02:正夢

 夏の深夜。蛇口から流れ出る水流音を僕は聞いていた。

 布団から身を起こすと、美里がコップに注いだ水を飲んでいた。僕が目覚めたことに気付くと彼女は微笑んでみせる。

「ごめん、起こしちゃったよね」

 僕は首を振る。それより、美里の額に浮かぶ汗の方が気になった。

「どうした? うまく寝付けなかったのか」

「ううん。ちょっと怖い夢を見ちゃって」

 彼女を元気付けようと作った僕の笑みが引き攣る。シャワーを浴びてくると残し居間から消えていく美里の背中を見送ってから、背中から布団に倒れ込む。


 美里との同棲生活はもう四年目を迎えようとしていた。焦りと後悔と迷いを胸に持て余しながらも幸せに、そして現実的な共同生活を歩んだ。現実は虚構と対立し、決して崩れることのないものと信じている。虚構、そして夢。


 暗い部屋で深呼吸し、目を閉じながら、僕は自然と、高校時代のとある女の子のことを思い出していた。


* * *


 夏の学校は湿気がこもり、校内全体が不快指数の記録更新を助長していた。エアコンすら常設されていない当時の教室では、省エネとでもいうように生徒全員が黙りこくっている。

 僕は下敷きを団扇代わりにしながら黒板を睨んでいたが、ときおり教師の目を盗むように、隣の席の女子生徒を観察していた。

 彼女の名前は――忘れてしまったわけではないが、まぁいいだろう。彼女は普段真面目な生徒として認知されており、無論、授業中の居眠りなどとは無縁であった。しかしこの日はどういうわけか、机に突っ伏し静かに寝息を立てていた。

 最後部の席は二つだけで、それが彼女と僕だった。そのため他の生徒が彼女の居眠りに気付く様子はない。教師も暑さのせいで教壇から動こうとしないので、彼女の状態を知ることもなかった。

 彼女の背中は寝息に合わせて上下していた。一見安眠しているように見えたが、首筋にじっとりと浮かぶ脂汗がそれを否定した。髪の間から覗く頬は青ざめている。それで、僕はいつ彼女を保健室に連れていこうか逡巡していたところだった。


 彼女が机から顔を上げたのは、僕が彼女の居眠りに気付いてからほんの十分後のことだった。顔面蒼白とはよく言ったもので、もともと白いその肌はさらに血色を落とし、首もとには微かに鳥肌が立っている。唇を震わせながら、ハンカチでしきりに額の汗を拭っていた。瞳を動かし辺りを見回すと、やがて僕と目が合う。彼女は「平気よ」という風に微笑んだ。僕もその場では一応微笑み返したが、口元に手を当て吐き気をこらえる彼女を放っておけるほど能天気じゃいられなかった。僕は彼女の体調不良を教師に伝える。

「熱中症かしらね」

 教師は目の前の女子生徒に彼女を保健室へ連れていくよう告げた。


 その子が教室に戻ってきたのは終了のHRになってからだった。放課後になって、すっかり回復した彼女から声をかけられた。

「さっきはありがとう」

「いいよ。元気になったみたいでよかった」

 僕は愛想良く対応した。まともに会話したのはこれが初めてだったけれど、いくらか気を許してくれたのか「急いでる? ちょっと聞いてもらいたいことがあるんだけど」と彼女が言った。


 僕たちは駅前のファーストフード店に落ち着いた。三階へ上がり窓際のカウンター席に並んで座る。当たり障りのない世間話を挟んだ後、彼女がさっきのことで再三お礼を述べてくる。

「悪い夢を見ちゃったんだ。それがあまりにリアルだったから、気分が悪くなっちゃって」

 夢の内容を語ろうとする彼女に僕は気を遣って「無理して話さなくていいよ」と言ってみるが、内心、保健室にまで運ばれるような悪い夢とやらに興味を持っていた。彼女は首を振る。「もう平気だから話させて」と。


「私は裸足で、薄暗い森をさまよっていたの」


 たった十分かそこらの夢に、まるで数時間も閉じこめられていたようだったという。どこまでも続く木々の間を、彼女はたった一人で、何かから逃げるように歩き続けていた。整備の行き届いていない森の中、針葉樹林の尖った枝先が、歩くごとに彼女の細いふくらはぎや二の腕を傷つけた。

