第29話28.領主の恋 4
「おはようございます、レーニエ様」
いつものように、サリアが目覚めの湯を持ってやってきて、重い帳を開ける。
普段ならレーニエは寝起きがいいので、サリアの気配に気づいてすぐに起きだす。夜明けの早い最近では既に露台に出ていることもあったのに、その日に限って寝台は天蓋に覆われていた。不審に思ったサリアが帳を開けると、領主はぐったりと枕に沈み込んで赤い顔で荒い息を零していた。サリアが額に手を当てると、そこは酷く熱く湿っている。
「母さん! 大変! レーニエ様が!」
慌てて母親を呼び、オリイが階段を駆けあがってきた。
「まぁ、これは!」
静かな領主館はあっという間に騒然となり、すぐに医師が呼ばれたが、領主村に一人だけいる医師は老齢で、領主を診察すると言うことにかなり混乱気味だった。それでもなんとか熱さましの薬草と、体を冷やす湿布薬を処方してくれたのだった。
「それで……レーニエ様のご容態は?」
村の医師の診立てだけでは心もとないと、昨夜から館に詰めていたファイザルは直ぐに砦に使者を送り、軍医にこちらに来るように命じていたが、その者はまだ到着していない。
「今のところは何とも。お薬湯は少しお飲みになられましたが、殆ど何も受け付けられず、まだ熱は下がりません。ただ今は眠っておいでです」
気遣わしげなファイザルと、その横で青い顔をしているジャヌーにセバストは説明した。
「もともと体が丈夫な方ではございませんで、子どもの頃は急な発熱などしょっちゅうでございました。このような寒い地方に行くとお決めになった時も、我々はいたく心配したものでしたが、どういう訳か厳しい冬の間、今までになくお健やかにお過ごしになって、我々も、この地があの方のご体質に合っていたのかと、大層喜んでおったのでございますが……」
セバストは、ファイザルに勧められ、手近な椅子に腰をおろすと大きなため息をついた。
忠実な家令には久しぶりのレーニエの病が大層こたえたらしかった。
「厳しい冬を越されて体がほっとされたのかもしれません。春はそう言う意味では、病の季節と申します。また、ご領主様には。最近いろいろな意味で精神的な緊張もおありになりました。これは私の責任でもあるのですが、おそらく今までの疲れが一気に出られたのではないかと」
「そうですか……」
ファイザルもこの事実を重く受け止めていた。ある意味、レーニエに一番無理を強いていたのは自分かもしれないからだった
「そう言えば今回の村長達の集会のことも気を遣っていらっしゃいましたね……私が余計な気をまわしたのが、よくなかったのかもしれません」
「いいえ、レーニエ様は近頃ずいぶんお元気で、それはファイザル様はじめ、この地の方々との交流が大きなお慰めになっていたのだと私どもは知っております」
「セバスト殿」
「実は夕べ、ある知らせがあって……おそらくはそれが原因の一つではないかと思っているのです」
「知らせ? それは?」
「都からのもので……申し訳ありませんが、私からは申せません。しかし、多分レーニエ様には衝撃だったのでしょう」
「左様ですか」
「あの、お顔を見……」
ジャヌーが言いだしかけたのを、ファイザルは片手で制する。
「とりあえず、もうすぐ軍医がきます。先ずはその診断を仰ごう。セバスト殿、私たちは一応明日まではこちらに詰めています。この忙しい折に、更にお手数をおかけしますが」
「いいえ、それは一向に構いません。来客の方もほぼ引き払われましたので、私たちの方も他にすることはないのです。出来ることといえば心配だけで……」
セバストは大きくため息をつき、椅子にもたれかかった。
「そう言うことだ。俺たちに出来ることは待機しかない」
セバストが肩を落として退出すると、ファイザルは、しょげかえっているジャヌーの方を振り返った。
「大丈夫だ。あの方は意外と芯の強いお方だ。きっとすぐによくなられるさ」
「だといいのですが……あんなにか弱いお身体で、高熱と戦っていらっしゃるのかと思うと、お可哀そうでなりません。俺みたいな無駄に丈夫なものから見ると、とてもやりきれなくて……」
「……そうだな」
「ええ。それにあの方はあんなにきれいな女の人なのに、どうして男の恰好なんかしているんでしょう? 俺なんかには想像もつかない、苦しみがあるに違いありません。お可哀そうだ……あんまりお可哀そうです。俺が変わって差し上げられたらいいのに」
ジャヌーは込み上げるものをこらえるようにぎゅっと顔を
「まぁ、お前が気を揉んでも仕方がない。今のうちにやっておくことはあるだろう。おまえはオリイさんに伺って、力仕事でも探して来い」
