05:欠損

 プレハブ小屋じみた住居の一室。

 黄ばんだカーテンの間から漏れる陽光と背筋にへばりついた汗のせいで、気分の悪い目覚めだった。

 身体のあちこちがむず痒かったが、俺には手足がないのでどうすることもできない。肘や膝から先が消失した四肢を、ただ芋虫のように動かす。

 横を向くと、そこには姿見の鏡があった。全身に包帯を巻いた、冗談みたいな格好の俺がいる。初めこそ己の無様な姿に震えたり泣いたりもしたが、順応とは恐ろしいもので人の常識や感覚さえも麻痺させるようだった。俺は寝起き後の体操と称して、無い手足をもぞもぞと蠢かせた。そのたび、骨組みの露出したソファの座面がぎしぎしと音を立てた。

 ソファの正面には、21型のブラウン管テレビが置かれている。地上デジタルの電波はここには届かない。

 扉を開けて千世が入ってきた。こちらへ歩み寄り、包帯越しの俺の顔に何度か接吻する。


「おとなしくしてた?」

「動けないからな」


 千世は黒いナイロン袋からビデオテープを四本取り出した。今どき、一体どこにビデオテープのレンタルなんかやってる店があるのだろう? 彼女はかなりの頻度でビデオを借りて帰ってくる。それも必ずホラーもの三本とアダルトもの一本と決まっている。まれに純愛系ドラマや映画を借りてくるときもあるが、そのときの千世は大抵機嫌が悪い。

 今日の夕飯は豚の角煮だった。

 ブラウン管テレビでは外国産の残虐描写過多なアニメーションが流れている。千世が適宜スプーンで角煮や白米を俺の口元に運んでくる。ブタを模した愛らしいキャラクターがコミカルに皮を剥がれて悲鳴をあげていた。俺はだまって豚肉を咀嚼する。ブタは最終的に削岩機で何度も穴を開けられ原型をなくしてしまうのだが、次の回では何事もなかったかのように復活し、また別の方法で残酷にいたぶられた。

 夕食を終え、ホラー作品を三本観終えると、最後にアダルトビデオを再生した。それは七、八十年代とおぼしき映像で、ストーリーは粗雑の一言に尽きた。しかも当時にしては過激かつ奇抜な内容で、主演女優の相手はもはや人間ではなく、というか脊椎動物ですらなかった。画面上で数百とうねるその昆虫や軟体生物相手に、女優はなにか吹っ切れたような表情を浮かべ、ときに恍惚とした嬌声を上げる。映像のクオリティが低いせいか、リアリティが際立ってよけい気味が悪かった。


「趣味のわるいビデオ」


 そう呟く千世の口元には無邪気な笑みが張りついていた。彼女の左手は俺のみぞおちあたりに乗せられている。


「こんなの企画した監督は、きっと、あたまがおかしい」


 砂嵐とともに映像が途切れる。

 千世はおもむろに、包帯の一部を剥いで俺の身体を慰めはじめた。俺は黙って白と黒とグレーが絶えず明滅するテレビ画面を凝視していた。


「外に出よう。星が見たい」


 そう提案してみる。俺の太股に頭を乗せてうたた寝していた千世は、ぼんやりと、下から俺を見あげた。


「いまは梅雨だから、たぶん、雨雲で星はみえないとおもう」

「いいよ。雲が晴れるまで待とう」

「そうだね。じゃあ、待とう」


 千世は深く頷き、部屋の隅に立てかけられた折り畳み式の車いすを開く。長いこと使っていなかったので少し埃かぶっていたが、軽く外で叩いたら大分ましになった。

 彼女は俺の両脇に腕を差し入れる。「よいしょ」のかけ声とともに俺の身体は持ち上げられた。


「かるいね。うらやましい」

「お前もこうなってみろよ」俺は内心憤慨した。「この世で最も手っとり早いダイエット」

 彼女はくすりと笑う。

「そうなったら、きみのお世話ができないでしょ」


 車いすを押され、俺たちは外に出た。

 昔と変わらない、真っ黒な草原。千世の言う通り星は見えない。上空一面を占めるのは、岩のように堅く重々しい雨雲の塊だった。


「たしかに雲が晴れるのを待ってたら、こりゃ、夜が明けそうだな」

「はれるよ、きっと」


 ふと、山々の裾野に目を向ける。人々が平穏な暮らしを送る象徴、生命の光がきらきらと瞬いている。今この瞬間、あの光の中で、人と人とが笑い合い、対立し、互いを助け、また傷つけ合っているのだろうかと考えると、懐かしさと煩わしさが同時に沸き上がってくる。それでも人はそんな暮らしを平穏と呼ぶ。だがそれが幸せであるのかどうかは疑問だった。他人の幸せは計れないと言うが、少なくとも彼らの言う幸福の定義は、俺の中で少しずつ欠け始めている。

 千世は地に膝をつき、後ろから俺を抱く。彼女のまつげはそよ風で細かに揺れていた。


「星がみえるようになるまで、ずっとこうしててあげる」

「明けるよ、このまま」

「夜があけたってだいじょうぶだよ。夜があけて朝になったら、つぎの夜までまてばいいんだから。それでもみられなかったら、つぎの夜、つぎの夜って……。そうしたら、いつか梅雨だってあける。きみが星をみれるようになるまで、さびしくないように、ずっとこうしててあげる。きみがちゃんと待つって言うのなら、わたしも、いっしょに待つから」


 胸のうちが、無性にざわつく。

 俺は千世の頭を撫でたくてしょうがなかった。でも手がないから、右肩を微妙にあげて彼女に向けることしかできない。このときほど、自分の欠損を悔やんだことはない。

 それでも彼女は俺がなにをしようとしているのか察したようで、「ありがとう」と微笑んだ。少しだけ、瞳がうるんでいるようにも見えた。俺は恥ずかしくなって視線を逸らす。逸らした向こうの雨雲が一瞬だけ掻き分けられ、満月の影を捉えた気がした。さらに意識を視界の一点に集中させる。

 ポツポツと雨が降り出す。背中に体温を感じる。緩んだ包帯が片目を隠した。強くなりだした雨脚が二人を打つ。

 このままでいいと、俺は思う。現状維持を望む。人世と隔離されたプレハブ小屋で。陽光を浴び、無機質な天井を眺め、食事をし、悪趣味なビデオを観て、用を足し、慰め、慰められ、彼女といっしょに夜空を見上げる。下界と乖離した平穏な日々を。


 あれからどれだけの時間が経っただろう。一時間か、十時間か、三日か、一週間か。時間の感覚は失われ、いつしか頭上では無数の星が輝いていた。地上の明かりよりずっと濃い。どうして今まで気づかなかったんだろう? さっそくこの感動を共有しなければと、俺は車いす越しの後ろを振り返る。

 真っ黒な草原が夜風にそよいでいた。後方に広がっていたのは、そんな景色だった。

 あたりを見まわす。背筋にはまだ温かみが残っている。失った四肢を必死で動かすと、車いすから転げ落ちてしまいそうになる。それでも構わず蠢きつづけた。

 彼女の姿を、俺は探した。

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