ノヴァの地の新領主

第2話 1.北方辺境の新領主 1

 枯草が覆う荒野の道を馬車が行く。

 そろそろ薄暮になろうかという初冬の空は、どこまでも淡い紫の色合い。

 はるか遠くには空を切り取る、鋭い稜線の山々の連なりが見える。吹きすさぶ風に、丈の高い乾いた草がざわざわと揺れるさまも寒々しく。

 古いわだちの残る乾いた道には、行き交う旅人や、家路に向かう農夫の姿もなく、ひたすら北へ北へと延びていた。

 馬車を引く二頭の馬の毛並みは白茶けていて、ともすれば色のない辺りの風景に紛れてしまうが、馬車自体は黒く塗られ、もしも高みから見下ろせば、白い布地に這う小さな虫のように見えるのではないかと思われた。


「あとどれぐらいなの?」

 馬車の中に座っている二人の人物のうち、進行方向に背を向けている方が、小さな窓から外の御者に向かって声を張り上げた。

 声を上げないと車輪の音に呑まれてしまうのだ。旅行用の小さな帽子を深く被り、重いマントをはおっているが、声の高さから若い女とわかる。向かいに座る黒い人影は、先ほどから身動き一つしていない。

「はぁ。後、二時間ほどでしょうか? この先に小さな森があり、それを抜けると村が見えてきます」

 御者が振り向いて答えた。

「そうなの。……だ、そうですよ。レーニエ様?」

 レーニエと呼ばれた人物は、被っている大きな帽子のつばを僅かに下げた。

聞こえたということだろう。ほとんど動きのない動作だったが、若い女にはそれで十分だったらしく、にっこりと微笑む。態度こそ気が置けないが、女は忠実にレーニエに仕えているのだ。彼女は黒に近い髪をきつく三つ編みにしてぐるぐると後頭部に巻きつけているが、きれいな女だった。

「これで今日からはちゃんとした寝台で眠れますわ。母さんたちが頑張ってお屋敷をすっかり準備が整えていたとしての話ですけれど。まったく昨日の宿と言ったら! お部屋は狭いし、お湯は足りないし!」

 唯一の話し相手が一向に返事をしないことなどお構いなしに、女はしゃべり続ける。返事のないことには慣れているらしい。

「本当に、レーニエ様も文句の一つもおっしゃればよかったのに。お人がいいものだから言われた額をそのままお支払いになったけど、あんなの絶対ぼったくりですわ! 渡した宿代の半分くらいの値打ちの食事しか出なかったし、お風呂がまだよかったから、私も我慢してやりましたけど!」

 そこで女は一息つき、愛情をこめて主を見つめた。

「でもまぁ、レーニエ様は、生れてはじめて旅に出られるんだし、何もご存じなくて当然ですわね。だいたい、こんなところに出向くのだって……」

「……てきた」

 黒い衣で覆われた人物は、ほんの少し頭を傾けて言った。目深まぶかに被った帽子の下から窓の外に視線を向けたらしい。低い声は、車輪の音が響く馬車の中ではほとんど聞き取れない。

「え? なんございますって?」

 答えず、レーニエは帽子や服と同じ黒い手袋をした指で窓外を指す。つられて覗き込んだ女が嬉しそうに声を上げた。

「まぁ、森が! じゃあ、もうすぐですわね! 宿の女将が森を過ぎたら見えてくるって申しておりましたもの。やれやれ、やっと休める。レーニエ様もお疲れになったでしょう?」

 応えは、帽子の影の薄い頬笑み。こちらからは見えない瞳はひたすら窓の外を追ってるようだった。

 薄い空の向こうに黒々と森が迫る。針葉樹林らしい尖った梢が判別できる距離に近づいてきた。道は徐々に起伏が激しくなってくる。

 しばらく二人は無言で馬車の背に身をゆだねていた。


「どうっ! どぉうぅーっ!」

 ガタンと大きく馬車が揺れた。御者が馬を急に止めたのだ。

「キャアッ!」

 女はしたたかに背後の壁に頭を打ちつけ、向かいの人物は前のめりになり、女の膝の脇に両手をついて体を支えた。そのまま二人は丸くなってお互いの体を抱きしめ、次の衝撃に備える。

