが、今はお身体を温めることが先決です。今日は寝台から一歩も出しませんからね」

 サリアは有無を言わさず主を湯に放り込みながら言った。

「サリア……済まない」

 肩まで湯に浸けられたレーニエは言葉もなく、素直に従った。顔を見られたくなくて、白い背を向たままで。

「いいえ、私だからこれくらいで済んでいるのですわ。フェルのお説教をお覚悟めされた方がいいですわよ。今朝は少しゆっくり目にお部屋に入ったら、寝台が空なのを見て、泣かんばかりに大騒ぎして。お城中を探し回り、お館に使いを出した時、ちょうどジャヌーが昨夜が新月だったってことを思い出し、まさかとおもいつつ、これから湖に出かけるところだったのです」

「……」

「ファイザル様が通りかかってくださらなかったら。もっとひどいことになっていたかと思うと、ぞっといたします」

「う……」

「だけども、あの方となにかあったのでしょう?」

「……」

「あの後すぐ、いつになく険しい顔をなさって、すぐに砦に戻られようとなさっていたのですが、私がお引き留めしました」

「そうか……」

「でも、今日はもうお休みにならないといけませんよ」

 言いながらサリアは、レーニエの白い肌に異常がないか、つぶさに観察していた。首筋、肩、胸元、背中……いずれにもあざ一つない。

 やはりあの方は、レーニエ様を大切に思ってくれているのだわ。もしレーニエ様を悲しませたのなら、ただじゃおかないって責めるつもりで引きとめたけども……。

 細かいことは後で聞けばいい、そう結論を下してサリアは明るく言った。

「後で、サリアにだけはちゃんとお話してくださいね。でないとフェルから守って差し上げませんよ?」

 にっこり笑って片目をつぶったサリアは、もういつものサリアだった。


「これ……いつもより多い……」

 フェルディナンドが無表情で差し出した薬湯のカップを、寝台ですすりながらレーニエは顔をしかめた。

 サリアが宣言した通り、問答無用で昼間から寝台に追いやられたかと思うと、空腹でもないのに粥を摂らされ、その後で黙りこくった少年が薬湯の盆を持って来た。昼間だと言うのに窓には厚い布が引かれている。

 サリアは昼餉の盆を下げ、壁際に控えている。弟があまりに言葉が過ぎるようなら、すぐさまいさめるつもりだった。

「……」

 フェルディナンドは答えない。ややつり上がった青い目がじっとレーニエを見つめている。その沈黙に負けてレーニエは再びカップに口をつけた。心なしか苦みまで増量されている気がする。

「……悪いと思っている。もうしないから許してくれないか……フェル?」

 やっとのことで薬湯を飲みほし、フェルの差し出す盆に戻してから、レーニエは自分の小姓に懇願した。

「あたりまえです。つまらない伝説をいちいち本気にされて、お部屋を抜け出されたんじゃ、こっちの身がいくつあっても足りません」

「……二度としない」

「そう願いたいですね。一体何を女神に願われたのですか?」

 それはレーニエにとって、今日二度目の問いだった。

「あの人に会いたいと……」

 黙っているのも卑怯な気がして、レーニエは素直に答えた。フェルディナンドの青い目が驚愕に見開かれる。薄暗い部屋に奇妙な沈黙が流れた。

「……そんなにあの人のことがお好きなのですか?」

 少年にしては、大人びたフェルディナンドの声が静かに尋ねる。こくん、と頭が下がった。

「そう……そうなんですか……で、あの人にそう言ったんですか?」

 再び主の頭が下がるのをフェルディナンドはみとめた。

「……尋ねられたから」

「……」

 少年は薄い唇を噛みしめた。整った顔が険しくひそめられている。サリアは弟が、どんなにかこの主のことを慕っているかよく知っているので、気遣わしげに彼を見やったが、沈黙を守った。

「それで、あの人はなんと?」

「私の気持ちに応えることはできないと」


 あの時――

「畜生っ!」

 聞いたことのないような罵り言葉。自分が何も言う間もなく、息もできぬくらいきつく抱きしめられ、気が遠くなりそうになった。

 どのくらい時間が経ったのか、ゆっくりと腕が緩み、熱い胸が離れてゆく。恐る恐る顔を上げると、恐ろしくかげった瞳とぶつかる。いつもは静かな湖のような瞳が、これほどくらい光を湛たたえるなんて信じられなかった。

「……黙っているのは容易たやすい。だが、それでは、あなたに余計な重荷を掛けてしまうだろう」

 苦しげな声が耳朶を打つ。

「……?」

 レーニエには彼が何を、何のことを言っているのか分からなかった。ただ、その瞳が自分を捉えて離さない。

「あなたは自分の気持ちが私を苦しめるとおっしゃった……それは本当です。だけど、あなたの言うような意味じゃない」

 この娘はいつも自分が人にどう思われるか不安で、自信を持てないでいる。

 この頃になってようやく笑顔が増えてきたと言うのに、もし彼が自分の気持ちに封をしたまま無難にこの場をやり過ごせば、以前のように憂いを帯びた瞳に戻ってしまうかもしれない。仕方がないと唇だけで笑い、傷ついた柔らかい心に蓋をして。

