第8話 7.領主の憂鬱 1

 この館を訪問するのはこれで三度目だな。

 長身のファイザルの背を大きく上回る正面扉を開けたのは、家令のセバストだった。

 サリアによく似た人の良さそうな顔に、柔和な微笑みを浮かべた彼は、うやうやしく辞儀をし、外套を受け取った。その様子はかたくなだった村人と、レーニエとの橋渡しをしてくれたファイザルに好意を持っているように見えた。

「ようこそいらっしゃいました。レーニエ様が先ほどからお待ちかねです。こちらへ」

 レーニエと共に村長宅を訪問してから二日が経っていた。

 その間、ファイザルは忙しく立ち回り、通常の訓練や職務の他、村人との折衝や自身の勤務状況を見直し、少しは領主の為に空き時間が取れるように取り計らった。

 また、あらかじめ考えてあった領主館の警備体制が、実際にうまく機能しているかどうかも常に報告を受けていたから、新しい任務であるこの役割が思いの他、兵士たちに好評なのも知っていた。どうやら領主館での待遇は良いらしい。ただ、だからと言って気の緩みは許されない。今も城門で二人の警備の兵士に激励の言葉を掛けてきたところだ。

 セバストと共に玄関ホール中央の大階段を昇る。廊下を左に折れると、侍女のサリアが待ち構えていた。彼女もにこやかに微笑みを浮かべてファイザルに挨拶し、父親から案内役を交代する。

「おはようございます、ファイザル様。ご領主様はこちらでお待ちです」

 古い領主館の廊下は暗く長い。

 建てられた年代が年代なので、様式が古いのは仕方がないとしても、敷物を明るい色に取り換えるとか、方々に蜀台を置くなどして、もう少し住みやすくできそうだとファイザルは考えた。

「レーニエ様、ファイザル様が参られました。お通し致してよろしゅうございますか?」

 サリアは一番奥から一つ手前の扉をノックする。この棟の左側すべてが、レーニエが普段使用している部分らしかった。中から微かな応えがあったようだ。


「おはようございます。午前中からまかり越して申し訳ございません」

「入りなさい」

 通された部屋はいつもと同じ書斎で、レーニエは書見をしていたらしく、厚い本が机に広げられていた。彼の来訪にすぐに立ち上がる。例の仮面はしたままだが、見事な銀髪は緩く編まれ、部屋着のままでくつろいでいたようだった。

 そばにはいつもの黒髪の少年が控えている。彼はファイザルを見ると、あまり面白くなさそうに、灰青色の瞳を向け、後ろに下がって茶の支度を始めた。

「おはよう……お忙しいのに、私などのために申し訳もないことだ」

「今日はお約束の馬を連れてまいりました。下に連れてきてあります」

「そうか……見に行ってもいいか?」

 馬と聞いてレーニエはパッと顔を輝かせた。

「ええ、しかし。馬具が届くのが遅れていて……午後には参るとは思うのですが」

「私のためにわざわざあつらえてくださったのか?」

「ええ。馬は軍用には向かない小さい種類のもので、それに合う鞍がなかったものですから……いまジャヌーがアルエの町まで取りにいっています。」

「ありがとう……ファイザル指揮官」

「ヨシュアと呼んでくださいませ」

「いや……それはやっぱり止そう。美しい名前ではあるが、あなたは私の私人ではないし。少なくとも今は、職名で呼んだ方がふさわしいと思う……私がおもい違いしないように」

