第30話29.領主の恋 5
レーニエの熱が下がったのはそれから三日後のこと。
一旦、砦に戻っていたファイザルは、領主からの呼び出しの知らせにジャヌーと共に領主館を訪問した。この三日の間にますます春は華やぎ、森の端の道は様々な花々で溢れている。
馬たちは楽しそうに半刻余りの道のりを一気に駆け抜けた。
「レーニエ様のご容態は?」
馬から降りるとファイザルは挨拶もそこそこに、扉を開けてくれたセバストにレーニエの容態を尋ねる。家令のセバストはほとんど寝ていない様子で、
「はい。今朝はお熱も下がって、ほんの少しではございますが、食事もなさいました。医師殿の診立てでは、もう大丈夫だろうとのことで、私の家内などはそれを聞いて、今度はそっちが寝込む始末で」
「オリイ殿が? それはいかぬ。お大事になされるがよい。セバスト殿も御苦労でした。サリアさんや、フェルディナンドはどうしておられますか?」
「娘と息子ならさすがに若いだけあって、元気なものですよ。フェルディナンドは今、家内についております。サリアはレーニエ様に」
「そうか……しばらくは私でも間に合うだろうから、セバスト殿もどうかゆっくりされよ。今夜はジャヌーをこちらに置いてゆきますので、何でもお申し付けください」
「ありがとうございます。お心遣い痛み入ります」
ジャヌーはセバストを休ませるため、二人で階下に残ったので、ファイザルは一人でレーニエの部屋に向かった。
扉を開けてくれたのはサリアで、こちらも少し疲れた顔をしている。
寝室は薄暗く、薬湯の香りで満ちていて、屋外が明るく澄み渡っていただけに、ここはいかにも病室の感があった。
「まぁ、ファイザル様、ようこそお越しくださいました。レーニエ様? いらしてくださいましたわ」
サリアが背後の寝台に向かって明るい声をかけた。
「失礼いたします」
「……ああ、ヨシュア……お忙しいのにこちらまで御足労いただき、申し訳ない」
寝台の天蓋には薄い布が下りていて、その中から弱々しい声がした。熱のせいで喉がやられたのか、いつもの澄んだ声が掠れて喋りにくそうだった。
「先ほどお湯をつかわれ、軽い食事をなさいましたの。お熱は下がっておられますが、このままでお願いいたしますわ。」
それは布を上げるなと言うことなのだろう。ファイザルは頷いた。そして、少し迷ったがファイザルは歩を進め、寝台のすぐそばに立つ。
「お加減はいかがですか? 大層なお熱だったそうですが」
「ああ、もうだいぶいい。ご心配をおかけした」
布越しに見る寝台に横たわったままの人影は、酷く
「して、レーニエ様。本日の御用向きは?」
「ああ……その……あなたに、お頼みしたいことがあって……」
「はい」
レーニエが人にものを頼む事は滅多にない。ファイザルは
「何なりと」
「ええと……実はある人物に会って来て欲しい」
レーニエは大変言いにくそうに、意外な事を言い出した。
「それは構いませんが、一体どなたに会えとおっしゃる?」
「それは……えと、ドルトン殿と言って、都から来られた商人の方で、あなたも先日お会いされたと思う」
「ああ、思い出しました。確かこの地の産物にかなり興味を示した方でしたね」
「そう、その人だ。その人にこれを……サリア」
「はい」
すべて心得ているようにサリアが手渡したものは、皮の覆いがつけられた上質の紙だった。
「封……はありませんが、中が見えてもよろしいのですか?」
「構わない」
ファイザルは黙って開いてみた。手紙かと思ったそれには文字は一切書かれていない。代わりに水彩画で白っぽく風景が描かれていた。
それはあまり色彩のない冬の村の風景だった。中央に子ども達の遊ぶ様子が描かれ、その部分だけは明るい色合いで生き生きと描写されている。淡彩だが、どことなく暖かい印象を受ける絵だった。隅に記された日付は二ヵ月前になっている。
「この絵は?」
「ああ……私が描いた。拙いものではあるが」
レーニエの意外な才能に、ファイザルは目を見張った。
「お上手です。これをそのドルトン殿に?」
「そう……彼は今アルエの宿場に逗留されてているそうだ。実は出立前に来てもらうように頼んであったのだが、その後、私がこんな風になってしまって……そのままに」
「レーニエ様、あまり長く喋られては、またお咽が痛くなりますわ」
サリアが気づかわしそうに口を出した。
「大丈夫だ。サリアが作ってくれた蜂蜜入りのお茶がとてもよく効いてる」
「まぁ」
「そう言えば、又頼めるかな? ヨシュアの分も」
「かしこまりました。しばらくお待ちくださいませ」
レーニが、ファイザル一人に話したいことがあるのだと察したサリアは、小さく辞儀をして部屋を出ていった。
