03:腹切り

 いくつものスポットライトを浴びる。

 あたしは円上の舞台に座らせられ、周囲を取り囲む無数の視線を受けた。青年が階段から上ってくる。あたしの隣に立つと、手にした日本刀を鞘から抜き、頭上高く上段で構えた。


 あたしには、どうしても手にしたいものがある。この命と引き換えにしてでも。


 逆光のせいで上手く周りが見通せないけれど、なるほど、たしかに観客は悪趣味な成金揃いのようだ。

 みんな一様に顔面に深い笑みを刻みつけている。人って笑うと、本当に二ヤッって音がする。頬の裏側と歯茎が引き離される瞬間の、咥内で唾液が弾ける音。数十数百と重なると、はっきりと耳に届くようになる。

 それともあたしの五感が異様に研ぎ澄まされているからかもしれない。目が慣れてくると会場の奥まで見渡せるようになる。いくつもの頭、頭、頭。空調のおかげで寒さは感じないが、こんな大勢の前で裸でいるのはやっぱり恥ずかしい。男たちの視線はどこまでも性的である。高級そうな香水の匂いが余計下品さを煽る。


 艶のある黒服を着た男がやってきて、あたしの膝元に小刀を置いた。「時間をかけて、焦らすようにだ」。その言葉に哀れみはない。むしろおぞましく卑しい者に向けるようだった。

 あたしは深く呼吸をして小刀を手に取る。四方から下衆な歓声があがる。作法なんて知らない。そもそも現代でそんなものは意味を為さない。


 なるべく躊躇せず刃の切っ先をへその上あたりに当てた。焦らせと言われても、悠長にしていれば恐怖心が立ち上り、それこそ失敗する恐れがある。ショーはショーとして成り立たなくなり、最悪死ねずに終わる。右隣に立つ青年が、緊張して生唾を飲むのが分かった。お願い、せめて綺麗にね。

 覚悟を決め、柄を持つ手に力を込めた。ぐ、とお腹に異物がのめり込む感覚がする。あれ、案外痛くないじゃん。ほっとして斜め上を見ると、青年は微動だにしない様子であたしを見下ろしていた。

「浅い」

 言われて手元を見下ろす。小刀は、刀身の半分も潜っていなかった。このまま深く入れていくか、一端引き抜くか迷って、後者を選んだ。

 小刀を抜いた瞬間、血が傷口からどろりと溢れだした。歓声が一気に大きくなる。彼らは思い思いに賞賛をもってあたしを煽るが、ちょっと、それどころじゃなかった。

 痛い。思ったより何倍も。こんなはずじゃないってぐらい。思わず小刀を落とし、両手で傷口ごとお腹を覆う。ううう、と呻きを漏らすと、どこかから罵声が上がった。


 ちゃんとやれ。こんな汚いものにわざわざ高い金払ってるんだ。


 うるさいわよバカ。ちょっと痛がったくらいでなによ。じゃああんたがやってみなさいよ、本当に痛いんだから。とは口が裂けても言えない。黙って下を向いていると、青年が屈み込んであたしの顔を覗き込んでくる。

「がんばれ。もう少しの辛抱だよ」

 そうして小刀を手渡してくる。それから爽やかな笑みを一つ。あんた、よく見たらいい男ねって褒めてあげたかったけど、小刀を持たされた途端、こみ上げてくる感情に押しつぶされた。


 死ぬことは恐くない。それだけがあたしの自慢だった。貧困な家庭に生まれ、容姿に恵まれず、頭も要領も悪い。それでも度胸だけはある。何度だって自傷した経験もある。刻んだ手首の傷を人々に自慢して周り、奇人を繕いキ○ガイと呼ばれるたびに悦に浸る。わざと好きでもない男に執拗につきまとい、殴られたり蹴られたりする。快感さえ覚えた。女なのにSMクラブに通い、困惑する女王様に「めちゃくちゃにいたぶってほしいの」と懇願した。一度、なにかの拍子に六階立てのビルから落ちて死の境をさまよったこともあったけれど、奇跡的に生き残ってしまった。もう死んでも後悔はなかったのに、勿体ない。


 傷にも痛みにも死の恐怖にも慣れている。結構自信あって、だからこの仕事を引き受けた。それがどうしちゃったんだろう。今は死ぬのが恐くて仕方がない。掌からにじんでくる汗のせいで上手く小刀を扱えそうにない。おぼつかない指先が徐々に青白くなっていく。あたしはたまらず青年を見上げ、ゆっくりと首を振った。

「ごめん。やっぱ……」

 無理、と言いかけて口を噤む。恐怖と同時に、責任という名の重しが肩に乗しかかる。この狂った見せものを無事に終わらせる責任があたしにはある。歯を食いしばり、両手で柄を握りしめる。


