09:蟻山

 四十九匹目の蟻が、煙草の火種に悶える。

 シャープペンシルの芯より細い足が次々と消失していく。折りたたまれていくみたいに蟻は身体を丸める。これでもかと耳を寄せてみたが、そいつが焼け焦げる音は聞こえない。

 やがて下半身と呼べるものがなくなり、頭と胴が一体となると、あとはただの黒い豆粒になった。残念な思いで、四十九個目のそれを指で弾く。


 携帯電話が鳴った。妹からだった。


「お兄ちゃん何してんのー」


 酒臭い匂いがこちらまで届いてきそうだった。確か今日は妹の誕生日。どこかの飲み屋にでもいるのだろう。


「喫茶店で優雅に喫煙中だよ」

「あらー楽しそうねー」

「お前ほどじゃないよ」

「まあね。てか聞いてよー。これがうけんの。例の天野よー。お兄ちゃんも知らなかったかもだけどアイツ、二年ダブってたのさ。つまりあたしの一つ上ってわけよ天野。今までどんだけ先輩面してきたんだよあたしって感じで。うけるよねー? うけるでしょ」


 まず、天野という人物を知らない。電話を切ろうか迷う。彼女の誕生日なので我慢した。


 五十匹目の蟻を焼いた。先程となんら相違ない黒粒が完成した。


 四角いテーブルの中央にはコーヒーカップの丸い跡ある。ミルクが混濁した淡いベージュ。前に座っていた女性客がつけていったものだ。当てつけだろうか。店内の沈黙の種類は空虚だった。

 隣の女が煙草を吸う。とても目障りな音で。スゥゥという音の無闇さには公共の場と言う意識はなく、煙を吐く瞬間などは吹奏楽器そっくりな音色までする。


 スゥゥ、ピィ。


 意外なことに、胸に浮かんだのは苛立ちじゃない。沸き上がってくる感情はむしろ穏やかで郷愁の趣すらある。静かな水面に落とした一滴の油のような、異物的な故郷の匂い。この暗く冷たい街では久しい感覚だった。


「んでね、お兄ちゃんの尻狙ってた雅彦が言うわけよ。もうリボ払いこりごりっすわっつって。だってそのせいで杏子、路上販売引退したんだよ? まじ笑える。ね、笑えるでしょ」


 五十五匹目の黒粒を作りながら、片手間に相槌を打つ。たった数分で色んなことを聞き逃していたようで、今から彼女の話を理解するのは少々骨が折れそうだった。

 隣の女は孤独に演奏を続ける。スゥゥ、ピィ。人差し指でとんとんと机を叩いて女の注意を引く。彼女は疑わしげな目つきでこちらを見た。二本の前歯は太く広い。合間に一ミリほどの隙間があり、それが『ピィ』の正体だと分かった。


「すみませんが、一本ください」


 女は一層、訝しげに眉間に皺を寄せた。それでも一応はクールマイルドを一本差し出してくれたが、気の利かないことにライターまでは貸してくれなかった。もう一度、「すみませんが」と言うと、彼女は意外なことに察し良くライターを貸してくれた。というかくれた。女はそれっきり席を立ち店を出ていった。その後ろ姿を見つめながらクールマイルドに火を点ける。その煙草は死滅的に旨く、肺へと染み渡り、指先まで冷やした。

 視線を落とすと、隣のテーブルにカップの丸い跡を認めた。どうして女ってのは、どいつもこいつもテーブルに飲料の跡を残していくんだろう?