 ずいぶん長い時間のようにも思えたが、実際にはすぐに揺れは収まり、馬車は完全に停止した。

「レーニエ様! お怪我は!?」

「……大丈夫だ」

 主の落ち着いた言葉に女は直ぐに立ち直り、激しい口調で小窓に向って怒鳴った。

「なに! 何が起きたの? 御者!」

 しかし、答えはない。茶色の外套を着た御者の背中が見えるだけである。様子がおかしい。

「ちょっと! 一体どうしたっていうの? 答えなさい」

 少し待ったがやはり答えはない。もしかして怪我でもしたかと女が腰を浮かすのを、ずり落ちそうになった帽子を整えながら、向かいに座る人物が腕をあげて止めた。

「待て、行くな。サリア」

 高くも低くもない不思議な声。こちらも相当若いことだけは伝わる。しかし、それだけ言っただけで、その人は口を閉ざし、鋭く外の気配をうかがっているようだった。

 しかし、狭い馬車の窓からは、ただ荒野が広がるだけで何ひとつ見えはしなかった。

 しばらくして業を煮やしたかのように、女が早口で言いかけた。

「大丈夫のようですわね。私、下りて様子を……」

 言いながら、外套の内側に手を差し入れた。おそらくその中には短剣が忍ばせてあるものと思われる。

「駄目だ!」

 女の意図を察し、声は小さいが鋭い応えが放たれた。

 女はその声によほど驚いたように息を引いた。主が声を上げるなど、滅多にないことだったからだ。

 黒い人物は、身振りで座席の下に身を伏せるように合図を送った。

 その時。

 大きな音を立てて馬車の扉が開いた。

 この馬車には一つしか扉はない。その扉が全開になったと思うと、鈍い光を放つ長剣が飛び込んできた。――二つ。

 それは交差しながら、前後の座席に座る二人を狙っていた。

「!」

 女が声を出さなかったのは称賛に値するだろう。彼女は茶色い大きな瞳を見開き、ひたすら目の前の人物を凝視していた。その手は外套の内側に隠されたままである。

「両手を頭の上において馬車を降りろ」

 扉の向こうで男の声がした。しわがれているが、乾いた空気の中ではよく通る。

 女は主を強く見つめた。

「レーニエ様! 下がって!」

「大丈夫だ。サリアは私の後にいなさい。そして、それは見せてはいけない」

 帽子に隠された視線は、女の手元に注がれているようだ。

「いけません。ここは私が!」

「いけない。私が先に下りる。サリア、くれぐれも軽挙は控えるのだ」

 そう言うと、女が立ち上がろうとするのを腕をのばして制し、黒服の人物は、ゆっくりと腰を上げ、狭い馬車の中では立ち上がれないので、マントの裾をたくし上げながら腰を屈めてゆっくりと馬車を降りた。

「おおっ!」

「出てきたぞ! こいつか!」

「ずいぶん小さいな。ただの小姓じゃないのか」

「いや、まだ中に誰かいる」

「降りて来い!」

 いつの間にか馬車は十人くらいの男たちに囲まれていた。

 馬の前に二人。これが御者に馬車を急停車させた元凶だろう。そして左右に三人ずつ、真後ろに二人。

 皆一様に身なりは貧しいが、手に手に古めかしい長剣を持っている。手槍をもつ者もいた。

 彼らは馬車が通る直前まで、道のわきの草むらに潜んでいたらしい。

「怪しい真似をするな。手を上で組め……ようし、そうだ。もう一人も早くしろ」

「レーニエ様」

 サリアもえんじ色の外套の裾を引きずり、レーニエの後に続いて馬車を降り立った。主人の命に従い、すぐに両手を頭の上で組む。

「女か。おい! お貴族様はどっちだ。二人とも小さいし、着ているものもぱっとしねぇぞ」

「つか、たった二人きりなのか?」

「都からいらした御領主様がか?」

「後ろに軍隊でもいるんじゃねぇのか」

「馬鹿、それじゃあ順序が逆だろうよ」

 男たちは口々に喋りはじめる。

「……」

 レーニエが前を見ると、御者台の上では同じく、若い御者が剣を突き付けられていた。彼は見る影もなくがたがたと震えている。

 先頭に立つ大柄な中年の男が、二人を見比べながら落ち着いた足取りで進み出た。どうやらこの男がリーダー格らしい。

「レーニエ・アミ・ドゥー・ワルシュタールというのはあんたか」

「私の名だ」

 レーニエは短く答える。

「俺はアダン。ただの農夫だ。この先はノヴァゼムーリャという、広いだけの貧しい土地だ。今まで名ばかりの天領として、国から長い間放って置かれてきた」

「……」

「そこに今度新しい領主がやってくるという。それがあんたか」

 答えはなく、黒い帽子が下がる。申し訳のように飾られた羽飾りが、強い風にふわふわと揺れた。

「おいアダン! やっぱり間違いないようだぞ!」

「おお!」

「とっとと都に帰れ! お貴族様はよう」

「アダン、もう一度馬車にたたき込もうぜ! なぁに。怪我をさせなければ大丈夫だ」

「こんなひょろひょろ野郎、すぐに泣きだすぜ」

「そうだ!」

 後ろの男たちが声を上げる。

「まぁ待て。……聞いた通りだ。あんたは歓迎されていない。思ったより質素な身なりなんで、ちょっと拍子抜けがしたが、あんたがワルシュタール殿なら間違いない。命までは取ろうとは言わない。ただ、黙って都に引き返し、この地に領主は不要の事情があるようだと政府のお役人に伝えてくれ」

