第31話30.領主の恋 6

「これは……?」

 ファイザルは、手のひらに転がった優美な細工の指輪を見つめる。露のような透明な雫の中に金色の粒が浮かぶ輝石は薄暗い部屋の中でもきらきらと輝いた。

 薄い布の向こうでレーニエは静かに語りはじめた。

「受け取ってすぐに外したのだけれど、その後熱が出てしまってオリイが護符の代わりだと言ってはめてくれたものだ。もう下がったからいいと思うのだけども、つい、はめたままになって……家の者に頼めないこともなかったが、彼等に頼むとまた、余計な心配をするので……済まないが、その辺りの引出しにでも入れておいてほしい。今の私には不要のものだから」

「この石は……まさか」

「知っているのか?」

 寝台から意外そうな声が上がった。

「この石はユールカイト。エルファラン王家の方々にはそれぞれを象徴する宝石があると伺っておりますが、この石は確か現国王、ソリル二世女王陛下の象徴だと」

「……」

「違いますか?」

「……違わない。私の母の石だ」

 薄い布越しに横たわるはかない影から静かに発せられた言葉は、あらゆる事態に備えて厳しい訓練の限りをつくし、多くの戦場を潜り抜けてきた男の度肝を抜くに十分だった。

 発せられた言葉の意味を咀嚼そしゃくするように、数瞬の間立ち尽くしていたが、やにわにファイザルは薄いしゃを払いのけた。

「あ!」

 そのまま大きな枕に手を付き、横たわる人の顔を覗き込む。突然の出来事に驚いた人の両側で、柔らかい敷布が深く沈みこんだ。

「あ、あなたは……」

 普段よりいっそう青白くなった顔は痩せて一回り小さくなり、そのせいでやけに目立つ大きな赤い瞳がファイザルを見上げている。熱のせいだろう、消耗した眼もとに青い影ができていた。

 サリアが心をこめて梳き上げた白銀の髪は、瞳と同じ色のリボンで緩く結ばれてシーツに流れている。湯を使ったせいだろう、それはまだ少し湿っていた。

「あなたはいったい……」

 切羽詰まったファイザルの様子を見て、ふっと血の気の失せた唇の端が上がる。

 佳人は淡く笑ったのだった。

「どなたなのですか!」

「……やつれてしまったから見ないでと言ったのに……」

 しようのないというように蒼ざめた瞼が伏せられ、顔が背けられた。そのせいで白いうなじが晒されてしまう。男ならだれもが見つめてしまうだろう、血管が透けてしまうほどの白さ。

「いいえ。いつもながら息を引くほどお美しいです。しかし、今のお言葉は……」

 敷布を握りしめてファイザルは重ねて問うた。今までは気にはなりながらも、レーニエが語るのをよしとしないのなら聞くつもりはなかったが、一旦知ってしまったからには確かめずにはおられない。

 それはあまりにも重い言葉だった。

「言ったとおりだ。私の母は現国王、アンゼリカ・ユール・ディ・エルフィオール。そして……父はレストラウド・サン・ドゥー・ブレスラウ公爵と言う」

 ファイザルの戸惑いを知ってか知らずか、レーニエは父親の名前まであっさり答える。更なる衝撃にファイザルは愕然とした。

「なんですって!?」

 それではレーニエは、現国王の私生児と言うことになる。

 この方は……だから、自分を認めようとしなかったのか。誰にも存在を知られていない、知られてはいけない存在だから……。

 しかし、力なく横たわる人の横顔は大義そうではあったが、不思議なことに、苦悩の表情は見られない。現国王、ソリル二世は栄光ある独身、処女王と言うことになっているから、このことが露見したら王室は著しくその権威を失墜することになるだろう。

 レーニエの存在が念を入れて秘されたのは、このような醜聞があったからなのか。それにしてもブレスラウ公爵とは……。

「レストラウド・サン・ドゥー・ブレスラウ公……お父上のことは存じています。確か、南方の戦いが激しくなり始めた頃、アローウィンの戦いの大勝利の直後に命を落とされたと……」

「父上を御存じなのか?」

 今度はレーニエが驚いて再び仰向いた。そして寝台の上に身を起こそうと身じろぐのを、慌ててファイザルが押しとどめる。

「直接存じていた訳ではありません。私の様な一介の平民出身の兵士が、神将と言われた英雄にお目にかかれる訳がありません。ただ、進軍されるお姿を幾度か拝見しただけで」

「どんな方だった?」

 熱っぽい目でレーニエが尋ねた。ファイザルはその瞳を受け止め、そして記憶の海から忘れられない光景を引き出すことに集中する。

「そう……あの方は大層印象に残るお方でした。当時は私も十代の小僧でしたが……あのように美しく雄々しい方は見たことがないと思いました。かぶとを被ることを好まれず、馬上豊かに輝く金髪を風になびかせ、剣を取っては並ぶ者はなく、鷹のような青い瞳で射すくめられると、大抵の者は縮み上がってしまうというお噂の、若い兵士にとっては憧れの存在で……」

