第10話 9.領主の憂鬱 3
レーニエは自分がひどく動揺していることに気がついた。こんな風に誰かに自分の身に触れられたことはかつて記憶にない。
勿論、侍女のサリアは、レーニエの身の回りの世話を心をこめてしてくれる。衣服の着脱は勿論、入浴や髪の手入れまで。
弟のフェルディナンドは、レーニエの話し相手だけでなく、毎日の食事を運んできては、寡食な主のために美味しいお茶を淹れたり果物をむいたりと、甲斐甲斐しく給仕をしてくれる。
そして彼らの親である、セバストとオリイは、レーニエが居心地良く暮らしてゆけるように生活の隅々にまで気を配り、両親に甘えることができなかったレーニエの親がわりとなり、忠実に愛情をこめて仕えてくれていた。
しかし――
レーニエは、自分よりかなり高い位置にある男の顔を見上げた。
厳しい線に縁取られた大人の男の顔だった。よく見ると細かい傷が頬や、顎に走っている。
それらは既にうっすらとした筋となって残っているだけだが、おそらく剣で斬りつけられた時のものだろう。やや長めの鉄色の髪は無造作に後ろにかき上げられているが、幾筋かは額に掛かり、彼の精悍さを一層強調していた。彫りが深く、やや浅黒い顔の中で、ひときわ鮮やかな青い瞳が自分を見下ろしている。
「ありがとう……」
掠れた声は自分のものとは思えなかった。心臓が大きく脈打ち、自分の頭の中に鼓動が響く。それは、この静かな森の中で、至近距離にいる相手に聞こえているのではないかと危ぶまれるくらいの大きな音。
「瞳の色がフユコウジの実と同じですね」
自分のものよりも、深くて低い声がそう呟くのが聞こえた。
妙なことを言う、とレーニエは思った。自分の嫌いな瞳を見つめられていることに耐え切れず、顔を背ける。
この瞳の色は罪を表す、血の色なのだ。過ちの中で生まれた自分は、生まれながらに罪を背負っている。これは罰なのだ。生きている限り逃れることのできない。「血の色のようだろう?」
何も知らない男に言ってやる。知らないからそんな呑気なことが言えるのだ。しかし、彼は血の色をよく知っているように即座に否定した。
美しい?
この禍々しい赤い色が? このような瞳の色をしている者を他に見たことがない。そして、誰もがこの瞳を忌むべき色だと目を逸らすのに。
もう見つめないでほしい。そして、その大きな熱い手をどかしてほしい。レーニエは瞳を閉じてそう願った。
ファイザルは捉えられた小鹿のような若者を見つめていた。
離せと震える唇が訴える。伏せられた睫毛は驚くほど長かった。髪がこのように薄い色であるのに、睫毛は柔らかな飴色で、おそらく眉もそうなのだろう。
ファイザルは黒い仮面を剥ぎ取りたい衝動を押さえつけた。
馬鹿げている。この人は少々変わっているだけの人畜無害な、貴族様ってだけの話しで、確かに身辺警護も俺の役目だが、何も自らが深く関わる必要はないはずなのに
「ご無礼いたしました」
ファイザルは唇をなぞっていた指を外し、代わりに自分の懐の中から丈夫な布地を取り出した。
「これをお使いください」
「……?」
「フユコウジの実を持って帰られるのでしょう?」
「あ、ああ……ありがとう」
我に帰ったレーニエは気まずさから逃れるように、大げさに藪を突っつく。
「お手伝いいたします」
ファイザルも、レーニエの届かない高い枝の雪払うために腕を伸ばした。
しばらく無言で藪を探し回り、二人して雪まみれになる。
薄暮、館の庇の下で二人は別れた。
「明日はジャヌーが参ります」
「そうか……あの……よければ、フェルにもリアムと同じような大きさの馬を貸してもらえないだろうか? そしたらフェルも一緒に行ける」
互いに目が合わないように言葉が交わされた。馬を受け取りに来たフェルディナンドが、
「申しつけておきます。では」
「ファイザル指揮官……!」
馬首を返して引き返そうとする彼を、思わずレーニエは呼び止めた。
「さっき、頼んだことだけれども、本当にいつか駐屯地に連れて行ってくれないか? 絶対にお邪魔はしないから」
「ああ……そうでしたね」
「私も形だけとはいえ、一応領主だから、この地の守りをつぶさに見ておきたいのだけれど」
「それは確かにその通りです」
考え込みながら、ファイザルは答えた。