 それには耐えられなかった。自分などと違い、この娘には光のあたる場所で生きて行って欲しい。

「俺が苦しいのは、あなたの気持ちが重荷になるからではなく……」

「……」

「俺も……確かにあなたを愛おしく思っているからです。それも、あなたよりもずっと強く……俺はあなたを欲している」

「あ……」

 レーニエはその言葉に打たれたように目を見開いた。

「ヨシュ……?」

「あなたが好きだ」

 ファイザルは、華奢な手を自分の大きな掌で包み込むと、唇で桃色の指先の一つ一つに口づけた。

 信じられない。ではこの人も私を想っていてくれた……?

 自分でも驚くくらい胸が轟いている。レーニエは混乱し、困惑し、それでもゆっくりと喜びが押し寄せてくるのを感じた。熱い吐息をもっと間近に感じたくて彼の胸にうっとりと頬を寄せる。その柔らかい頬を大きな手がゆっくりと撫でた。

「ヨシュア……」

「しかし、やはりそれは間違っている。あなたは高貴なお血筋の姫君で、俺は人殺しだ。この運命は変わらない。言った通り、俺はあなたの想いに相応しい男ではない」

 言葉の厳しさとは裏腹に、頬を包んだ指は限りなく優しく、それはまるで愛撫と言ってもいいくらいで。唇は触れ合わんばかりに近づいて。

「その意味では、あなたも私も誤りを犯している。俺たちはこれ以上近づいてはいけない。わかりますね、レーニエ様」

「いや……嫌だ。どうして? ヨシュア……」

 いやいやと被りを振る様は童女のようにあどけないのに、その姿はファイザルの心に痛いほど食い込んだ。

「困った姫君だ」

 そう言うと、ファイザルはもう一度、今度は優しくレーニエを引きよせ、額に唇を落とした。

「レーニエ……レナ。あなたはお母上と同じ間違いをしてはならない。愛してはいけない男を想ってはならない。同じてつを踏むのなら今度こそそれは罪です」

 罪。

 静かな口調だが、その言葉は稲妻のようにレーニエの身を貫いた。

「あ!」

「そう。おわかりですね。いい子だ」

 透明な膜をはらんで見開かれた赤い瞳に吸い込まれそうになる。震える唇が愛しくてならない。

「俺の可愛いレナ……お許しください」

 口づけは優しいものだった。ふんわりと押しつけれ、上下の唇をついばみ、離れたかと思うと熱い吐息と共に再び覆う。長い指がうなじの髪に絡み、腕は腰を引きよせた。

 やがて名残を惜しみながらファイザルは体を離した。

「レナ……私たちは今まで通りです。あなたは何も悪くない、このような事は忘れるべきです。いいですね」

 言葉を失ったように彼を見つめるレーニエの頬を、透明な雫が静かに流れた。

 ファイザルは優しくレーニエを助けて立たせると、自分は膝まづいてその手を頭に押し頂いた。

「ノヴァゼムーリャのご領主。私はこの地にいる限りあなたをお守りする事を誓います」


「……なかなか常識家ではないですか。彼は」

 冷たく言い捨てるフェルディナンドを、レーニエは悲しそうに見つめた。

「フェル! 言葉が過ぎるわ。もう向こうへお行き」

「サリア……いいんだ。フェルの言うとおりなのだから」

 レーニエは寝台に膝を立て、僅かに唇の端を上げて見せた。

「大丈夫だ。初めからヨシュアに何かを望んだわけではない。ただ、この想いを告げたかっただけで……」

 俯く首筋から銀の髪が流れ落ち、敷布の上に渦をつくった。

「……すまない、少し休みたい」

「レーニエ様……」

「心配をかけた。私がすることなんて、皆に心配をかけることぐらいだな……すまないが、天蓋の布を下ろして」

 二人が部屋を出て行くと薄暗い部屋が一層暗くなったように感じた。上掛けを引っ被り胎児のように身を丸める。

 明日になれば元通りだ。別に何かを失ったわけじゃない。泣くなんて滑稽だ。

 レーニエは漏れそうな嗚咽おえつを無理やり飲みこんだ。

 でも、あの人は私をレナと呼んだ。

 レナ――

 今まで愛称で自分を呼ぶ者など誰もいなかった。自分の名が愛称になるとも考えたことがなかった。

 レーニエ。生まれてからずっとその名で呼ばれてきた。

 その名は、王家のいつの時代の歴史にも存在しない名。男性の名でも女性のそれでもない、風変りな響きを持つこの名が好きではなかったのに。

 レナ。

 それは可憐な響きの、紛れもない女の名前だった。




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