 ファイザルは、少年の頃の追憶に浸るように、彼にしては珍しい熱の入れ方で語った。

「そういえば、あの方の持つ神秘的な雰囲気は、レーニエ様とよく似ておられます。お顔の造作は異なっておられますが」

「そう……そうなの? 私はどちらかというと母に似ているとオリイ達は言っていた」

「はい。面差しはお母上によく似ておられます。私の執務室にも肖像画がありますが……初めて気が付いた時には驚きました。しかし、お父上は肖像画を描かせるのがお嫌いだったとかで、どこにも絵姿はなく、御尊顔を知っているものはほとんどいないと」

「私は一度、子どもの頃、母がたった一枚だけ父上が描かせたと言う絵姿を見せてもらったことがある。あなたの言うように美しい方だった」

「しかし、何故お二人は結ばれなかったのでしょうか? 確かにお二人のご身分からすれば、なかなか難しい事情もあったのでしょうが、ブレスラウ公爵家は何人もの宰相を輩出している大貴族。私などのような下々の目から見れば、このような良縁はないと思われますが」

 確か、ブレスラウ公が戦死て数ヶ月後、前国王が病死し、直後女王ソリル二世が即位する。もし二人が結婚していれば、公爵は王婿おうせいとなるか、共同君主となるはずだった。

 家柄に問題はない。結局二人が公的に結ばれることは、公爵の死で叶わなかった訳だが、公爵家ならばレーニエの十分な後だてになったはずだ。愛しあい、子どもまで成したのなら、何故そうしなかったのか。

「……」

 レーニエは悲しそうにファイザルを見た。

「……申し訳ありません。つい立ち入ったことを聞いてしまいました」

「約束して……」

「はい?」

「訳を言ったとしても……私を、嫌わないと」

 赤い瞳が訴えるようにファイザルを見上げている。彼は怯ひるんだ。この方は何を憂えているのだろう?

「そのような心配は無用です。ですが、王室がひた隠しにしてきたことを、無理しておっしゃらない方がいいと思います。ましてや貴女は病み上がりのお身だ。もっとしっかり判断できるようになってから……」

「あなたは他言しないだろう?」

「それは勿論。お誓い致します。しかし……」

「お二人は母親違いの姉弟だと言う噂があったらしい」

 決心が揺らがぬうちにレーニエは一気に言った。それから、ファイザルの反応を|窺(うかが)うように黙った。

「……な……んですって?」

 喘ぐような低い声で彼は言った。

「驚ろかれた?」

「……ええ、この上なく。ですが、それはただの噂なのでしょう?」

「母上はそうおっしゃっておられた。父上が生まれた頃の事情を知っている者は、殆どいないと言うことだった」

「……」

「嫌な話で済まない……」

「レーニエ様、もうおやめください。お身体に障ります」

 さっきよりレーニエの声が掠れてきている。喋りすぎて喉が痛くなってきたのだろう。

「お辛いのではありませんか?」

「大丈夫だ……」

 レーニエは続けた。

「我が父、ブレスラウ公爵の母君は、私の祖父であるアルフレド三世……前国王陛下の侍女で、召されてご側室に上がられたそうだ。ただ、その方はおじい様に求められる以前に、許婚いいなずけがいたという」

「……」

「側室に召されてすぐにその女性は身籠り、残念ながら父上を産むときに産褥さんじょくで亡くなられた。おじい様は自分の子供ではないのではと疑い、父上を、王子として認知しなかった。そして、父は生まれてすぐに王家と姻戚関係のある、ブレスラウ公爵家に養子に出された」

「それで、父親違いの姉弟だと……?」

「ああ。母上のお言葉以外にその事を否定する材料はなく。だから真実、お二人が姉弟だったという証はないけれども」

「それならば……」

「表向きはお二人は他人になっている。しかし、父上のお姿は若い頃のおじい様に似ているという声もあって……母上は違うとおっしゃるが……当時は王宮内で醜聞だなんだと囁かれたらしい」