若いくせに、さっきのセバストと同じように悄然と出て行ったジャヌーを見送ると、ファイザルも、流石に部屋の中にいたたまれないような気がした。外は今日も晴れて昼下がりの物憂い陽光に満ちている。
こんな明るい光の中で、あの娘は高熱に侵され、薄暗い部屋で寝台に横たわっているのだ。
可哀そうに……
いつの間にかジャヌーと同じことを考えている自分がいる。会って、手を取って励ましてやれたら……
なんだ、俺も奴と変わりはないな。
わざとらしい苦笑を一つ洩らすとファイザルは露台へ出た。それは広い空間だったが、レーニエの部屋とは反対の棟にあるため、一周しても領主の部屋まではいきつけない。広い裏庭を見下ろす階段のそばまで来ると、向かい側の木の下に黒髪の少年の姿を認め、ファイザルは再び苦笑した。
身の置き所のない男がここにも一人いたか。
気配を察して、フェルディナンドが顔を上げる。ファイザルと目が合うと、その青い瞳は慌てて逸らされた。流石に以前のように不機嫌な顔はもう見せない。彼は今ファイザルの監督の元で様々な教育を受けているのだ。
「レーニエ様のところに行かれないのか?」
階段を下りたファイザルは、手持無沙汰に幹にもたれているフェルディナンドに声をかけた。
「行きたいのですが、姉に止められました」
「サリアさんに? 何故かな? 君は家族も同然だろう?」
「今までなら。でも、もうダメだって……あの方が女になられたから」
「それはそうだが……君たちはご領主様が女だってことは、初めから承知じゃないか。そりゃ、この地の者には昨日初めて公表したようなものだが」
フェルディナンドの言葉を額面通りに受け止めたファイザルが疑問を表す。しかし、少年は苦渋の表情を返しただけだった。
「そうじゃなくて。俺はよく知らないけれども、女の人には女の体になる時期があるんでしょ? 姉の言うにはレーニエ様にもその時が来たって……だからもう、俺があまりお寝間にお邪魔してはいけないって」
「……」
フェルディナンドの言葉は曖昧だったが、ファイザルにはサリアの意図が理解できた。
なるほど、そう言うわけがあったのか
冬の終わるころからレーニエが、それまでと違う雰囲気を身に纏うようになったのは、そういうことがあったからなのだと、ファイザルはようやく腑に落ちた。
人形のように硬質な美しさが徐々に柔らかい女のそれに変化している。眩しい季節を迎えてそれは益々顕著になってゆくだろう。しかし、当の本人はまったく無頓着で、現在ただ今それどころではない。
「それで君はどうするんだ?」
「……どうもしません。今まで通りお仕えするだけです。そしてあの方をこの手でお守りする。だからそのためには何だってする」
「君はレーニエ様のことがとても好きなのだな」
「あたりまえです!」
からかわれたと思ったのか、少年はぴしゃりと言い返した。
「あなたなんかよりずっと前から俺は、あの方のそばにいるんだ。あの方のことは何だって分かる」
「レーニエ様は、君が六歳のころから知っているとおっしゃられていたが」
「そうです。初めて母に連れられてあの方を見た時、俺は天使が舞い降りてきたかと思った」
「……」
「だけど、あの方はいつも哀しそうで……誰にも知られないように泣いておられた……そんな事、あなた知らないでしょう?」
「知らないな」
少年の挑戦的な眼を静かに見返して、ファイザルは真面目に答えた。
「俺は知ってるんだ。俺がそばに行くと急いで作り笑顔を見せて……俺が抱きしめて差し上げると嬉しそうにしてくださって、フェルはいい子だねって囁いてくれた」
「……」
「もうすっかり丈夫になられたって思っていたのに。こんな……なんで、あの方……熱なんか! もっと気をつけていたらこんなことには!」
ジャヌーと全く同じ言葉を吐いてフェルディナンドは、形の良い唇を噛みしめた。自分に対する憤りで、握りしめた拳が震えている。
「俺が変わって差し上げられたらどんなにいいかしれないのに!」
「そうだな……」
やれやれ、どいつもこいつもご同様って訳か。男って奴はこう言う時には役立たずで、まったくしょうがないな
ファイザルは、同情をこめて少年を見つめた。
「おや、ホールから声が聞こえる。軍医がやっと来たようだ。どうせ奴の診立ても変わり映えしないだろうが、何もしないよりはましだろう。フェルディナンド、その後でならレーニエ様のお顔が見られるかもしれないぞ」
ファイザルはそれだけ言って医者を迎えるために去って行った。
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