「あなたもお忙しいだろうに、このような余計な役目を負わせてしまって申し訳ないが、他に頼める者がいないのだ。家の者は私が面倒ばかり掛けてしまうので、疲れ切っているし……」
サリアが出て行ったことを確かめ、レーニエはもう一度ファイザルに頼む。その様子は本当に済まなそうで、知らない人が見たら、一体どっちの身分が上なのか分からなくなるだろう。
「いいえ。このくらい大したことではございません、俺などでよかったらいつでも頼ってください。なんでしたらこの後、すぐにアルエまで出向きましょう」
甘やかすようにファイザルは受け合った。
「ありがとう……」
「レーニエ様?」
「ん?」
「直にお顔を見せていただくわけには参りませんか?」
「……」
少し力を入れたら折れてしまいそうな体を優しく包み込みたい。そして出来るものなら有り余る自分の力を分け与えたい。
ファイザルは、フェルディナンドと殆ど同じような事を思っている自分に気が付いたが、既に彼を笑えない。
「いけませんか」
重ねてファイザルは問うた。珍しいことであった。
「済まない……やつれて見苦しくなっているので……この数日ものが食べられなかったし」
レーニエの言う『見苦しい』の基準は、あまりアテにはならなかったが、痩せてしまったのは確かなのだろう。普段から
「お顔を見れば私も、少しは安心できるのですが」
まるで我儘なガキだと、ファイザルは心中で自分をなじった。
「今は……まだ。それより、これを私の目に触れないところに置いてくれないか? 受け取って」
レーニエは僅かに身を起こし、身を
「?」
「少し布を開けて……手を」
それだけの動きですっかり疲れてしまったかのように、レーニエはまた寝台に沈み、こちらに腕だけを伸ばした。
ファイザルは布の境目から腕をさしのべ、すっかり細くなってしまった手をとる。小さく硬い何かが掌に転がった。
サリアは扉を閉めたとたん、お茶のセットを捧げ持ったジャヌーに遭遇してしまった。
「あら、ジャヌーさん。お茶を持ってきてくださったの?」
「ええ、指揮官殿に言われて……セバストさんを少し休ませたかったし」
「それは済まないわね。でも、お部屋には入れないわ。私もたった今、出てきたところなの」
「は?」
「何か二人だけのお話がある見たい。ちょうどいいわ。そのお茶を持って戻りましょう。せっかくだからいただきたいわ」
「はぁ」
「いいのよ。どうせ私が新しいお茶を持って上がることになっているから」
戸惑うジャヌーの腕をとって、サリアはどんどん引き返してゆく。厨房には人がいなかった。レーニエが伏せっている間、通いで雑用をしてくれている村の娘たちも断ってしまったので、今はセバスト一家の他は護衛の兵士達だけなのだ。
「父さんは?」
「セバストさんなら俺が無理やりお部屋に引き取ってもらいました。オリイさんも落ち着いておられましたよ」
「そう? ありがとう」
「あの……ご領主様は大丈夫でしょうか? 俺はもう心配で……」
いかにも顔を見たそうにジャヌーはそわそわしている。それを無視してサリアはどっかりと椅子に腰を落ち着けた。
「ええ、しばらくの間なら。それにしても……」
「なんです?」
「レーニエ様は本当にあの……あら? おいしい。ジャヌーさんってお茶を入れるのが上手なのね?」
サリアの方が実は少し年下なのだが、ジャヌーは丁寧な物腰を崩さず、褒められて素直に頭を下げた。
「そうですか? 基地では上官にお茶を入れるのは、我々若い兵士の役割ですから」
「こっちに美味しいお菓子があるわ。甘いものは大丈夫? 今朝私が焼いたの」
サリアは立ち上がると、戸棚の中から焼き菓子の皿を持ってきた。
「ええ、好物です。ですが、何か言いかけられましたね」
「もう……耳聡いわね。……あなた、気がつかない?」
「何がです」
「レーニエ様のことよ」
「はぁ」
何の話になるのだろうかと、ジャヌーは大人しく拝聴する姿勢をとった。
「レーニエ様はとってもお好きなのよ。ファイザル様のことが。だから本当はまだ安静にしていなくちゃいけないのに、ご無理をしてあの方をお呼びになったのだわ」
「……」
「だからね、ジャヌーさん……って、え? あらちょっと、どうしたの? あららら、動かないわ」
「……か?」
ジャヌーはやっとのことで掠れた声を絞り出す。
「何?」
「そ、それは本当なのですか?」
青年は驚きとも失望とも言えない奇妙な表情でサリアを見つめていた。
「ええ、ご本人はまだそうとは意識していらっしゃらないかもしれないけど。何しろうちのご主人様は、奇跡のように純情なお方だから」
「……」
「一度あなたに聞こうと思っていたのだけれど」