「あなたが何をおもい違いすると?」

 自分の名前を美しいと言われたのは初めてだった。その言葉を紡いだ人から、もっと言葉を引き出したくて、ファイザルは言葉尻を捕まえる。

「……」

 淡い色の唇が少し歪んだように見えた。

「指揮官殿、あまり馴れ馴れしい言葉使いは慎んでいただきたい。領主様が困っておいでです」

 ちょうど二人の間で淹れたての茶を注いでいた少年は、ポットを置くと、うつむいてしまった主を庇うように鋭く客人を見た。灰青の瞳がきらりと光る。

「これは失礼を」

 自分の半分以下の年のフェルディナンドの指摘を受けて、ファイザルは素直に謝罪した。

「フェル、よい。私はファイザル殿と話がしたい……少し外してもらえるかな? 後で一緒に馬を見に行こう」

 特に少年をたしなめるでもなく、優しく部屋から出るように促す。若い領主は優しい主人のようだった。

「……承知いたしました」

 言われて一礼し、少年は下がる。あとには少し微妙な空気の二人が残された。

「あなたを崇拝しているのですね」

 先に沈黙を破ったのはファイザルの方だった。

「崇拝? いや、フェルは数少ない私の……そう、家族だ。大切な」

「レーニエ様にはお身内はおられないのですか?」

 いえ、彼があなたを見つめる瞳に込められた思いは、身内の情などというものではないでしょう、という言葉は飲み込んで、ファイザルは思い切って別のことを聞いてみた。

「以前は母が。今ではおらぬ……と申してよいかと思う……時に、ファイザル殿」

 意外にもレーニエはその問いに応じた。しかし、間を数えるようにゆっくりと茶を飲みくだした後、話題を変える。

「はい」

「指揮官殿にはこの地に赴任されて何年になられる?」

「まだ一年と半年ですが……なぜです」

「セバスト達が教えてくれたが、あなたは村の人たちからずいぶん信頼されているようだ。僅かの期間になかなかできないことだと思う。」

「はぁ。褒められるのは面映おもはゆいですが、俺はもともと平民なんで、貧しいものの気持はよくわかるというだけで」

「ご出身は……伺っても?」

「ええ、俺の出生なんて隠したところで仕方がありませんので。南のウルフィオーレの出身です」

 ウルフィオーレは南西の国境の町。都をはさんで、このノヴァの地とはほぼ正反対に位置する遠いところだ。

 レーニエは知識でしか知らないその場所を思い浮かべようとした。

 確か、豊かな鉄鉱石や、希少な鉱物を産する鉱脈があるというその地方は、それ故に、隣国からよく狙われ、歴史的にも紛争が絶えたことのない一帯だった。

「あの辺りは戦が絶えないと……」

「ええ。子供のころから戦は日常でした。兵士が落としていった剣がおもちゃでしたね」

 何でもないように彼は頷く。何気なさそうに鉄色の前髪をかき上げた時、北の人間よりやや浅黒い額に白い傷跡が見えた。

「あなたのご家族は」

「さぁ……物心ついた時には、既に育児院にいましたから。着ていた服に縫い付けられていた名前と、生年月日だけがりどころで」

「……」

「ああ、そんな顔をなさらないでください。そんなに珍しい境遇という訳ではないですから」

「人が死ぬところを見た?」

「ええ、そりゃもう、嫌になるくらい……だから生きるためには何でもしましたね、あまり自慢できないような事も含めて。死なないために軍に入ったようなもので。もうこれで十七年になりますが」

 軍に入隊する年齢は人それぞれなので、十七年という軍歴が年齢を表すことにはならない。おそらく自分より十は年上だとは思うが、そんな若さで一群の指揮官を任される事は殆どないはずだ。レーニエは突然相手の年齢が知りたくなった。

「……あなたのお歳は?」

「もうすぐ三十一になりますが」

 彼の外見が年齢より若いのか、老けているのか、今までこういう人種を見たことのないレーニエにはわからない。ただ、そんな年齢の人間が、千人の兵士を率いる指揮官だということは驚きだった。

「ご苦労をされているようだ」

「ははは……男ばかりの中でひどい暮らしをしていますからね」

 レーニエがそういう意味で言ったのではないことは分かっていたが、ファイザルはあえて軽い方向に話を向けた。

「奥方は?」

「オクガタ? ああ、妻のことですか?いや、一年の半分以上、基地暮らしのむさくるしい軍人に添ってくれるご婦人はいないでしょう」

「……」

 大きな手には滑稽なほどに小さく見える、華奢な持ち手の付いたカップを持ち上げ、冷めかけたお茶を啜る。何気なく後ろに流した髪が、幾筋か額に落ちかかるその容姿は、男らしく清潔そうで、決して彼が言うようにむさくるしい感じはしない。

「ん?」

 顔をあげたファイザルと不意に目が合う。

「ああ、近頃不精をして、髪を切っていませんから……お見苦しくて申し訳ありません。

 冬はどうしても村の床屋まで行くのが億劫で……去年の冬、ジャヌーに刈ってもらったことがあるんですが、そりゃあ酷いことになりまして……」

「ひどいこと?」

「ええ。奴が左右の長さを整えようとするんですが、これがうまくいかなくて、少しずつ切っているうちにほとんど髪がなくなっちまいまして……おかげでしばらく帽子が手放せませんでした」

