第9話 8.領主の憂鬱 2

「レーニエ様!あまりとばさないでください!」

 ファイザルは黒い軍馬に軽く拍車をくれた。

 前を行く騎馬は彼の声などまったく意に介さぬように、ぐんぐん速度を上げてゆく。そんなに大きくない鹿毛の雌馬は、今年降った最初の雪が嬉しくてならないように小さく嘶いなないて、乗り手の指示に従った。淡青い空と、それに近い白い大地。昨夜降った雪はさほど厚く積もってはいなかったが、この荒涼とした風景をさらに単一色に近いものにしていた。

 その白い世界の中を黒衣の人物が二人、馬を駆る。

 ファイザルの技量をもってすれば、乗馬を始めて間もないレーニエに追いつく事など造作もない。馬の実力からして違う。しかし、彼はあえて追いつこうとはせず、前を行く騎馬がどこに向かうのかを知ろうとした。

村は抜けてしまったから、もうどんなに駆けようとも構わない。

 馬に乗れるようになろうと決心したレーニエは、軍でも一番見習いの新兵がやるような、馬具の手入れの方法や取り付け方から学んだ。やかたの長く使われていなかった厩舎の整備だけは流石に、ジャヌーや警備に派遣された兵士が行ってくれたが、それすらフェルディナンドとともに興味深く眺めていた。

 もっともフェルの方は器用な性質たちで、少し教わっただけですぐにコツをのみ込み、レーニエができないような仕事をどんどん覚えていったが。

「だって俺が覚えてやってしまわないと、レーニエ様、ご自分でやってしまいそうなんだもの」

「う……」

「馬番を雇ったらよいと思いますが……」

 自分の小姓に言い負かされてしまったレーニエを見て、ジャヌーがとりなすように言った。

 しかしその分、レーニエは馬の世話は甲斐甲斐しく行った。飼葉をやり、毛並みに沿って丁寧にブラシをかけてゆく。耳の中をどうやって拭くか、歯列の見方なども教わった通りに経験していった。

 レーニエ用にと連れてこられた軍のお下がりの馬も、自分の新しい主を直ぐに認識し、今では顔を見る度、低くいなないて挨拶をしてくれるようになっている。レーニエはその馬に、リアムという名前をつけて非常に可愛がった。


 ファイザル自身はこのところ冬の初めに行われる新兵教練などで忙しく、なかなか領主館まで来られなかったが、来られる時には、馬の表情をどこで読み取り、どのように接すると良いのかを丁寧に教えてくれた。馬は賢い生き物で決して家畜と同様に考えてはいけないということも。

 馬の様子でどのような世話を受けているかすぐに分かってしまう。経験豊かな彼の鋭い眼からは何も隠せない。しかし、教えられたことを生真面目に実行するレーニエに、ファイザルは特に何も言うことはなかった。

 そして、一週間が過ぎた時、初めてレーニエは一人で馬にまたがることができたのだった。おとなしい雌馬は特に苛立つ様子もなく、その背にレーニエを乗せてゆっくりと歩き出した。

 馬術はどんどん上達した。ファイザルも多忙を押して乗り初めの一週間はできるだけ都合をつけ、わずかな時間でも基本的な姿勢と手綱や拍車の扱い方、そして馬という過敏な動物に、どのようにして乗り手の意を汲ませるのかを教授した。そして、若い領主は熱心な生徒であった。

 彼等は初めは館の広い庭で、そして少しずつ距離を延ばし、村の街道を練習コースとした。二人で行くときもあれば、ジャヌーが後ろからついてくるときもある。

 村の中は相変わらず静かで活気がなかったが、初めて村を訪問したころと異なり、日常の活動を行う村人たちの姿をよく見かけるようになってきた。

 彼等は一様に礼儀正しく会釈をし、中には微笑んでくれる老婦人もいたが、多くは都から来た新領主であるレーニエにどう接していいのか戸惑いがあるようで、なかなか話しかけてはこなかった。

