10:ギブミー・シガレット

 ――ジリリリリリ


 小さな、半地下のクラブだった。

 どこへ目をやっても若者だらけで、誰もが十代後半程度の未成年に見えるけど、法がなんのって感じで、彼らはカクテルやタバコを嗜んでいた。


 絶えず流れ続けるBGMに合わせて頭を振る白髪の男の子。パフェを椀子蕎麦みたいに次々と流し込んでいく太った女の子。貧乏ゆすりをしながら舌ピアスをいじる坊主頭の彼。半裸同然のドレスで闊歩しながらニヤニヤと何事か呟く彼女。人目を憚らず互いの身体を触り合う男女がいて。


 自由な空間だった。ここではやっちゃいけないことなんてないんじゃないかと思った。警報が止まない。


 リリリリリッ


 麻奈美はといえば、大人しい花柄のワンピースで、ぼくの向かいのソファに座り、もくもくとジェーリービーンズやチョコナッツをかじっている。私服姿は初めて見たけれど、それはよく似合っていて彼女のイメージ通りだった。首を傾げながら「おいしい」と叫ぶように言う様はクラスに居るときとなんら変わりない。ただ大声なのは、店内がうるさいからってだけで。

 この場所では、麻奈美とぼくだけが正常のようだった。


「隣行っていい? 喋りづらい」


 ぼくは快く頷いた。麻奈美はお菓子の入ったワイングラスを片手に、隣にやってくる。あまりに近いのでびっくりしてしまった。二の腕が完全に密着している。


「ここ、すっごい開放的な気分になるでしょ」

「そうかもね」


 麻奈美は一度笑いかけてみせ、手を振って店員を呼んだ。

 店員は黒人の少年で、信じられないほど歯が黄色かった。網のバスケットを手に歩み寄る。バスケットの中にはタバコの箱のようなものが大量に詰め込まれていた。


「ギブミーシガレット!」


 麻奈美は元気よく、指を一本立てて言った。黒人の少年はタバコを寄越してくる。執事がごとくその場に跪き、ジッポライターを構えて彼は待機した。


「さんきゅー!」


 麻奈美はタバコをくわえる。こげ茶色のフィルターで、通常のタバコより少し丈が長い。黒人の少年が火を着けると、先端から黒い煙が上がった。煙は尋常じゃない量だった。ほのかにココアの匂い。ただのタバコじゃないのか、とぼくは思う。


「治彦くんも吸ってみる?」


 ぼくは首を横に振った。それから口を開きかけたが、とつぜん、青年が奇声をあげながらソファ後ろの狭い通路にスライディングしてきたので、なんて言おうとしていたのか忘れてしまった。


「その子かわいいな。ナンパしていいか」


 青年の顔はぼくを向いていたが、両の瞳はそれぞれあらぬ方を見ていた。ぼくはため息を吐く。


 リリリリリィンリリッ


「だめだよ、ぼくの彼女なんだから。どこか行ってくれ」

「固いこと言うなよ。良いものはみんなで共有しよう。ていうかたぶん、おれの方がでかいぜ」


 なにがだよ、と言おうとしたが、麻奈美が見たこともないような形相で怒声をあげた。「失せろっつってんだろ●ちげえが!」と口汚く罵る。ついでに黒い煙を青年の顔に吹きつけた。

 青年はショックを受けたように肩を落とし、普通に立ち上がってのっそりとどこかへ消えていった。黒人の少年がピュウと口笛を鳴らす。

 麻奈美はけらけら笑いながらぼくの肩に頭を乗せた。今度は指を二本立てた。


「ミスターブラックボーイ、なんでもいいからプリーズハードラガー、二つ!」

「かしこまりました。お二人にお似合いのものを見繕います」


 黒人の少年は流暢な日本語で了承し、丁寧に一礼してカウンターの奥に入っていく。


「普通に喋れるじゃんあの人」


 そう言うと、麻奈美は手を叩いて笑った。二本目のココアシガレットに火を着けた。その副流煙を鼻で吸い込むと、胸の奥がじりじりと焼けるような感覚がする。痛かったけど、気持ちがいいのも事実だった。少しだけ吸ってみてもいいかな、とぼくは思う。