サリアは流し眼をジャヌーにくれる。
「は?」
「ファイザル様はどう思っていらっしゃるのかしら?」
「……何をですか?」
あまり頭のまわっていないジャヌーはぼんやりとしている。
「何って、レーニエ様のことに決まっているじゃない! あなた一番お側にいるんでしょ? どうなのよ!」
「さ、さぁ? 考えたことがありません」
あからさまな問いにジャヌーはたじたじと身を引き、それをごまかすためにお菓子にかぶりついた。
「まったく、なんで男ってこうなのかしら……」
忌々しそうにサリアが呟く。
「どうなの? あの人には決まった恋人とか、情人とかがいるの?」
「じょ、情人ですか? 聞いたことがありません。砦にいる間は女人禁制ですので」
「まぁ、そうなの? 若い人は大変ね」
サリアの明け透けな物のいい方に、ぎょっとしたようにジャヌーは目を見張った。お菓子が喉につかえそうになり、慌ててお茶で飲みくだす。我ながら情けないとジャヌーは思った。複雑な感情をどうにか押さえつけて、答えを捻り出す。
「それも訓練ですから。自分で自分を律することができないと一人前とは言えません。ただし、休暇中は家族や友人に会いに行ってもよいことになっています。家族持ちは、アルエの街に家族を呼び寄せている者が多いです。若い者は休暇中なら、少々羽目を外しても黙認はされます。お目こぼしと言うのでしょうか。しかし、指揮官殿がこの地に任じられてから、休暇を取ったという話は聞いてはおりませんし、俺も知りません」
「へぇ、そうなんだ……案外カタブツなのかな?」
「え?」
「いーえ、なんでも。それよりあなたは?」
「はい?」
「あなたは恋人とかいないの?」
「いませんよ! そんなの。俺なんかまだまだ半人前ですから、恋人など考えられません」
ややふてくされたようにジャヌーは横を向いた。
「それより、サリアさんは確信しておられるのですか? レーニエ様がうちの指揮官殿をお慕いしておられるなどと……」
「本当だわ。あの方が誰かを恋するなんて、少し前ならば信じられないけれど。だから私、ファイザル様の気持ちが気になるんだわ。だってお二人だけで遠乗りに出たり、お部屋で過ごされることもあるんだもの。でももし、その気がないのならレーニエ様にあまり近づいてほしくはないのよね。私はレーニエ様にこれ以上、悲しんでほしくないのだから」
「ですが……俺からそんなこと聞けるはずがありませんよ」
「まぁ、そりゃそうだわね。それに軍人には転属ってものがあるんだし……ねぇ、ジャヌー? あなた、あの人のことで何か知っていることはないの? 従卒なんでしょ?」
いつの間にか呼び捨てにされているが、ジャヌーは一向に気がつかない。
「俺の知ってるのは、指揮官殿が南部の戦線では、掃討のセスと呼ばれ、敵に非常に恐れられていた戦士だったってことぐらいです。作戦を練り上げ、戦を遂行するにあたってあの人ほど優秀な指揮官は、現在の国軍にはそうはいないと噂されています」
「へぇ~、知らなかった」
「はい。正式な階級は大佐ですが、それ以上の昇進はないそうです。それというのも准将、少将というような『将』の付く階級は、その出自が明らかであるものでないと叶わないという不文律があって。ファイザル指揮官殿は、なんでも孤児だったそうで、あまりにその出身が不明であると、それだけの理由でこれ以上の昇進が留められているという話です。そんな訳で手柄を家柄のいい奴に持っていかれてますけど、本来ならば、とっくにもっと出世をしている人だと言われています。もっとも、あの人自身は出世に興味がなさそうですが」
「すごいわね……そんなにすごい人が、なんでこんな田舎の国境に来たのかしら」
「何でも自分から願い出たって話ですよ。うちの基地の高級将校たちには結構南部戦線から来た者がいます。戦場で疲れたのだと彼等は言っていますが、指揮官殿とはそんな話をしたことがありません。あの人が何を考えているのかは実のところ、俺にもわからないことが多くて」
「そうなの? ただ者ではないとは思っていたけど、そんなにすごい人だったなんてね」
サリアはいたく感心したようだった。
レーニエ様の恋は報われるのかしら? あの方もご身分にがんじがらめになっておいでだけれど……つくづくうまくいかないものね
「ねぇ、もう少しおいしいお茶の飲み方があるのよ、ジャヌー。これでもう一杯いかが?」
サリアは戸棚から香りの強い酒の小瓶を取り出し、ジャヌーに振って見せた。
今頃お二人はどうされているのかしらね?
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