水も滴る部屋12p

 やっとの思いでたどり着くとはこの事か、などと思いながら茅野が、カフェの入り口から店内を待ち合わせの相手を探してキョロキョロと見回していると、化粧をバッチリと決めた若めの女が、明るい茶色に染められた髪をフワリとゆらして、茅野の姿を見つけるなり「有栖川先生、こっちです、こっち。もおーぅ、おそいですよぉー」と口を尖らせた。

 彼女が茅野の待ち合わせ相手である、紺谷利香(コンヤリカ)だ。

 紺谷の言う有栖川先生とは、他ならない茅野の事である。

 茅野は有栖川泪(アリスガワルイ)のペンネームでボーイズラブ、つまりはBL小説を書いていた。

 紺谷は、茅野の担当編集者だ。

 BL小説を書いている事を、茅野は親にも秘密にしていた。

なので、大家とは言え他人である藤宮なんかには、うっかりにでも悟られる訳にはいかなかった。


「紺谷さん、お待たせして本当に申し訳ありませんでした」

 デビューしたばかりで、しかも全然売れていない茅野は、初めての担当編集者である紺谷に頭が上がらない。

 紺谷を待たせる事など、茅野には神をも恐れぬ行為に思えていた。

「ちょ、先生、頭を上げて下さいよぉ。遅れる事、連絡を頂いていたんで、そんなに気にしてないですからぁ。そんな所にいないで早く席にどうぞ」

 カフェの入り口で立ち止まったまま頭を下げている茅野に紺谷がそう言うと、茅野は、ジャズの流れる洒落たカフェの中を、緩んだスニーカーの紐を気にしながら、おずおずと進む。

「素敵なカフェですね。こんな所で私なんかが打ち合わせだなんて、大丈夫でしょうか?」

 落ち着かなそうに座席に腰を下ろした茅野へ、紺谷はメニューを両手で力強く手渡す。

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