 注文係の店員がやってきて、「ここ、ほんとは禁煙席なんです。申し訳ありませんけど」と言う。無視して妹の声に耳を傾ける。


「だからあたし頭きて言ったわけ。問2の答えは3/7だったでしょって。そしたらその男、ぶすっとした顔して、おめーそもそもあんときココナッツサブレ食っただろって。まじ笑える。ねえお兄ちゃん、笑えるよねこれ」

「笑えるね」


 久しぶりに声を発したおかげで喉に痰がからんでいることに気付き、コーヒーで潤してもう一本煙草に火を着ける。さっきの店員がやってきて無言で睨んでくる。構わず七十一匹目の蟻を焼いた。また一つ、黒粒が出来上がる。一度でいいからそれを顕微鏡で覗いてみたいとふと思った。もうすぐクリスマスだから先輩に買ってもらおう。


 妹は相変わらず耳元で騒いでいる。


「おいおい待て待てーって。お前がそれやったら便座王の再来やろーって。お前責任取れんの、ねえ、みたいな。皆もそう言ってんだけど、りんごちゃんってば、ガン無視。恐ろしいくらいの無表情でまじシカト。神のごとくスルーって寸法ですよ。ていうかお兄ちゃん、あたしの言ってる意味わかる? さっきハシビロコウが海峡横断しましたって話したでしょ。それと同じ現象だよ」


 分かったような返事をして、窓から街道を見下ろす。

 浮浪者そのものという感じの爺さんが道端で桃を手売りしていた。当然だが売れ行きは芳しくないようで、道行く人はまるで鳥糞に向けるかのような目で爺さんを一瞥していた。彼の両の瞳はまるで小型犬のようで、いまにも心が折れそうに見えて、むしろこっちの心が痛いくらいだった。しかし考えてみれば自分だってあんな小汚い爺さんから手渡された桃なんか食べたくない。それから、八十七匹目の蟻は頭から焼いたので比較的早く絶命した。


「だっておかしいじゃん。あたし本当に嫌だったんだもん。なのにさあ、あの扱いってあんまりだよ。あんまりだよ、クリストフさん……」


 妹はいつの間にか泣いていた。爺さんから目を離すと、さっきの吹奏楽女が舞い戻ってきていた。寸分違わず隣の席でやかましく音を立てながら喫煙している。新しい煙草を買いなおしてきただけらしい。

 また、新たな蟻がテーブルの上を這いあがってくる。問答無用で焼く。九十五匹目。すぐさまもう一匹現れたので煙草を押し付ける。もうポケットに煙草の残りはない。隣の女からをもらうことも出来たが、店員の目がいよいよ厳しくなってきたので躊躇する。

 そろそろ店から出るかと腰を上げかけるが、また蟻が現れたので仕方なく隣の女からもう一本ねだり、火を着けて焼いた。今度は足だけを全部焼却してあげた。九十八匹目。頭と胴と尻尾と、三つの玉の繋がりがウヨウヨする。


 なんだか可笑しくなって、声をあげて笑う。なにがそんなに可笑しいのか分からないけどとにかく笑う。笑いすぎて目尻に涙が浮かんだ。笑うとこんなに気持ちが良いんだなって、生まれて初めて知った気がした。


「なに笑ってんの?」

 妹は憤慨した。


「そりゃ笑うだろ」


 椅子から離れ、テーブルの下で屈みこむ。スゥゥ、ピィの演奏が斜め上から聞こえる。携帯を頬と肩で挟み、九十八個分の黒粒を一つ一つかき集める。これだけ焼くと達成感も有頂天だ。左手に乗った粒の山をしげしげと眺める。店員も「なんだろう?」と膝を折り蟻山を覗きこんでくる。それがなんなのか検討もつかないのか、不思議そうに人差し指でちょんちょんつついてくる。

「桃を、買ってください!」爺さんの悲痛な声が聞こえた。


 九十九匹目の蟻がのっそりと床を闊歩していた。生きて帰さないよう慎重に、時間をかけてじっくり焼いた。


「なあ、お前今日誕生日だろ」

「そうだけど」


 妹は電話の向こうで鼻をすすった。


「泣くなって。お兄ちゃんがプレゼントやるよ。だからほら、もう家帰ってこい。おれも帰るから」

「いいけど、なによ、プレゼントって」

「六時間かけて作った蟻団子の山。のべ九十九個」

「なにそれ。意味わかんない」


 妹はくすくすと笑った。

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