「くっ……、あはは……」

 おや、笑ったぞ

 初めて聞くレーニエの笑い声は、蕾がほどけて花が開くような心持がした。重々しい態度を崩さないこの少年が声を立てて笑うとは……

 ファイザルも決して口数が多い方ではないし、都の伊達男のような洗練された話術などカケラも持たない。

 しかし、話すことが嫌いという事ではなく、ユーモアを解さない朴念仁でもない。その気になりさえすれば、たいそう人を愉快にさせることもできる男だった。

「以来、奴にはハサミを持たせません」

「気の毒に……」

「まったくです。ですが、髪と言えば、レーニエ様はなぜそのようにお|髪(ぐし)を伸ばしておいでで? いえ、たいへんお美しいと思ったもので」

「こんな白い髪が? いや、特に意味はないが、そう……私の家では昔、編んだ髪を首に巻いて戦ったことで、首が飛ばされずに命拾いした者があるということで……それ以来、験を担いで伸ばすようになったらしいが……」

「短い方はいらっしゃらない?」

「いや……別にしきたりという程のものでもないから、伸ばさないものもいると思う……しかし、そう言えば、今までちゃんと考えたことはなかったかもしれない」

「由緒正しいお家のようですね」

 この若者の事をもっと知りたくて、ファイザルはやんわりと水を向けてみた。

「由緒? 実はあまり知らないのだ……皆私のことなど……いや、よそう、私の話など……それより馬を」

 しかし相手も易々とは乗ってこない。ファイザルはすぐに|矛(ほこ)を収める。

「そうでしたね。ついお話が面白くて話し込んでしまいました。今から見にゆかれますか?」

「そうしたい」


「フェル、庭へ行くよ?」

「はい!」

 ホールの踊り場で待ち構えていた少年に声をかけ、若い領主は率先して階段を降りた。その足取りはいつになく軽いようで、マントと帽子を着せかけるフェルディナンドもいぶかしみながら付き従う。

 正面扉はファイザルが開けてやった。外は眩しいほどよく晴れている。流れ込む冷たい冬の大気の中に、一筋の柔らかな香りが混じった。それは城壁を埋めるように咲いている薄紅色の冬の花から漂って来るようだった。

「あれが?」

 眉をよせ、瞳をすがめながら、レーニエは正門の脇の馬止めに繋がれた鹿毛かげの雌馬を見ようとした。

 冬のといえど正午近い時刻。長く屋内にいた者には戸外はやはり眩しい。透きとおった赤い瞳に、この日差しはどのように映っているのだろうか?

「はい。こちらへ引いてきましょう。少しお待ちを」

「いや、私が行こう」

 言うが早いか、レーニエは大股で馬のほうに歩きだした。

「……これが?」

「ええ五歳の雌馬で。おとなしい性格の可愛い奴ですよ。軍用馬でしたが、体が大きくないため、今までは荷を運ぶことが多く、馬具などはなかったので……おや、ちょうどジャヌーが戻ってきました」

 街道の向こうから、ぽくぽくと騎馬がやってくるのが澄んだ空気の中に見えた。三人はしばらく、気持ちよさそうに進む馬と人を見守った。

「ただ今戻りました」

 金髪の青年はひらりと馬を下りる。

「ご苦労。ずいぶん早かったな……昼を過ぎると思ったが」

「お待ちだと思ったもので……」

 ジャヌーはそう言うと、傍らに佇んでいる領主に深礼をとった。

「私のためにアルエの町まで? ……すまない」

「いえとんでもございませぬ。……いろいろ報告書を出したり、他の御用も言いつかっておりましたので……それに指揮官のお計らいで一泊させていただきましたから、普段の教練よりもむしろ楽なくらいで……」

 ジャヌーは顔をさっと赤らめて、上げかけた頭を再び深々と下げた。

「さぁ、それでは馬具のつけ方から始めましょうか?」

「え?」

 ファイザルの答えに、ジャヌーが驚いた。

「なんだ?」

「いえあの……馬具などは自分が……」

「いや……馬に乗るということは、馬のことをよく知るということだ。そのためには馬具の正しいつけ方や、手入れの仕方、そして馬の気持ちに寄り添い、信頼を得ることから始めなくてはならない。そうすることで初めて馬が己の命を預けるに足る、良い乗り手になる……いつも言っているだろう?」

「しかし……」

 たかが、お貴族様の娯楽ではないか、そこまでしなくても……そう言いたげな表情がジャヌーの正直な顔には浮かんでいる。

「よい。教えてくれ。私は馬具の仕組みや部品の名前も詳しくは知らぬ」

 レーニエは頷いてファイザルを見上げた。生真面目なその横顔をフェルディナンドも見つめる。

「よろしい……ではまず、ジャヌーの持ってきた荷を解くことから始めましょうか?」

 ファイザルはニヤリと笑って、目を輝かせている若い貴族に向かって片目を瞑って見せた。




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