 アダンはゆっくりと言った。

 風がざわざわと荒野の上を渡ってゆく。

「……それはできない」

 悲しげな声が言った。

「なんだと!」

「若造、痛い目を見たいのか」

「下手にでりゃあ、つけあがりやがって」

「構わん。引きずり倒せ!」

「取りあえず召使いを目の前で痛めつけてやれ!」

 アダンの後ろで男たちが騒ぐ。中の一人は長い槍の柄でぐいっと御者の額をこ突き、よろめいた御者は馬車の上から転がり落ちた。

「ひいいっ! 殺さないで!」

 まだ大人ともいえないような若い御者は、そのまま車輪の横で泣きながらうずくまってしまった。

「止せ、早まるな」

「どいてくれアダン。まずはこいつからだ」

 男たちが勢いづいたその時、今までほとんど動かなかったレーニエが、初めて一歩前に踏み出した。その動きは静かだが不思議な雰囲気があり、口々にがなりたてていた男たちは、ぎょっとして動きを止めた。

「武器は持っていない。抵抗もしない。彼はこの前の街で雇っただけの者で、私の召使いではない。だから、放してやってくれないか」

「……」

 アダンは軽く驚いたように、黒一色で出来上がった人物を見つめた。

 顔は見えないが、思ったよりもよほど若い。

 もしかしたら自分の息子たちと同じくらいの年頃ではないだろうか? 武器を持った十人の男たちを前に、さほど動揺した風もなく、まず使用人を庇った。

 いったい、どういう人物だ?

 しかし、レーニエはそれだけ言うと、またしても影のように沈み込む。

「……よかろう。御者を放してやれ」

 アダンは振り返りもぜず仲間に命じた。

「アダン!」

 隣に立つ金髪の若い男が咎めるように、年配の男を見上げる。

「放してやれ」

 再びアダンが低く告げると、御者を脅していた二人の男が退いて、立つように促す。

「ご領主さまのお情けだ。行け」

「わぁっ」

 アダンが言うも終わらせず、御者はじりじりと後じさり、そのまま振り返りもせす転がるように走り去ってゆく。

「真夜中までには、来た町へ戻れるだろうさ。追剥おいはぎにでも逢わなけりゃな」

 低いつぶやきが聞こえたかどうか、レーニエは何も言わずに小さくなる後姿を見送った。

「で、どうするんだ? 我々は本気だ。御者は放した。何故あんたも後を追わない」

 鋭いアダンの目がレーニエを見据えた。荒野の空を映したような薄い瞳だった。

「答えろ!」

 金髪の青年も同じような色の瞳をいからせて、問い詰める。

「……逃れてきた身だからだ」

 低い声は風に攫われてしまいそうだった。

「なに?」

「言ったとおりだ。私にはもう帰る場所はない」

「嘘をつけ!」

 怒り猛った青年が一歩前に進む。右手が動いたかと思うと、音もなく、レーニエのマントの裾が地面に縫い付けられる。

 そこには掌に隠れるほどの小さな匕首あいくちが、冬の弱い陽を受け、鈍く光っていた。

「レーニエ様!」

 サリアの悲鳴が荒野の空気をつんざく。

「よせ! ナヴァル!」

 レーニエは彫像のように動かない。動けないのかもしれなかった。

「何で止めるアダン! 俺たちはこいつらを追い返すために来たんじゃないか。長年放りっぱなしできっちり税金だけ取りやがって、その上、今度は領主にまで納税しろってか! そうは行くもんか! どうせ、こんなとこにやらされる貧乏貴族だ。罪でも喰らって左遷でもされた落ちこぼれだろうよ! まずはそのご尊顔を仰いでやる!」

 そう怒鳴ると、止める間もあらばこそ、若いナヴァルは腕をのばしてレーニエのつば広の帽子をむしり取った。

「あ!」

 青年につかみかかられて黒衣の若者はよろめき、大きな帽子がふわりと乾いた轍の間に着地する。しかし、それを見ているものは誰もいなかった。

 彼らが見たのは帽子と共に外れたフードから覗く銀髪。くせのないその髪は、冷たい冬の陽に照らされて殆ど白く見えた。それは全貌を見せるのを惜しむかのように、肩から下はマントに覆われている。

 その髪に縁どられているのは細面の小さな顔。形のいい華奢な顎と淡い色の唇、そして、ほとんど色みのない白い肌だった。

 そして――

 顔の上半分を覆う、黒絹で作られた仮面。その奥に見えるはずの瞳は今、長い睫毛を見せて伏せられている。

「なっ、なんだ、ご大層に! 帽子の下は仮面かよ? お貴族様ってのはまっ白い肌を焼きたくないために、ここまでしなきゃなんねえのか! ああっ?」

 レーニエのあまりの若さと、風変りな装束に黙りこくってしまった男たちを尻目に、若いナヴァルだけが一人、意気を巻いた。

「ちくしょう! 勿体もったいつけやがって! こんな仮面なんざ、この俺がひん剥いてやる!」

 自分の言葉に励まされたかのように、ナヴァルがレーニエのマントに手をかける。それまで無抵抗だったレーニエが、その時初めてあらがうそぶりを見せた。

「やめてっ! レーニエ様に触らないで!」

 サリアが体を張って止めに入る。

 それを突き飛ばそうとするナヴァルと、ナヴァルを押さえようと動いたアダン。

 四人が揉み合う形となった。

「そこまでだ! 引け!」

 錆びた声が彼らの耳朶を打った。




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