「幸い、冬の間はそれほど警戒する必要はないのです。いえ、備えは常に万全を図っておりますが……凍結する湾、セヴェレの山と谷、そして森が天然の要塞となって、北からの侵入を防いでおりますので、冬は比較的安全です。ただし、かなり寒いですが」
「大丈夫だ」
「わかりました。それではあまり雪が深くならないうちに……そうですね、十日後ではいかがですか? 皆に伝えておきます。」
「頼む」
「承知いたしました。それでは今日はこれにてご免!」
言うが早いか、馬の腹を軽く蹴り、ファイザルは遠くに見えるセヴェレの山々の方向に駆け去った。あっという間にその姿は見えなくなる。
「何かあったのでしょう?」
玄関ホールでレーニエを手伝い、マントを脱がせながらフェルは尋ねた。主をよく知る少年は「あったのですか?」ではなく「あった」と断定して聞いている。
「特に何にも。今日は南の森まで駆けた。ああ! そうだ! お土産がある」
そう言ってレーニエは、マントのポケットから無骨な生成りの布を取り出した。
「よかった。潰れてなくて……フユコウジという実だそうだ。ほら口を開けて?」
「う……なんですか?」
「いいから。さ、口を……」
訳が分からず、あーんと少年が口を開けるのへ、レーニエは一粒の赤い実を放り込んだ。
「わぷ!」
「ふふ、噛んでみなさい。甘いから」
思わず、両手で口を押さえた少年、についさっき仕入れたばかりの知識を披露する。
「む……あっ、美味しい。食べられる実なんですね。初めてです」
「彼が連れて行ってくれた場所にあったんだ。まだあるからサリアやオリイ達に持って行ってあげて。私はしばらく部屋で休む。食事は要らない」
「ダメです! すぐにスープをお持ちします」
大慌てで実を飲みこんでフェルディナンドは反対した。
「……」
「大きくなられたいのでしょう? 食べないといつまでも細いままですよ」
少年の非難めいた瞳に苦笑したレーニエは、先ほど別れたばかりのファイザルの大きな体を思い出した。広い肩幅、太い二の腕、引きしまった腰。自分などいくら頑張っても、ああは成れそうにない。
「……わかった。ではスープとパン。それからクリームを頼む」
「はいっ!」
思いがけないレーニエの要求に、フェルディナンドはパッと顔を輝かせて奥に駆けて行った。
「おかえりなさいませ」
階段の上ではサリアが待ち構えている。まるで姉が妹を優しく甘やかすように、レーニエの手を取る。
「寒かったでしょう? まぁ、こんなにお手が冷えて。御髪も湿っていますわ。さぁ、お部屋に。お召替えをいたしましょう。」
部屋は暖かく快適に整えられていた。カーテンが全部開けられているので、冬のやや傾いた日差しがいっぱいに射しこんでいる。
露台にはそれほど雪は積もってはいかったが、眩しく陽を反射していた。
「今日はあの指揮官様と何をなさいましたの?」
部屋着になったレーニエの髪を梳かしながら、サリアは尋ねた。後ろで結わえている仮面の紐も解いてやる。
「森へ行った。食べられる実を教えてもらった。乗馬も大分上達したと、指揮官殿には褒めて頂いたよ」
鏡の前に丁寧に置かれた絹の仮面を見つめてレーニエは答えた。鏡には二人の娘が映っている。
そばにいるサリアと比べてもその肌は血色が悪く、髪にも色というものがない。そして大嫌いな赤い瞳。
やはり、嫌いだ。この顔。あの人が見てもそう思うに決まっている。
「それはようございました。お屋敷ではフェルが自分もついていきたいと、ずいぶんむくれておりましたよ」
鏡を見て主が顔を曇らす事には慣れているサリアが、さりげなく別の話題を振る。
「うん、明日は連れて行こう。指揮官殿は明日は忙しいらしくて、ジャヌーが付き添ってくれるそうだから彼の馬に乗せてもらえるだろう」
身支度を整えてレーニエは立ち上がる。
その時軽いノックの音がして、フェルが食事を運んできた。銀色のワゴンを卓のそばにつけ、手伝おうとやってきた姉を煩そうに追っ払う。
「お食事です。……姉さんはもう下がってて。俺がやる」
小声で付け加える。
「はいはい。では、失礼いたします」
弟がレーニエを独り占めしたがることにも慣れているサリアは、おとなしく引っ込んだ。
「今日はこちらで採れた野菜をいろいろ裏ごししてスープにしてみました」
「ふぅん」
近頃では近隣の農家から野菜や肉を買えるようになり、行商人が少ない冬では大変助かっていると、オリイが話していたようだ。これもファイザルがいろいろと裏で手をまわしてくれたことに違いないと、レーニエはお堅いばかりではない指揮官に感謝する。