「そんな無責任な……」

「真実は分からない。だが、もし違うなら、なぜ私はこのように人と違う姿をしているのだ? 白髪に赤い目などと……このような姿の者は王家にはおらぬ」

 そこまで話し終えて、体力を使いきったようにレーニエは再び瞳を閉じた。

「あなたに何の罪があるのです」

「もし……両親が他人の関係ならば、私はこんな姿で生まれなかったはずなのだ。ある人はあまりにも濃い血の故に、このような異様な姿をしていると言った。やはり私は罪の子なのだ。気味が悪いだろう?」

「そんなことをあなたに吹き込んだのは、かつて幽閉されておられた塔で、あなたの世話していたという女ですか?」

「……」

 レーニエは曖昧に視線を反らす。それは肯定の意だとファイザルは受け止めた。

「もし、その者が今私の目の前にいたら、この剣で斬り捨てて見せましょう」

「恐ろしいことを……」

 かなり疲れてきたのか、レーニエは喘ぐように枕に頭を沈めた。ファイザルは自分が寝台に身を乗り出していたことに気が付き、姿勢を正す。

「申し訳ありません、驚かせてしまいましたか」

「……いいや?」

 ゆるやかに首が振られる。

「ですが何故、今になって俺にその話を……?」

「熱に浮かされていた間、幾度も父上の夢を見た。不思議なことに、実際にお姿も、お声も聞いたことがないのに……とても鮮やかに。そして父上は微笑みながら私に手を差し伸べられた」

「……」

「そしてこうおっしゃったのだ。『そなたはもう苦しむな』と。光の中でその姿はいつしかあなたに重なって……」

「俺に?」

 レーニエは微かに頷いた。

「だから打ち明ける気になったのだと思う」

「……」

「驚かせて済まない」

「それは確かに驚きましたが。しかし、あなたはあなたです。確かに苦悩の中でお育ちになったかもしれませんが、それはあなたの性質の美しさをいささかも損なわなかった」

「……」

 赤と青の瞳が絡み合った。

「指輪……」

「おや、忘れておりました」

 ファイザルは握りしめていた指を解くと、一国の君主の身代金にも相当するほどの|稀(まれ)なる貴石がすっかり暖かくなって出てきた。

「これは母が私に下されたものだ。使者に託して」

「それがドルトン殿ですか」

「そう。秘され続けていた皇籍を放棄しようとした私が、誇りを持って生きられるように、あの方はこれを遣わせてくださったのだと思う。私はあの方のお気持ちに応えたい、しかし、これを常時身につけることもできない。だから今はしまっておく。向こうの机に……」

