04:頭痛

 花凛ちゃんのお見舞いに、スーパーでヤシの実を買った。小学生のわたしにはかなり値の張る買いものだったけど、花凛ちゃんはずっと南の島に憧れていたし、お年玉貯金も少しだけ余っていたから奮発してみた。


 ヤシの実は見た目よりずっしりしている。両手でようやく抱えられるほどの大きさで、運ぶのが大変だった。でも、大切な親友のためにがんばろうとわたしは思った。


 花凛ちゃんは、一学期の後半から体調を崩したまま学校に来ていない。たぶん、親が離婚したせいだ。


 そのショックのせいか、毎日のように頭痛がするようになったという。頭痛は日を増すごとにひどくなっていくみたい。

 体育の授業中、あまりに頭が痛むので校庭を暴れ回ってしまい、ふと掴んだ鉄棒の支柱をねじ曲げてしまった。火事場の馬鹿力ってやつかな? 花凛ちゃんはそのまま気を失い保健室に運ばれていった。落ち着いたわたしは、人間の力ってすごいな、ってのんびり思った。それ以来、花凛ちゃんは学校をお休みしている。


 インターホンを押すと、花凛ちゃんはすぐに玄関を開けて顔を出した。わたしを見るとぱっと笑顔になる。


「亜矢ちゃん! うれしい。来てくれたの?」


 花凛ちゃんは、お家なのにピンクのニット帽を被っていた。それでいてパジャマを着ているものだから、何だかちぐはぐな感じがする。

 お土産だよ、とヤシの実を手渡すと花凛ちゃんは喜んでくれた。「ヤシの実にストローを差して飲むの、一回やってみたかったんだよね」と、上機嫌に果実の表面を撫でた。ずっとお休みしていたから心配していたけど、思ったより元気みたい。


「それより、変わった柄のパジャマだね?」


 花凛ちゃんは爽やかな空色のパジャマを着ていて、そこには不釣り合いなくらい濁った赤黒い斑点が描かれている。それに、なんだか生臭い匂いもする。


「柄じゃないよー。ただの血」


 なんでもないことのように言われた。魚でも捌いていたのかな?

 よく見ると血の痕は家中にあった。リビングの奥から始まり、廊下を点々とたどり、二階の花凛ちゃんの部屋へと続いている。「さあ、あがって」とうながされ、わたしは血の痕を避けながら二階へ上がった。


「亜矢ちゃんが来てくれると思わなかったから、ちゃんと掃除してないんだけどね。今わたしの部屋、ちょっとみっともないことになってるかもしれないけど」


 照れくさそうに頬をかくと、花凛ちゃんは部屋の扉を開けた。そのとたん、鼻をつまみたくなるような悪臭が流れ込んできた。

 ぱっと見、部屋はいつものようにピンク一色で可愛らしい感じだった。でも、学習机の下に男の人がねじ込まれているのに気づいた。首や手足を無理矢理へし折り、まん丸くコンパクトにして、狭い机の下に収納されているようだ。


「この人はだれ?」

「だれって、わたしのお父さんに決まってんじゃん」


 なにを今さら、という風に笑われる。近づいてよく見てみたけど、顔がぼこぼこに変形していたし、腐って変な色になっていたから、本当に花凛ちゃんのお父さんなのか分からなかった。でも、言われてみれば確かにそうかもしれない。

 カーペットに座り、テレビを点けた。平日の昼間だから面白い番組はやっていなくて、すぐに消してしまった。


「ゲームでもしよう、と言いたいところだけど、わたしのニンテンドーswitch壊れちゃったんだよね。せっかく来てもらったのに、つまんなくてごめんね」

「ううん、いいよ……」


 そんなことより、花凛ちゃんのお父さんがどう見ても死んでいるのが気になった。それに、部屋も目を凝らせばあちこち血痕だらけだ。カーペット、壁、カーテン、ベッドの柱、いろんな所にべったり。一応掃除はしたみたいだけど、どうも落ち着かない。


 壊れちゃったswitchというのは、見ての通りって感じで壊れていた。なにか、バットでも振り下ろしたみたいに砕け、中の機器が飛び出てる。


 カーテンが風にふわりと揺れる。ガラスが突き破れているのにも気づいた。花凛ちゃんが集めていたサンリオのぬいぐるみやグッズのほとんどは、綿がはみ出してたり、割れて元の形がわからないのもあった。


 わたしは花凛ちゃんの顔を見つめた。うん? というように、花凛ちゃんはにこにこして首をかしげる。意を決してわたしは口を開く。


「わたしたち、親友だよね?」

「当たり前じゃん! なんで?」

「じゃあ、なにか悩みがあるんだったら、言ってよ。親友なら隠しごとはナシなんだから」


 花凛ちゃんはさっと表情をなくし、それから、徐々に泣き顔になる。ヤシの実を落とすと、わたしの胸に飛び込んできた。「どうしよう。お父さんを殺しちゃったの」と花凛ちゃんは泣きながら言う。そりゃそうだろうな。しょうがない親友だ、と頭を撫でてあげる。