「何かから追われているみたいだった。ずっと、後ろから気配を感じていたから」

 追ってくる何者かは、明らかに人間ではなかった。溶岩の泡立ちのような低い唸り声が、ひたと背後からついてくる。少しずつ距離を詰められいくのを感じた彼女はやがて駆けだした。恐らく後方二十メートルほど。何者かの吐息が耳元に触れるような錯覚がした。かかる息の形状と角度から、相手が相当な巨体の持ち主であることを知る。


 熊か何かか、と尋ねる僕を、彼女は柔く否定する。あれは熊なんかじゃないと。熊よりもっと大きい、現実にはいない架空の獣。


 木の根に足を取られ、彼女はぬかるんだ地面に倒れ込んだ。その瞬間、後方から影が落ちる。太陽が雲に隠れたのだと思いたかったが、ゆっくりと前方に回り込んでくる巨体がそれを打ちのめす。

 何者かの全身は、赤黒い金属のような皮膚に覆われていた。体高は辺りの針葉樹林顔負けで、どの図鑑を開いたってこれほど巨大な陸上生物はいない。両足を踏みならすと地面がドンと揺れ、そのたびに鉤のように曲がりくねった爪が太い木の根を突き破った。下顎から突き出た牙の間から、湿り気を帯びた息が蒸気のように吐き出される。頭は鋼鉄を思わせる堅牢さで、棘のような角が無数に生えていた。地獄の底から捻り出されたかのような音を喉の奥でごろごろと鳴らし、一分か二分、何者かはじっと彼女を見つめていた。

 彼女は両手をついて起き上がり、踵を返して走り出した。何者かは悠々とその背中を見守るばかりで、しばらく動こうとしなかった。

 その様を振り返りながら、些少の安堵が胸に降りる。あの怪物は、もう私のことを諦めてくれたのかもしれない。だがそいつが動きを見せたのはそれから間もないことだった。

 何者かは体勢を四足歩行へと移行させていた。その瞬間、ぐんと全身が膨れ上がったような印象を受ける。肩回りの筋肉が姿勢に合わせて高ぶっている。

 何者かが走り出した。随分逃げたからもう見えなくなっていたが、大木を跳ね飛ばし、ときにへし折りながら駆けてきているのが轟音で分かった。恐るべきスピードで、奴は彼女との距離を削る。木々の合間からその巨体が姿を現すと、彼女はもう覚悟を決めて目を瞑っていた。

 全身に想像を絶する衝撃が走る。何者かの巨体が彼女に激突したのだ。

 わずか一秒の世界で全身が破壊されていく。内臓は刹那にして破裂し、肋骨が皮膚を破って外へと放り出される。そのまま樹木に押しつけられると、手足が絹糸のように千切れ、左の目玉が風船のごとく弾けてなくなった。濡れ雑巾のように地面に落ちた彼女は、片方の目でかろうじて何者かを見上げる。何者かは感情のない瞳で、ただ彼女を見下ろしていた。


「食べることが目的じゃなかったみたい。ただ殺すためだけに、そいつは私を追っていたの」


 何者かは彼女の死を悟ると、ゆっくりと森の奥へと消えていった。実際まだ意識のあった彼女は、夢が終わるそのときまで、何者かの足跡を見つめていた。


 語り終えると彼女はコーラのストローをくわえた。「まあ、ただの夢なんだけどね」。ぽつりと呟き、また笑ってみせた。


 彼女が自宅のリビングで亡くなったのは、それからほんの二日後のことだった。僕はテレビのニュースでそのことを知る。深夜、夜勤から戻った父親が彼女の不審死を発見したそうだ。リビングに荒らされた様子はなかったが、その遺体状況から見て他殺であることは明白であった。彼女の身体は、まるでダンプカーにでも潰されたように砕け、破裂し、四肢は何か恐るべき力で引き千切られていた。そんな殺し方が果たして人間に成せるものだったのか、警察の捜査や司法解剖では未だ証明されていない。


 * * *


 夏の夜。空気はあの頃のように湿っている。去年美里の実家を訪問し、両親への挨拶を済ませた。仕事の方は、今回の内示で僕の昇進はほぼ確定らしい。明日は不動産屋へ赴き、新居を検討をするつもりだ。少しずつではあるがそれなりに順風満帆で、これが現実であることを僕は素直に嬉しく思う。


 シャワーを浴びて戻ってきた美里は、さっき見た夢の内容を話した。「私は裸足で、薄暗い森をさまよっていたの」。その言葉を耳にしながら、天井を見つめて押し黙る。


 ジューンブライドには遅れたけど、僕たちはもうすぐ式を挙げる。

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