「治彦くんって、朝ごはんにフルーツグラノーラ食べるひと?」

「よく分かったね。でも、いきなり何の話?」

「フルグラに入ってるあの苺のグミみたいなやつってさ、すごい確率で奥歯にくっつくよね」

「くっつくね。高いやつだと特に。それがまたいいんだけどね」

「ねえ治彦くん」

「なに?」

「あたしセキセイインコ飼ってたんだよ」

「だから何の話だって」


 麻奈美はお腹を抱えて笑った。笑いすぎたせいか、額に玉の汗が浮かんでいる。汗からは、心なしかココアの香りがした。


「そのインコ、ぺいちゃんって名前なんだけど」

「ぴーちゃんじゃなくて、ぺいちゃんなの?」

「ぺいちゃん、この前さ、この前さ……」


 しゃっくりみたいに笑いをかみ殺しながら、麻奈美は言う。


「野良猫に食われて死んじゃったのっ。もう、ばかうけっ。なんか、頭なくなってんのにジタバタしてんの。お前ゴキブリかよって、あたし、自分で自分の台詞にウケちゃって」


 ぼくは乾いた愛想笑いを漏らした。

 黒人の少年がグラスに注いだお酒を二つ持ってくる。オレンジの原色じみた色で、本当に飲めるものなのか疑う。乾杯すると、麻奈美は普通にグラスを傾けるので、ぼくもおそるおそる、少量口にする。初めて味わうような風味だったが飲めないこともない。ただ固形物感が強く、喉を通っていく瞬間詰まるような嫌な感じがした。胃に到達しても確かな存在感がある。明日胃がもたれそうだなと思った。


 リィリリィリリリリリ


 麻奈美は三本目に火を着けた。あえて言わなかったけど、彼女の顔は大変ことになっていた。さっきの青年みたいに、とまではいかないが目がイってしまっている。含み笑いをしており、さっきからずっと頭をふらふら揺らしている。もはや周囲の若者たちの立派な一員である。


「あたし最近ギター弾くの」

「そうなの? 初耳だな」

「でも弦が一本足りなくて、しかも、あと、怪我しちゃったから」


 麻奈美は右手の親指を見せる。水膨れのような細い傷があった。


「もう辞めようかかかああなああって思ってるの」


 ぼくは唸った。


「いや頑張ろうよ。せっかく始めたのにもったいないだろ」

「だよね、そうよね。あたしも今そう思った。治彦くんあのね」

「うん?」


 麻奈美が急に真面目な顔をするので驚く。


「いつか、パパがね、子供の頃行ったデパートの話をしてくれたの。都会にあるようなでっかいデパートだよ。家族みんなでよそ行きのお洋服を着て、エレベーターガールのお姉さんが案内してくれるんだって。お菓子の袋詰め販売があって、欲張って袋から溢れるくらい詰めるんだけど、帰る頃には底に穴が空いちゃうの。そんで、屋上はくるくるするような展望台になってるんだ。そこは大食堂でね、プレートには色んな料理があって。ハンバーグとか、エビフライとか、タコさんウィンナーとか。んで、丸く固められたピラフには、国旗が刺さってるの。フォークやスプーンにはお上品に紙ナプキンが巻かれてる。クリームソーダにのっかってるアイスは、がんばってアイスのうちに食べようとするんだけど、いっつも中途半端に溶かしちゃって。パパ、パパね、食べたらすぐおもちゃコーナー行きたがって駄々こねるの。でも毎回、まだお父さんとお母さんが食べ終わってないでしょって、怒られるから、我慢してじっとしてる。あのときのそわそわというか、わくわくというか、そういう気持ち、もう一生味わえないんだろうなあって言うの。そんなデパートあたし行ったことないけど、なるほどなって思う。今ね……今、あたしもそんな感じなの。分かる?」


「なんとなく」

「うふふふレろろろろろ」

「大丈夫?」

「ねえ治彦くん」


 麻奈美は両脚をぼくの膝に乗せる。巻くように腕を首に回し、唇を耳に寄せてくる。


「すすす。すす、すき」


 吐息は甘いココアの香り。耳たぶを触り、全身がぞくりとする。おそらくそれが初めて耳にする、彼女のまともな、愛の言葉だった。


「だいすすすっssききあいしてる」

 まともかどうかは置いといて。


 リリリリリッリリリリリリリリリリリッリッリィィィィ


 太った女の子が、消化しかけたパフェをぜんぶその場で吐き出した。白髪の男の子は頭から床に落ち、鈍い音を立てる。舌ピアスが、粘液を絡みつかせながら千切れ飛んだ。刃物で引き裂かれたボロ切れみたいなドレスを引きずり、彼女は歩く。男は上半身を痙攣させ、女は嬌声とともに果てる。


 ィィィィンン――


 どこからか流血の残滓が降りかかり、口づけするぼくらの唇の隙間にすっぽりと入り込んだ。その鉄錆みたいな味のする血を二人で舐め合う。長いこと舐め合う。警報はもう止んだ。

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