08:口
前々からイラついてましたけど、さすがに今日は頭きちゃいまして。
話していいですか?
ついに僕がやっちゃった話。まあ、ちょっと信じられないこと言うかもしれないけど――。
「残業四時間もやって終わんねえのかよ」
僕はパソコンに向かいながら、背中越しに上司の――田島のそんな言葉を黙って耳にしていました。半分はお前のせいだろって言いたかったけど、あのときよく我慢したよ、僕。
「報告書手書きで書いて、電卓で集計計算して、そんでやっとPC入力かよ。それじゃ効率もクソもねえぞ。それ、わざとやってんのか」
そんな風に、お前こそわざとだろって感じのこれ以上ない嫌みな言い方で。僕だって、自分が要領悪いことは自覚してますが。
そのうち、手書きの報告書に誤字を見つけました。パソコンに打ち込む際に直してもよかったのですが、僕はいつもこの下書きを持ち帰り、暇なときに家で見返すようにしていたので、書き直しておこうと思いました。
消しゴムで擦ると、誤って余計なところまで消してしまったので、僕は定規を手に取り、消えかけたところへ慎重に線を引き直しました。
「残業代いくらむさぼるつもりだよ。そろそろ労基ひっかかるぞおい」
一通り終わって自分の手のひらを見ると、シャーペンの芯で薄黒く汚れていました。
それを見た田島が「小学生じゃねーんだから」と吐き捨てるように言って、いったんオフィスから出ていきました。うるさいのがいなくなり、会社の外も繁華街のざわめきを落ち着かせていたこともあって、あたりが驚くほど静かだったのを覚えています。
上司のいない手前、しかもこの疲労のなか再びパソコンに向かう理由はない。それに僕の手は、長時間のキーボード鍵打により軽くしびれていました。僕は田島がやってくるまで、自分の手のひらを見つめていました。
――そう言わず、聞いてくださいよ。ここからが大事なところなんですから。
さきほどまで真っ黒だった僕の手は、いつの間にか汚れが落ちており、元のきれいな肌色を見せていました。この数瞬で手を洗浄したなんてことは、よっぽど僕の頭が惚けていない限り、ありえないでしょう。きっとアイツがきれいにしてくれたんだな、と僕は思いました。そう、さっき触りだけ話したアレです。
僕が思った通り、そいつはかすかに姿を現していく。
まず右掌の知能線が、めりめりと、音を立てて割れていくんです。皮の繊維を引っ張るようにして伸び、紙がちぎれるみたいに、ぷちりって。掌にぱっくりと開いたそれは暗い空洞です。僕はそれを単純に『口』と呼んでいるのですが、まさしく口っていう形状じゃなくて、何か奇妙な、ともすれば、ただの『穴』に見えるかもしれない。でも、そいつには歯がある。とても鋭い歯です。鮫のようであればまだ可愛いけど、それは生物らしさすらなくて、強いて言えば悪魔じみた歪さがあります。
信じられませんか。普通じゃないことは承知の上です。
僕の『口』はなんでも食べてくれる。僕が望んだとき、必要と判断したとき。それこそいつだってね。
どういうとき必要になるかって?
つまり、今お話しているような状況でです。
そうこうしているうちに田島が戻ってきました。慌ててパソコンに顔を向けて、お疲れさまです、なんて僕はぞんざいに言いました。
「疲れてねーよ。お前の書類チェック待ちでこっちは暇なんだ。まだまだ頑張ってもらわきゃならんからな、お前には」
はいはいそうですか早くその煙草くせえ口閉じてろ。あ、これは言ってないですよ、心の中です。
「あ、あとこれも処理しといて」
後ろからそんなことを言われたのですが、僕は聞こえないふりをしました。これ以上仕事増やされたら、マジ、切れそうだったんで。
「相変わらず無愛想だな」田島が、舌打ち混じりにこちらへ近づいてきました。
それくらい自分でやれ、こっちは忙しいんだ、そんなオーラを背中で表現してみたのですが、鈍感な田島には伝わりません。仕方ない、やってやれと、僕はあきらめました。
「ほら、これ」
僕はパソコンに目を向けたまま、田島が差し出してきた書類を見もせず、右手を出して受け取り……いや、そのまま通り抜けて彼の手首を、わし掴みにしました。
その瞬間、田島が悲鳴をあげました。
視界の端から赤いのが飛んでくる。顔に降りかかる血を避けもせず、彼の手首を握り続けました。そのうち、肉がぼとりと落ちる音がした。やっと振り返った僕は、消失した手首をもう片方の手で抑え、なにが起こったか分からん、というようなアホ面をした田島を確認しました。なくなった手首の断面からは、動脈の動きに合わせて血が吹き出し、オフィスのカーペットを汚していました。
汚ねえなあ、なんて思いながら、ふと床に目を落とし、そこであることに気づきました。田島が差し出してきたものは、書類なんかではなく、栄養ドリンクだったんです。
こいつ、そんなに悪いやつじゃなかったのかあ、なんていささか田島を見直す僕でしたが、でも、どう考えても遅いですよね。だから僕、ちょっと心が痛かったんですが、そのまま『食べ』ちゃうことにしました。この『口』でね。
夢でも見ているんだと思ったんでしょうね、彼。次から次に溢れ出す血を抑えながら、呆然としてましたよ。人って、想像を超えたものに出くわすとみんなこうなっちゃうんです。僕の知る限り、例外はない。