 例外は、レーニエが初めてこの地に来た時に村人を率いてやってきたアダンという壮年の男で、彼はレーニエが初めて馬で村を通った時、わざわざ領主を道の傍で待ち受けていて、あの日のことを丁寧に侘び、これからは二度とあの世な事は起こさないと誓った。そして、何か力になれることがあれば、言いつけてほしいという申し出をしてくれた。また、傍で目を丸くしていた彼の末の娘からは、自分が作ったという甘い菓子を貰った。小さな子供からそんな事をされたことのなかったレーニエは、戸惑いながらも喜んで小さな包みを受け取った。

 焦らずに距離を縮めていけばいいですよ、というファイザル助言の元、それからレーニエは遠乗りをする時には、ゆっくりと村を通過することにした。


 前を行く騎馬は馬首を右にめぐらす。どうやら村の外れの丘に向かうらしい、とファイザルは判断した。

 美しい姿勢だ。

 いつもの厚いマントの下で、少年らしくしゃんと腰を伸ばしながらも馬に体を預けている。

 レーニエは体格は小さくとも勘はいいらしく、ファイザルの教え方の優れたこともあったろうが、基本的な姿勢や馬に対する言葉かけのコツはすぐに会得した。馬との相性もいい。

 黒いマントの裾がはためく。つば広の帽子が飛ばないように、紐で顎に結わえていたが、それでも時折風を孕んで背中にずり落ちそうになっていた。その度に銀髪が凍てつく冬の日差しにきらめいた。

 馬が止まったところは村の出口の森のほとり。最初にここに来た日に通った街道の上にあたる。そこからは周りより高い丘になっていて、村が一望できた。

 ブルルルル

 馬が得意そうに鼻を鳴らす。乗り手の意思に報いたことが分かっているのだ。

「……腕を上げられましたな」

「……」

 ファイザルの褒め言葉に、黒い帽子の下から見える唇の両端が少し上がったようだった。

「前から思っていたのだが、この寒いのに沢山咲いているあの赤い花は何という?」

 レーニエは村にも荒野にも雪の間に紅色に咲き乱れる花を指していった。

「ああ、リルアの花ですね。北国の花で冬にしか咲かないので私も初めは珍しいと思いましたが、ここではありふれた雑草です」

「そうか……美しいな。雪を花弁に乗せて……」

 レーニエは手近の花に積もった雪を払ってやった。ほのかな香りが立ち上る。

「雪の日に屋外に出たのは初めてだ……雪とはこんなに軽い物だったのだな」

声はいつものように低くしていたが、そこに若者らしい弾みが含まれている。

「都に降る雪とは違いますか」

 それほど大事にされていたのかと、ファイザルはまたしてもこの不思議な人物の生い立ちに興味がわいた。

「ああ、あそこの雪はもっと重くて、水っぽくてすぐに溶けて汚れてしまう。けど、一生懸命に窓から手をのばして触ったものだったな」

 レーニエは馬から降りて、足もとの雪を掌にすくった。

 冬の厳しい土地に降る雪は乾いており、さらさらと風に飛ばされてゆく。足首まで雪に埋まったレーニエは残りの雪を握りしめて雪玉を作り、腕を振りあげて遠くに投げた。

「ここからは村がよく見える」

 一晩で荒地の枯葉色は雪化粧を施され、見違えるようになっている。ファイザルには何の変哲もないこの田舎の冬景色を、レーニエは珍しそうに眺めていた。

「左様でございましょう」

「畑、家、館……ぽつぽつとしか見えないな……警備隊の駐屯基地はどのあたりになる?」

「館から街道沿いに馬で半時足らずのところ。ちょうどこちらと反対側にある、セヴェレ大森林の入口あたりになります」

「いつか連れて行ってはもらえまいか?」

「構いませんが、男ばかりのむさくるしいところですよ。皆はご領主さまのおいでを喜ぶでしょうが。普段は訓練と、軍務だけの日々ですからね」

「見てみたい……」

 そう言ってレーニエが空を見上げたとたん、強い風が丘を駆け上がり、帽子が高く吹き飛ばされた。

「お……!」

 幸い馬上にいたファイザルは腕をのばして受け止める。

「ありがとう」

 帽子を受け取ろうと伸ばした手を、ファイザルはやんわりと無視した。

「レーニエ様」

「何か?」

「そろそろその仮面を外されませんか?」

「……!」

 黒い手袋をはめた指先がびくりと震えるのがよくわかった。自分より身分の高いものを馬上から見下ろすのは、言語道断の非礼に当たる。しかしファイザルはあえて、その無礼を働いていた。