「
「勿論です、さぁどうぞ」
銀色の器からスープを取り分け、軽く焼き上げたパンに蜂蜜をぬってやる。
「うん、濃くておいしい。フェルがつくったの?」
「俺は今日は手伝っただけです」
濃いクリームを皿に取り分けながら、フェルはスープを飲んでいるレーニエを見た。
「先ほどのお話なんですが……」
「ああ……なんだったか」
「今日の外出でのことです」
ごまかされずにフェルは続けた。
「お戻りになったときのレーニエ様のご様子が気になったのですけれど、あの人となにかあったのでしょう? お二人ともなんだかすごく気を使っていて、目を合わせておられなかったし」
「……」
フェルの鋭い指摘にレーニエは答えに窮した。この少年には何もごまかすことができない。確か彼が六歳の時から仕えてくれているから、もうかれこれ六年になるが、利発な少年は、昔からレーニエが何か心に憂うことがあると、決まって率直にどうしたのか尋ねてきた。
「ふ……フェルには降参だ。何もかもわかってしまう」
「ウソはだめですよ」
「ふ……実はファイザル指揮官殿が、そろそろ仮面を外したらと言ってきたのだ」
「……」
「無理もない、王宮ならいざ知らず、こんな田舎の地では、私の身なりはよほど奇異に映るのにちがいない。ましてや向こうは軍人だ。自分が守るべき義務がある領主の顔がわからないのはさぞ気分が悪いに違いない」
「それで……レーニエ様はどうなされるのですか?」
「……まだ、勇気がない」
「私も反対です」
「……」
「たぶん私が反対する理由はレーニエ様とは違うとは思うんですけれども。用心するに越したことはありません。向こうは国軍の指揮官でしょ? 何かの拍子に面差しの似ておられるのに気がついたら……」
「あ~、それは考えなかった……でも、そんなに似ているとは思わないんだけど。あの方はあんなにおきれいでなのだし」
やはりこの人には何の自覚もないと、フェルディナンドは軽く目眩を覚えた。このままではあまりに無防備だ。
「はっきり言って結構似ておられますよ」
「……」
「だから」
「わかった。その方が賢明だな。おまえの言うことはいつも正しい」
「それと、あまりお気を許されぬ方がいいと思います。あの人に」
「何故? まじめで立派な軍人だと思うが……」
「それはそうですけど、彼はレーニエ様の従者でも騎士でもではありません。もしかしたら既に都から何か知らせが行っているかも……」
「……まさか」
「あり得ない話ではないでしょう? もともと国に仕える軍人なんですから。この地では尊敬されてるようだけども」
「しかし彼は私に対して誠実で……」
「そんなことは分かっていますが、とりあえず用心してあまり親しくならないようにしてください。いいですね」
「わかった……」
年よりも大人びた様子で少年は念を押した。
「ところで」
「なんですか?」
「お前の方はどうなの? ここで友達はもうできたのか?」
「友達……はん」
「何?」
「こんなところの奴等なんか、話になりません」
「……?」
「この間、買い出しに行った時に遠くから何人か、からかってくるので、リーダー格と思しき奴をぶん殴ってやりましたよ」
「フェル!」
「手加減はしましたよ。あ、でも、あいつ家に泣いて帰ったようだったかな?」
「……」
仔猫のように匙に取ったクリームを舐めながらレーニエはため息をついた。確かこの子は王宮の小姓たちにも一目置かれていたような……
「だいたい大勢でやってくるのが気に入らない。弱虫の証拠です」
黒髪を振り上げてフェルはきっぱりと断じた。少年の気の強さに、思わずレーニエは眉根を寄せ、組んだ手で額を覆った。
「明日だ」
「は?」
「明日、お前と一緒にその子の家まで謝りに行く。ジャヌーにも仲介を頼んでみよう」
組んだ両手に顎を乗せてレーニエは情けなさそうに言った。
「ええ~っ!」
「そうしなければ一緒に乗馬に連れて行かない。これからも」
「……っ!」
整った顔を惜しげもなく歪めて少年は無言で抗議した。その様子を無視してレーニエも念を押す。
「いいな」
「う……はい」
さっきまでかなり威勢の良かった少年の青い目が、今度は大変バツが悪そうに宙を泳いでしまった。
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