右手を伸ばし、一気に彼の喉元を『口』で噛み切りました。一発で頸動脈までやれたので、手首のときより数段勢いよく噴き出しました。見たことないでしょ。すごいんですよ人間の血って。普段は大人しく皮膚の下でちょろちょろやってるのかと思いきや、ひとたび堰が外れると収まりがつきません。ホースで水やりってやったことあります? 思いっきり蛇口ひねって、出口の真ん中のとこ、指で塞ぐと勢いよく二股に別れるでしょう。あれイメージしてもらうと分かりやすいかもしれない。別に僕そういう趣味ないですけど、人間の体でそんな現象が起きると、正直「スゲー」って思いますもん。
それから田島は、ゆっくりと後ろへ倒れこみました。しばらくは頸動脈の噴出に合わせて痙攣していましたが、すぐに動かなくなりました。
殺して、そのあとどうするかって……決まってるでしょ。処理するんです。跡を残さないよう、彼の存在をきれいに消してあげるんですよ。それもぜーんぶ、僕の『口』がやってくれます。
ただ僕、グロいのが苦手でね。骨とか脳味噌とか内臓とか、そういうの見るとオエッてなっちゃうんです。血は全然見れる、っていうか最初はダメだったけど、流石に慣れました。『口』の食欲を頼りに、目を背け、田島を少しずつ処理しました。便利なもんですよ。血痕や髪の毛や唾液、果ては身につけている服や装飾品に至るすべてをたいらげてしまいます。雑食にもほどがあるって。
最後に彼の手首を食べ、血を舐めとり、自らの汚れも落としてしまうと、あとはきれいさっぱり。もとの平和なオフィスに戻りました。最後に田島がくれた栄養ドリンクが残りました。悩みましたが、せめてもの弔いとして飲み干してあげました。
僕が嘘吐いてるって思ってるでしょ。うん、そうじゃない?
ふうん。もっと聞きたいって、あなたも変わった人だな。他にどんな人を食べてきた、か。数え切れないくらい食べたから、あんまり覚えてないな。
学校の先生とか、友達とか、塾のライバルとか。僕を振った女も食べてやったな。ぜんぜん知り合いでもない、居酒屋で僕に説教してきたジジイを帰り道で襲ったこともある。
親? もちろん食べましたよ。父親も母親も。僕みたいにロクな大人じゃなかったですから。母親の方なんか、昔っから小うるさかったし、四歳のときにはもう食っちゃってましたね。ははは。
ねえ、やっぱり信じてないでしょ。だからあなた、そうやって笑っていられるんだ。そんなに疑うんだったら、証拠を見せますよ。見たいならそれでもいいけど、そのときはあなた、もうこの世にはいないと思った方がいい。
……だから、笑うなよ。おい。おまえ僕のこと、馬鹿にしてるだろ。おかしな妄想にとりつかれた不細工男だって。
ああ、もう遅いよ。頭にきた。だから、何が違うって――。
●●●
とつぜん、向こう側から聞こえてきた異様な音に、まさか、と私は思う。あわてて壁から離れた。盗み聞きするためにあてがっていたガラスのコップが、手の震えでカチカチと鳴る。
壁から離れると音は聞こえなくなった。この風俗店は最低限の投資で運営されているが、防音効果はそれなりに効いているようだ。
それでも、コップを当て、底の部分に耳を押しつければ隣の部屋の物音や会話を聞き取ることができるのを私は知っていた。他人のプレイに興奮するたちじゃない。ただ、最近指名が入らなくなってきて、他の娘がどんなサービスをしているのか研究しようと思ったのだ。
たしか隣は、せいらだったよね。
私はベッドから降り、客用のタオルで額の汗を拭った。なにか、聞いてはいけないものを聞いた気がする。気持ちを落ち着かせながら、しばらくタオルに顔を当ててうずくまっていた。
十分ほどが経っただろうか。何者かが部屋の扉をノックしてきて、私は飛び上がって壁まで退いた。ドア越しに聞こえた声が、せいらのものだったからだ。
「あんなちゃん、いるよね? ちょっと困ったことがあってさあ」
その声色は普段の彼女のもので、もしや自分がさっき聞いたのは幻聴だったのかもと、少し安心した。
「どうしたの? せいらちゃん」
「なんかあたしの客がさあ、トイレ行ってくるって言ってそのまま帰ってこないのよ。もしかしてあいつ、金払わないで裏口から逃げたのかも」
私は唾を飲み込む。立ちくらみがしてきた。
「しかもめっちゃ部屋汚していくし。あたしさあ、自分で部屋掃除してるから、終わるまで客戻ってこなかったら、あんなちゃん、オーナーに伝えてくれる? あたし怒られるのヤだし、そのまま帰るわ」
そういうことで、とせいらの声が遠くなっていく。嘘でしょ? 私は混乱していた。まさか、あんた……。
私はドアを開けていた。自分の予感していることを錯覚だと証明したかった。顔を出し、自分の部屋に戻っていこうとする彼女を見据える。
想像していたのは、鮮血に汚れたせいらだった。一度瞼を閉じ、頭を振る。しかし、彼女はそれを打ち消すように、なんら変哲のない、はだけたYシャツ一枚の姿でそこに立っていた。安堵からか、私の口から吐息が漏れる。
そのまま吐き終わろうとして、ハッと息を止める。Yシャツのボタンを直しつつ、余裕げにウインクをしてみせる彼女から目が離せなかった。
「よろしくね」
シャツの裾の間から一瞬覗いたお腹に、ぱっくりと大きく開いた暗闇。その奥でぎらぎらと光る血塗れた無数の牙を、私は確かに見ていた。
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