 しばらくして泣き止んだ花凛ちゃんは、なにがあったのかを少しずつ話し始めた。


「わたしのお父さんとお母さん、離婚したって聞いてるんでしょ? でも、本当は違うんだ。お母さんね、急にいなくなっちゃったの。ふつうに暮らしてたのに、突然だよ。たぶんお父さんがずっと働こうとしなかったから、きっとお母さん愛想つかしちゃったのね。それから、興信所? ってところにお願いして調べたら、お母さんが知らない男のひとと街を歩いている写真が送られてきた。それでもお父さんはまだお母さんのこと信じていたけど、どれだけ調べても、お母さんはその男の人と暮らしてるみたいだった。お父さん暗くなっちゃって、趣味の競馬にもいかなくなった。それに、どことなくイライラしているみたいだった。ある日、わたしが間違ってお母さんが大切にしてた水差しを割っちゃったんだけど、お父さんに軽くほっぺた叩かれたの。お父さんから叩かれるの、あれが初めてだった……」


 花凛ちゃんは下を向き、自分の頬をさわった。


「そのときは謝ってくれたけど、少しずつ叩かれる回数が増えてった。わたしが本当にひどいことしたときは叩かれてもおかしくないかもしれないけど、トイレの電気を消し忘れただけでグーでなぐられたときは、お父さん、変になっちゃったのかなって思った。最近になると、ちょっとお母さんのこと喋っただけで怒鳴られたり蹴られたりするようになったの。きっとお母さんのことで傷ついてるのね。『お前はニセモノだ』って言われた。意味わかんなかったけど、たぶん、お母さんのニセモノって意味だったの。わたしはきっとオマケだったのよ。お父さんとお母さんが結婚して、ついでに出来ちゃった、オマケ。お母さんもきっと同じように思ってて、だから簡単にわたしのこと捨てられたんだ……」


 花凛ちゃんはおでこにうっすらと汗をかいていた。部屋中にただよう血の香りも手伝って、湿気がわずらわしい。

 わたしはじっと、花凛ちゃんのピンクのニット帽を見つめた。暑いなら、その帽子脱げばいいのに。

 わたしの心を読んだみたいに花凛ちゃんは頭に手をやった。眉を寄せて、嫌なことを思い出すようにうなる。


「それからわたし、お母さんみたいになろうってがんばった。お料理に挑戦してみたり、洗濯ものきれいにたたんだり、お掃除やったり。でもよけい、お父さんの気にさわったみたい。あれは……痛かったなあ。わたしが二階の廊下で掃除機かけてたら、いきなり、ガーンって殴られたの。なんか固いので。なにかと思ったらニンテンドーswitchだった。お父さんの目もおかしかったし。頭からいっぱい血が出たけど、そんなことより、switchが壊れちゃった方がショックだった。わたしね、せっかくお母さんに買ってもらったのに、って思わず言ったの。そしたらお父さんもっと怒っちゃって、何回も何回も、くらくらして眠くなるまで殴られちゃった」


 花凛ちゃんはニット帽ごしに頭を掻きだした。最初はさするくらいだったけど、だんだん、爪を立ててぼりぼりやるようになった。


「目が覚めたら、二日くらい経ってた。掃除機片手にずっとそこで寝てたみたい。なんだか頭の中がもぞもぞする感じで、それから、形が変になってた。なんかね、頭の横っちょが、でこぼこしてるの。こんなの恥ずかしいし、絶対みんなにばかにされるから、ニット帽被るようになったの。学校に被って行ったら安達先生に怒られちゃったけどね。職員室で帽子取ってみせたら、なにも言われなくなったけど」


 わたしは部屋の隅に置かれたswitchを見た。確かに、あんなのでぶたれたら痛いだろうし、頭もへこんじゃうだろうなと思った。


「それから変なんだよ、わたしの頭。いや形もそうなんだけどね、もっとおかしいのは中身の方。たまに頭がすごく痛くなってきちゃうの。あのね、最初は目の奥がぴくぴくし出すの。瞼が下がってきて、そしたら、あ、来たなって分かるの。なにも考えられなくなるくらい痛いんだ。まるでこう、目の奥で小さい鬼が暴れてるみたい。小鬼がね、わたしの頭の中で包丁を振り回したり、木槌をフルスイングしたり、ジュウって溶ける液体ぶちまけたり、好き放題やるの。むかつくから、頭の穴に指つっこんで追い出してやろうとするんだけど、中はぐちゅぐちゅするだけで全然捕まえらんないの。しかもそんなことしたらよけい痛いだけだし、わたしは仕方なく丸くなって我慢するんだけど、頭痛が起きるごとに、痛いの、抑えらんなくなってきて」


 頭の穴ってなんだろう、という顔をしたら、花凛ちゃんがわたしの手を取った。

 ここだよ、わたしの手を誘導してくる。帽子の上から触れると、たしかに花凛ちゃんの頭には穴みたいのがあった。左のこめかみのちょっと上ぐらい。大きな穴がぽっかりと。もう少し力を込めて押すと、毛糸越しにぬるりとした感覚がした。そしてその部分がじわりと赤く汚れた。