「あなたのお顔がどんなであろうと、俺は気にしません。そもそも外見がそれほど大事ですか?」

「私は……」

「お屋敷の者には見せているのでしょう?」

「……」

 屋敷の者とは、レーニエが子供のころから世話をしている家令セバストの家族のことだ。

「彼らはあなたを醜いとは言わないでしょう?」

「それは……もう見慣れているから……」

 言いよどんで、ファイザルに瞳の色を見られないように、レーニエは視線を村の方向に彷徨わせた。

「私にはいまだ慣れてくださいませんか?」

「……済まない。不快な気分にさせていたのなら申し訳がない」

「謝ってほしいわけではありません。私をまだ信用していただけないことが情けないだけで」

「違う。あなたの問題ではない。これは私の……」

「あなたの?」

「私は外見が醜いだけではない……深くは聞かないでほしいが、私の存在自体が喜ばしいものではない」

「……どういうことです」

「……話せない。今はまだ」

 言葉を濁し、後ろ姿のまま俯いてしまったレーニエの肩が、かすかに震えているのをファイザルは見とめた。

 よほど深い事情があるのか……

 彼は無言で馬を下りる。その気配を察して、レーニエは振り返った。

「済まない……いつかあなたには話せたらとは思……」

 がっしりとした手が不意に肩に置かれ、レーニエは目の前の男を見上げた。深い青い瞳が自分を見つめている。何も言う暇もなく、彼は片膝を折って雪の中に跪(ひざまず)いた。

「申し訳ありません。出すぎたことを申しました。お許しください」

「ファイザル指揮官?」

「私をお許しくださいますか?」

「あ……ああ」

 ふっと青い目が細められた。

「それでは、この話はこれで終わりということにして、いいものをご覧にいれましょう。この時期にしか見られないものですが、如何ですか?」

 突然立ち上がった彼は明るい声で提案した。

「いいもの? それは?」

「行けば分かります。言葉では言えません。どうされます?」

「行く……!」

 二人は再び馬上の人となり、今度はファイザルが先導して背後の森に入っていった。

 ここは砦の近くの広大なセヴェレ大森林とは異なり、日の光が射す明るい森で、それでも木々のおかげで雪の深さは荒野よりも少なく、徒歩でも歩きやすい。

「え~と、どのあたりだったかな?」

 奥へ奥へとゆるやかに馬を進めながら、ファイザルはしきりに地面を気にしている。いつもの謹厳な彼の態度とは異なり、まるでいたずらっ子のように見えた。

 その様子が珍しく、又、彼が何を探しているのか見当もつかないレーニエは、黙って後をついてゆく。

「ああ、このあたりだ」

 程なく、少し木々がまばらになった斜面の下でファイザルは馬を下りた。斜面には藪が茂っており、こんもりと雪が積もっている。つられてレーニエも馬を下りた。

「……?」

 ファイザルはマントを肩に跳ね上げ、ごそごそとやぶのなかに両手を突っ込んで、雪をかき分けている。

「おお、あったあった」

 振り返った彼の手には赤い実がひとつ乗っていた。それは小鳥の卵ほどの大きさで、木漏れ日を受けて宝石のようにきらきらと輝いている。

「フユコウジの実です。ご存じですか?」

「いや、知らない」

 黒い手袋の上の赤い実を珍しそうに眺めながら、領主は首を振った

「これはこの時期にしかならない実で、生る数は少ないのですが、実に美味いのです。一ついかがですか?」

「え! 食べるのか?」

 レーニエは非常に驚いて声を上げた。

「そうですが?」

「私はもいだ実など食べた事がない」

 とんでもないものを見る目つきで、レーニエは後じさる。

「ああ、それなら指をくわえて、俺が食うのを見ていてください」

 言うが早いか、ファイザルは赤い実を口の中に放り込んだ。そのまま歯で噛み潰す。

「ん! 冷えてて甘い」

 そう言うと、彼は再び藪を掘ってごそごそ探し始めた。

「おお、ここにも!」

「……」

 好奇心に負けて覗き込んだ領主の前で、ファイザルは再び実を口にし、にやにやしてこちらを見ている。探すくらいはいいだろうと、レーニエも雪をかきわけて藪を探してみると、ほどなく鮮やかな赤い実を見つけた。雪に映えて実に美しい。

