11:カタババ
わたしは便座に寄りかかっていた。
公園のトイレの、一番汚い場所だった。
お母さんがいなくなってからずっと、こんな場所で生きている気がする。
意識を失う前に見たのは、トイレットペーパーのカケラが溶けかけた黄色い液体。莉子ちゃんたちに顔をおしつけられ、わたしはその液体をおなかいっぱい飲んだ。臭くて、苦くて、胸が焼けるような味。気持ち悪くなって、おなかのものを吐き出したら、「吐くなよ」と言われまたおしつけられた。出てしまうものはしょうがないのに、出したものをまた飲んだ。吐き出し、飲み込み、そんなことを繰り返しているうちに気を失った。
そんな事を思い返していると、吐き気がよみがえってきて、もう一度便器にもどした。
何色かも分からない便器の中の色がさらに濁り、正確にはわたしの視界がどろどろと淀んでいくような感じで、まるで目の中に粘着質なスライムが貼り付いたみたいで、とにかく早くこの場から離れたくて足に力を入れた。膝が笑ってうまく立てず、その場で中腰になり、しばらく身体の芯の震えとたたかっていた。
便器の水を飲まされているときは何とも思わなかったけど、いまはっきりと実感していることがあって、それは恐怖とか、死の意識だった。そいつはわたしの背筋を這い上がり、まち針のようなものでしつこくうなじの辺りを突っついていた。
「明日もちゃんと学校くるんだよ。実はあんたにぴったりの仕事があるんだ」
去り際に彼女はそう言った。よくわからないけど、このままだと、わたしはいずれ莉子ちゃんたちに殺されてしまうんじゃないか。本気で思った。
両手と膝で地面を擦りながら公衆便所を出る。
風が吹き、辺りに砂が待っていた。目にゴミが入る。ほとんどほふく前進みたいにして進む。
手荒い場の蛇口をつかむと、頭から水をかぶった。吐瀉物まみれの手を洗う。顔についた、何の滓かも分からないものも落として、髪の毛をくしゃくしゃ洗う。冬の冷たい水温をいくら浴びたって頭はどろんとしたままだった。顔を上へ向け、うがいをする。そのまま水をたっぷり飲んで蛇口をしめた。
夜風はしつこく吹き荒れている。そこら中に散らばったわたしの学生鞄とか、教科書とか、コートとかをかき集めた。丁寧にひとつひとつ足跡がついていたけど、そんなことはどうでもよくて一番なくなってはいけないものが見つからなかった。そのうちくらくらしてきて、ひとまずベンチへ横になった。砂埃で板がざらざらとしていたけれど、わたしはどうしようもなく疲れていて、眠かった。鼻からさらりと鼻水が垂れる。そこで目を見開いた。さがしものが見つかった。
一冊の文庫本。大事なのは中身じゃなくて、その外側、本を覆っているブックカバーだった。乱暴に本を外し、ブックカバーを街頭に照らす。おそるおそる、両手で左右を摘み広げてみる。間抜けな声が喉から漏れる。
「あ……ああっ」
わたしの手の中で、それは真っ二つに裂けて垂れ下がっていた。刺繍のほどこされた何匹もの猫も、みんな半分こになって、首と胴が切り離されている。穴の空いた向こう側に、お母さんがいる。
カバーを胸に抱いて仰向けになる。砂塵が星を隠している。わたしはおかしなしゃっくりを繰り返しながら、砂だらけの空をあおいでいた。雨が鼻先をたたき、次第に粒数を増やしていく。
お母さん、とつぶやく。
黒い毛むくじゃらの生きものが、上からわたしをのぞき込んでいる。毛むくじゃらには見覚えがあった。そして、どこか怒っているようにも見えた。その子がなんで怒っているのか、わたしにはよく分かる気がした。
『なんでも食べちゃうの。いやなものはなんでもだよ。それで、食べた分だけ大きくなっていくの』
そうだ、この子はわたしが作った。わたしはわたしを描いた。この子はわたし。この子を理解してあげられるのは多分、この世でわたしだけ。
カタババ。カタババ。そう毛むくじゃらは低い声で鳴いた。
遠い昔のことで曖昧だけど、確かにそう名付けた気がする。カタババ。いやなものはなんでも食べてくれる、カタババ。わたしの怪物。カタババ。
両手を伸ばし、その頬に触れた。厚い毛に埋もれて皮膚までは辿り着かない。だけどカタババは温かかった。過剰なほどの熱をもってわたしをあたためてくれた。
* * *
「寒いかい?」
いつの間にか、わたしの手からカタババがいなくなっていた。代わりに触れていたのはおじさんの脂ぎった首筋。おどろいて起きあがる。
さっきまでとは違う場所にいた。どこかのホテルの一室みたいで、横を見ると、下品な柄の照明が、白い壁にお城の模様をかたどっていた。
いきなり起きあがったわたしに、おじさんはちぢれ毛の生えたお腹を抱えてわらった。
「相当酔ってるね」
言われてみれば頭がくらくらする。手に息を当てた。自分から出たものじゃないみたいに、お酒くさい。引きかえに、髪や身体からは安いせっけんの臭いがする。わたしは衣服というものをひとつもまとっていなかった。感覚も鈍っているようで、おじさんの顔が視界のなかでおぼろげに映る。そして、さっき公園のベンチで感じたのとはまた別の種類の眠気が瞼に沈着していた。
さっき?