 言われたようにファイザルは、奥の机の引出しの奥にその指輪を入れた。後でもっと厳重に管理する必要があるだろうが、今はこれでいい。

「三番目の引出しの奥に入れました」

 寝台に引き返してファイザルは報告した。

「ありがとう。それで……私もあの方に何か御返ししようと考えたのだが、私には何もお贈りするものがない。だ……からこの絵を……この地で私はっ……」

 急にレーニエは咳込んだ。長い間話し続けて、弱った喉に負担をかけ過ぎたらしい。

「お、レーニエ様!」

 上掛けの端を掴み、体を丸めて咳こむ様子はあまりに苦しそうで、ファイザルは思わず掛布を剥いで夜着の背中をさすってやる。

「サリアさんは何をしているんだ? もうずいぶん時間がたつのに。ジャヌーの奴もいったい……しばらくお待ちください。すぐに呼んできます」

「い、嫌……!」

「え?」

「いか……ない……で……こ……こにいて」

 激しい咳の合間に、レーニエは弱々しく手を伸ばしてファイザルの袖を掴んだ。

「しかし……こんな……そうだ、水を」

 寝台の傍の小卓に水差しと小さな杯が置いてある。ファイザルはそれに半分ほど水を満たした。替えたばかりなのだろう、冷たい感触が指を濡らした。

「さぁ……少し起こしますよ。ゆっくりと」

 ファイザルは背中に腕をまわし、すっかり軽くなってしまった体を支える。そしてグラスの縁を乾ききった唇にあてがい、慎重に傾けた。少量の水を流し込む。

「……っ!」

 レーニエの頬が苦しげに歪んだ。少し口に含んだものの、荒れた喉に冷えた水が沁みてしまい、再び激しく咳込んだ。よほど弱っているらしい。

「いけない! 失礼いたします」

 ろくに喉を通らない様子なのを見かね、ファイザルは手布で濡れた口元を拭ってやると自ら杯を取り、口に水を含んだ。

 そのまま口腔でしばらくそれを温め、咳が収まったのを見計らって、口移しに水を流し込む。ゆっくりと、少しずつ……。

 レーニエは逆らわない。睫毛を伏せてされるがままになっている。

 こくりと喉が動き、彼女は水を嚥下えんげした。唇から一筋含みきれなかった雫が顎をつたうのをファイザルは吸い取ってやり、ゆっくり枕に頭を横たえる。

「少しはお楽になられたでしょうか」

 力なく投げ出された手を取ると、先ほどより暖かくなっていた。

「……熱が上がったみたいだ……」

 レーニエは上掛けで顔を隠し、小さな声で文句を言った。

 僅かに見えるこめかみがうっすら染まっている。なんて可愛らしい娘だろうか。そのいとけない様子に、ファイザルは優しくしたい誘惑に勝つことができなかった。

 掛布を整え、乱れた前髪を整えてやろうと額に触れる。肌はしっとりと指先に吸い付くようだった。自分の荒れた指の背で生え際を撫でる。領主は顔を伏せたままじっとしていた。

 この方が……国王の私生児……腹違いの姉弟の間にできた、禁忌の子かどうかはともかく、尋常ならざる美麗さも高貴さも、そのような出生故と言うのならば、腑に落ちる。

 しかも、どうにもすぐには理解しがたい複雑な事情が絡んでいるようだ。レーニエが二歳くらいの頃、父公爵が戦死し、続いて祖父であるアルフレド三世が崩御した。そしてすぐにレーニエの母がソリル二世として即位。

 しかもレーニエはそれより更に前に誰かによって拉致され、どこかの塔に幽閉されていたという。この人の出生にまつわる事情は一体……。

 だが、確かにそうなのだとしたら、俺はとんでもない秘密を知ったことになる。この方は身の危険はないとおっしゃられたが、実際はどうなのだろう。

 国王陛下は何を考えられてご自分の娘を、家令セバストの一家のみを従者としてこの辺境に遣わされたのか……。

 しかし、彼女は自ら望んでこの地に来たという。そして、少しずつこの地の住民と打ち解けあいながら厳しい冬を越し、新たな生き方を拓こうとしている。

 さっき渡された絵はこの人の意思の表れなのだ。自分がこの地と人々を愛し、つつがなく暮らしているということを国王である母に伝えようと。文字に表すことが許されない優しい思いを。

 ファイザルはそう思い至った。

 なんというお方……。

 レーニエの呼吸が深くなった。ファイザルに撫でられている内にかなり落ち着いて来たらしく、肩の力が抜けるとともに緩やかに溜息を漏らす。その満足そうな様子に、却ってどきりとなり、彼は指を引っ込めた。

 どういうつもりだ……この方は現国王のたった一人の娘、王女殿下なのだ。その体に尊い王家の血を濃く受け継いでいる。お前などが触れる資格はない。紳士の振りをしたそのけがれた指をどけろ。

「使者のこと……」

 レーニエがもごもごと言いかけ、ファイザルは我にかえった。

「承知いたしました。私自ら届けましょう。さぁ、もうお休みください。ずいぶんお疲れのようだ」

 あえて事務的に応じ、背を伸ばす。

「ん……」

「いい子にして早くよくなってください。そうだ、お身体がよくなったら、温泉にお連れいたしましょう」

 敢えて幼い子供に言うように、明るくファイザルは提案すると、ようやくレーニエは上掛けから顔を出した。

「温泉?」

「はい。砦から半日ほど入った山間に小さな山城があります。昔、まだ砦が今の規模でなかったころに街道の監視に使われたそうですが、温泉はその城の中に湧いているのです」

「城内に? そこは今でも住めるの?」

 興味を持ったのかレーニエは首をかしげた。こんな際にも癖と言うものは出るものだ。ファイザルは少しおかしくなった。

「ええ。小さい建物ですが、ちゃんと整備してあります。温泉の他に美しい湖もあって……今では傷や病を得た兵士などが休養できる療養所になっています」

「行きたい……行く」

「それなら早くお身体を直さなければ。いいですか? ご無理は決してなさいませんように」


「さぁて、そろそろいいかな? あれから半刻は経ったわね」

 厨房ではサリアが少々赤い顔をして立ち上がった。ジャヌーはさっきから気持ちよさそうに寝入っていた。お茶に香りをつけた酒の小瓶はすっかり空になっている。

「あらら、この人弱いんだわ。」

 サリアは手早く蜂蜜入りのお茶の用意を整えた。厨房ではいつも湯が沸いているので、手際のいいサリアにしてみれば、お茶の用意などあっという間にできてしまう。

「せっかく二人きりにしてあげたんだから、何か元気になるようなお話ができていたらいいんだけど……」

 ふっと笑ってサリアは厨房を出て行った。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る