 ぞっとして、わたしは手を離す。


「最初は壁に頭打ちつけたり、髪を掻きむしったりしてたんだけど、あるとき小鬼に言われたの。もっと何か別のもの壊さなきゃ痛いの治らないよって。本当はわたし、そんなことしたくなかったんだけど……これ、本当だよ? でも、痛くて痛くて、気を失いそうで、死にたくなるくらい痛くて。体育のときなんか、仕方なく目の前の鉄棒握ったら、案外柔らかくて。あ、これなら壊せそうって思ったの。両手で引っ張ったら小枝みたいにぽきんってなったの。すごくない? 頭が痛いときだけわたし、すごい力持ちになるみたい」


 言うと、花凛ちゃんはヤシの実を拾い上げた。左手で底を持ち、右手で実の頭を掴む。

 右手に力を込めると、殻はまるで豆腐みたいにちぎれた。ちぎれた部分には花凛ちゃんの五本の指の跡がくっきり残っていた。引きちぎった殻の奥で、美味しそうな果汁が見える。

 ほら、すごいでしょ。花凛ちゃんは瞼や眉間を小刻みに痙攣させながら言う。頭痛がひどくなってきたみたいだ。

 実を傾け、花凛ちゃんは小さな喉を鳴らしながら果汁を飲んだ。


「頭が痛いの、一日に三回くらい来るようになった。もう学校のもの壊したくないから、わたししばらくお家にいるようになったの。お父さんとずっと一緒なのは嫌だったけど、しょうがないでしょ。朝から晩までお父さんにぶたれたけど、でも頭が痛いのに比べればぜんぜんマシで、」


 とつぜん、ヤシの実が床に転がった。中の透明な液体があふれ、カーペットを汚した。

 わたしはびっくりして立ち上がる。花凛ちゃんがうずくまり、頭を抱えてうめき出したのだ。それでも花凛ちゃんは話を止めようとしなかった。


「お父さんに殴られてるあいだ……こんな風に思うようになった。このまま殺してくれって。だって、こんなに痛いのってないよ……。ほんとうにいやになる。死のうなんて今まで思ったこともなかったけど、こんなに痛いの続くんだったら、死んだ方がマシだよ。でも、いつもみたいにお父さんに殴られるだけじゃぜんぜん死ねそうになかったから、ちょっとだけ抵抗してみたの。抵抗したら、お父さんもっと怒って、もっと強く殴ってくれると思ったから。でもお父さんは期待してたよりずっと弱かった。頭の痛みに比べればちっぽけな痛みで、大人のくせに手加減してるんだと思ったから、むかむかして、もっと反抗してやろうと思って、お父さんの腕を掴んだの。びっくりしちゃった。だって大人の腕って……想像よりずっと柔らかくて……簡単にぷちって……夢中になっているうちに、お父さん……うううっ」


 花凛ちゃんは床でのたうち回るようにして頭痛に耐えていた。歯を食いしばり、涎を垂らし、頬を痙攣させながら。

 わたしは花凛ちゃんの頭を抱いた。こんなことをして治るとは思えなかったけど、そうせずにいられなかった。友達が苦しんでいるのに、ぼうっと突っ立っているだけなんて、わたしには出来ない。


「お願い、離れて亜矢ちゃん。痛いの。すっごく、痛いの。死んじゃいたいくらいに。もう何か壊さなきゃおさまらないの。鬼が壊せって、命令するのっ。痛い、痛いよぉっ」


 バチン、という音がした。見ると、わたしの手首がとれかかっていた。断面から骨が突き出ていて、あと皮一枚というところで繋がっている。かなりの量の血が噴きだし天井高く飛び散った。ぼうっとその噴水を眺めていると、花凛ちゃんがくるったような叫び声を上げた。

 お尻を引きずって後ずさる。花凛ちゃんがわたしの頬めがけ、思い切り左手を振った。次の瞬間、視界が横方向に飛んだ。骨がめきめきと音を立てるのが脳みそに響いた。首が三百六十度回転し、わたしの両目はまた花凛ちゃんを向く。


 花凛ちゃんのニット帽の隙間から、奇妙な形をした何かが現れた。それはわたしの知っている生き物じゃなかった。ヘビみたいに細い胴体で、紫色の羽毛に覆われている。そこから毛深い腕が何本も伸び、かさかさと花凛ちゃんの肌の上でうごめいた。小さな頭には目玉が何個もついており、嘴はトロピックバーズみたいに黄色くて大きい。そこだけ南国? それでいて、全身が粘膜みたいなもので湿っていた。

 そいつはニット帽の隙間から抜け出し、花凛ちゃんの顔を何周か這う。やがて頭のてっぺんに登ってわたしを見下ろした。

 なるほど、これが小鬼か、とわたしは思う。なんか思ってたのと違う。想像してたのよりずっときもちわるい見た目。


 もう一度、花凛ちゃんが拳を振り抜いた。

 わたしの頭はちぎれて壁にぶつかった。

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