時間の感覚がおかしい。ここからここまで、という記憶の断片が欠落している気がした。
おじさんは何事かをわたしへ問いかけながら、ときおり缶ビールをあおる。わたしは視線を落とし、おじさんの茂みの奥の貧相なものを見つめていた。
なにが、どうなっているんだろう?
ふらりとベッドを立ち、カーテンを開くと、眩しい陽光が降り注いだ。どこかの繁華街のようで、遠くの雑居ビルのデジタル時計が午後三時を示していた。やがて、あまりの眩ゆさにカーテンを閉じ、両手で顔を覆った。いまは何月何日か、とふるえる声で訊くと、返ってきた答えは、わたしがあの公園で気を失ってから四日も経過した日付だった。
「一時的なショックだろう。気にすることはない」
おじさんの分厚い手が、わたしの肩におかれた。その重みだけで腰が砕けてくずれ落ちそうだった。それほどわたしは疲れているようだった。
「とにかく、いまはおやすみ。明日も、明後日もだよ」
そう言っておじさんはわたしの両脇に腕を差し込み、放るようにしてベッドへ押し倒した。そのまま馬乗りになると、すえた息を吐きながらわたしの腹をねちっこく撫で回す。わたしの手や足はひどく重くて、ベッドのシーツに埋もれてしまったみたいで、泥がへばりついたみたいに動かなくなっていた。
おじさんはサイドテーブルに置いたボトルの栓を抜き、少量、わたしの口へ流し込んだ。舌の上で泉のように溜まったそれを、ためらいつつ飲み込む。苦くて、甘くて、あの便器の水みたいな味で、よけいに身体が重くなった。死んじゃいたいくらい不味い。喉の奥がひくついて苦しい。口の中が空になると、またボトルの中身を注がれる。飲むと、注がれ、また飲む。その間にもおじさんの手はわたしの身体をくまなく撫でていく。視界がさらにまどろんでいく。
だけどわたしが見ていたのはおじさんの顔じゃなくて、彼のすぐ背後に立つ、真っ黒な毛むくじゃらだった。
カタババ。姿を消したと思ったその子は、おじさんの後頭部を、わずか数センチの距離から凝視している。おじさんがそれに気づく様子はない。
表情は相変わらず、どす黒い体毛に覆われてわからない。だけどわたしには、その子が泣いているように見えた。
おかあさん。
おかあさぁん。おかあさぁん。
おかあさんおかあさんおかあああぁさあぁあぁあぁあああああん。
そんなふうに。
おじさんの手がわたしの下腹部をまさぐる。ボトルはもうほとんどなくなり、無造作にベッドの下へと投げ捨てられる。
ガシャン、とガラスの割れる音がした。そのときだった。
オオオオオオオオオォオォオォォォ。
おじさんの太った身体が、宙に浮く。カタババが彼の首をつかみ、持ち上げていた。はっきりと、獣のような雄叫びをあげながら。持ち上げた勢いのままカーペットにたたきつけ、カタババは叫びながらおじさんへ拳を振り下ろした。
ォォォォォォォォ……。
叫びながら、何度も拳を落とす。それはこの世の憎しみを一心に受けたかのようで、カタババを生み出したわたしですら耳を塞ぎたくなるような、哀しい叫びだった。
おじさんは幾度かの痙攣を繰り返し、やがてうごかなくなったが、それでもカタババは執拗に彼の顔面へ拳を突き入れる。赤い血が規則正しくあたりを汚し、涙とも小水ともつかない液体がシーツまでかかり、わたしの足裏を冷やした。
徐々に意識が薄れていく。かろうじて瞼を開けていた四分か、五分かの間、わたしは見るともなくそれを眺める。黒い毛の隙間から涙を流しながら、カタババはおじさんを食べていた。犬みたいに四つん這いになって、腹に顔を埋めながら、不揃いな歯をむき出しにして。
わたしの代わりに食べてくれているんだ、と確信した。誰のためでもない、わたしのために。嫌いな人間も、わたしの憎しみも。なんだってこの子が。
だったら、と思う。
カタババはいつか、わたしも食べてしまうんだろう。
暗闇が窓から入り込む。
空調の利いたうそみたいな暖かさで。
ゆるんだ泥の記憶と一緒に。
目が覚めると、ひとりだった。
* * *
翌日の放課後。
夕日の射し込む教室で莉子ちゃんを呼び止めた。意外そうな顔で彼女は振り向く。
「また遊びたいの? ほんと懲りないね」
莉子ちゃんの言葉を聞き、廊下に出ていた莉子ちゃんの友達が集まってくる。みんなのもとへ一歩あゆみ寄る。
窓の外を見た。灰色の、重く厚い雲が空を隠している。澄んだ夕焼けが見られなかったのを、なぜだか今日はうれしく思う。
「また売りにいくんでしょ。わかってると思うけど、お金はまた山分けだからね」
みんな、にやにや笑いながらわたしを取り囲んでいる。カタババが哀しそうにこちらを見ている。わたしは微笑みながら、ゆっくりと頷く。
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