 試しに一つちぎってみる。プツンという手ごたえと共に、掌に実が残った。

 野生の|実生(みしょう)をもいだのは生れてはじめてだった。

「……」

 胡乱うろんそうに手の中のものを見つめる。確かに色は美しい。それにいい匂いがする。

「おや、食べないのなら俺にください」

 もいだはいいが、食べる勇気が出ず、実を陽に透かせて色を楽しんでいるご領主様に、ファイザルは意地悪く声をかけた。

「う……」

 しばらく指先につまんだ実を眺めていたレーニエだったが、面白そうに見ているファイザルに挑戦するように、思い切ってえいと口に放り込んだ。

「んっ」

「いかがですか?」

「……おいしい! 甘い」

 フユコウジの皮は薄く、歯で押すとすぐに破け、冷えた甘い果肉が飛び出てくる。香りもよいが、実が小さいので直に食べ終えてしまうのが難点だった。一つくらいでは満足できない味だ。

「だから言ったでしょう。この実は貴重なんですよ。この場所は俺が去年見つけて黙っていたくらいで」

「種が……」

 果肉を嚥下した後に口に残る小さな種がある。

「ああ、それはこうね」

 言うとファイザルは、頬を膨らませて、ぷっと勢いよく遠くに種を飛ばした。

「……」

「ふ、冗談ですよ。あなたはマネしないでください。フェルにどやされま……」

「っ!」

 ファイザルが止めるのも聞かず、愛らしい唇を尖らせてご領主様は種を飛ばされた。残念ながら勢いほどは飛ばず、彼の大きな軍靴の足もとに力なく落ちただけだったが。

「……行儀が悪いですよ」

「いいんだ」

 最早ファイザルの言うことなどに耳を貸さず、レーニエはわさわさと藪に分け入っていた。

「あ! あった」

 甘いものはお好きらしいな。

 自分の思惑がうまくはまった彼は、今は夢中になっている若い領主を見守る。緩く編まれた銀髪が枝に絡んで解けても気が付いていない。

「そうだ! フェルやサリアにも持って帰ってやろう」

 そう言って振り返ったレーニエにファイザルはどきりとした。

 黒いマスクの下の白い肌は寒さのせいか、いつもより血色がいい。そしてその下の唇は、フユコウジの汁に染められ、まるで紅を引いたように赤く濡れていた。

 この方はご自分をなんだと思っているのだろう

 自分が人の目にどう映っているか娘のように気にするわりに、本当のところはわかっていないのではないだろうか? 家令一家があえて何も言わないのは、別の理由があるからかもしれない。

「あ……痛」

「ああ、これはいけない。髪が枝に絡んでいます。解きますので動かないでください」

 ファイザルは手袋を脱いで、フユコウジの小枝に絡んだ銀の髪を器用に解いてやった。

「はい、いいですよ」

「ああ、ありがとう」

「それと……失礼。汚れています」

 ファイザルは手をのばしてレーニエの顎をつかみ、果実のせいで真っ赤に染まった唇を親指でぬぐった。自分の指が触れたとたん、冷えた唇がびくりと震えたのが伝わる。

 彼はゆっくりと唇を染めた赤い汁をぬぐいさり、汚れた指先を自分の舌で舐めとった。

「ああ……ありがと……う?」

「いえ」

 触れた部分のあまりの柔らかさにファイザルは驚いていた。

 これが男の唇だというのか?

「瞳の色がフユコウジの実と同じですね」

「……え?」

 レーニエは驚いたようだった。慌てて顔をそむけようとするが、がっしりと顎を捕まれていて逃げられない。

「まるで紅玉だ」

「……血の色のようだろう?」

 視線だけ逸らせて苦々しげにレーニエは言った。

「血? 血はこんなに美しくはありません。私はたくさんの血を見てきましたが」

 静かな低い声に訳もなく身がおののく。

「は……離して……」

 か細い声に、やっとファイザルは指を解いてか細い顎を離してやる。


 白く明るい森の中はしんと静まり返っていた。





 

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