「あああああっ」


 一度刺したあたり目掛けて刃を突き立てる。今度は、刃の奥の方まで潜った。先ほどとは違った種類の痛みで脳が弾ける。焼けるような痛み。まるでお腹の中にマグマが流れ込んだみたい。気絶しそうになる視界を懸命に立て直し、激痛を通り越して変化してゆく快感に酔う。意識がはっきりしたかと思うと次には歪んで朦朧とする。気持ち悪い、いや、気持ち良いのかも。

 押しやるように左手を押し、刃を横へと滑らせた。これは思いのほか楽に出来た。今どんな風になっているのだろうと自分のお腹を見ると、腹圧のせいで中身が舞台の床に溢れ出ていた。先走った観客の一人が、あたしの新鮮な臓物に液体をぶちまける。その液体にはあたしの幸福が詰まっているような気がした。求められているんだと。それとともに落胆する。なんであたし、処女のまま死んじゃうんだろうって。


「あはっ、はあっ……」


 小刀を引き抜く。太股に血が流れ出す。ライトに照らされ、あたしの一部がきらきらして美しい。下衆の一人があたしの一部に手を伸ばし、慈しむようにそっと撫でた。黒服が彼に注意する。「終わるまでお控えください」。そうだそうだ勝手に触んじゃねーよ。これからが見せ場だってのに。あたしは左手に柄を持ち、右手をお腹に差し入れた。


「んぐ……ぅうううっ」


 背中側の奥まで差し入れると、背骨らしき感触に行き当たる。全部ぶちまける勢いで、中身を引きずりおろした。自分でもびっくりするくらいの量の臓器が舞台に飛び出す。誇らしくなって、これ以上の幸せはないって感じがした。見ろ、あたしの全て。右手を無造作に振り下ろして赤く太い管に次々と穴を開けていく。気づくと失禁していた。大も小も関係なく。腸も見られるよりもずっと、それは恥ずかしいことのような気がした。おかしな話かもしれないけど、だってあたし、女の子だもん。


 そのとき、うなじの辺りでドンと轟音が鳴り響いた。青年が日本刀を振り落とした音だった。しかし刀は首の骨で止まり、上手く切り落とせなかったようだ。ちゃんとやってよイケメンくん。あたしは振り返って彼を睨もうとしたが、目の前が急に瞬き始めたのでびっくりした。赤と黒の閃光だった。ライトの調子が悪いのかしらと思ったがそうじゃないらしい。ああ、もう何も見えなくなったんだ、ってちょっと残念に思う。


 青年が刀を持ち上げると、あたしの頭もそれに合わせて宙ぶらりんになった。ぬるりという感触とともに刃が離れると、ぴゅっ、ぴゅっ、という音に合わせて全身が痙攣した。赤と黒の閃光がやけに濃く、眩しいほどに煌めく。両手がだらりと垂れ、小刀が金属音を立てて転がる。


 さっきまで焼けるような熱さを感じていたのに、こんどは、氷漬けにされたような寒さに襲われた。動かない。指も、肩も、何もかも。めりめりと頭が垂れていく。気づけばあたしは自分のお腹の傷にキスしていた。味覚はまだ残っているみたい。でも血って、こんなに甘かったっけ。どくどくと唇に流れてきて、ぱっくり開いた喉からも吐き出されるもんだから窒息しちゃいそう。ねえ、こんなことってある? 自嘲したかったけどもう声は出ない。足掻いてみても、もう何もかもが遠い。


 目の前が白い。まっさらな砂漠と空にひとりぼっちにされちゃった。

 これがどうやらあたしの新しい世界。

 真っ白な空間を彩ってやるの。とても豊かに。あたし好みに染めてやる。永久の中で。楽しみ。ああ気持ちが良い。きもちいきもちいきもちー!


 そんな風にして死地に立ち、あたしは狂ったつもりでいた。でもこの感情だけはいつまでも乖離してくれない。どうしようもなく、恐い。そのせいで脳はぎりぎりまで正常を保つ。恐怖こそがひとの人格を守る最後の砦なのだと知る。恥ずかしさや痛みより、それはもっと強大で。いや、そんなこと知りたくもないから。お願いだからこのまま気持ち良く死なせて。


 まだかな。人間って意外としぶといのね。もう耐えらんないから。はやく。早くしろよおお。

 こわい。早く。

 こわい。こわいよお。どうしてこんなに痛いの。もう終わったでしょ。


 ああ痺れて。砂漠は寒いの。


 う。うううう、う。死なせてよ。死なせて。ナ。いいい。しし、るしむしししssrrrr

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