四
大晦日。受験シーズンだという配慮が家族側からあったせいか、例年よりも少なめに窓拭きを手伝ったり、家の中の物を動かしたりしては、部屋に戻って課題に取り組むみたいなことをしてるうちに、着々と時間は吸われていき、あっという間に、紅白歌合戦を目の前に家族四人で年越し蕎麦を食べるところまで来ていた。
ちょくちょく教室で話すクラスメートが好きだと言っていたアイドルや歌姫、一昔前に流行ったバンド、演歌歌手をはじめとした大御所なんかが開店扉のように出てきては消えていく様をぼんやりと眺めながら、今年もあと数時間か、と思い、蕎麦をすする。その合間合間に、母さんが揚げてくれたエビやササミ、ピーマンやサツマイモ、シソ、椎茸や舞茸、掻き揚げなどを一緒に食していった。口の中の幸せ度合いも年末らしいものだった。
「なあ、梨乃。今日くらいは飲まないか。ほら、お父さんを喜ばせると思って」
すぐそばでは日本酒のお猪口を勧めようとする父さんの前で、姉ちゃんが、どうしようかなと首を捻っている。その姉ちゃんの横目もまた、ぼんやりとテレビをとらえていた。
「あの調子だと、来年以降は大変かもね」
台所の方で新たに追加される揚げ物を受けとりにいった際、母さんが姉ちゃんと父さんを見ながら楽しげにそんなことを呟く。
「でも、父さんの夢はあくまでも、娘と一緒に酒を飲むなんでしょ。だったらきっと、俺は関係ないよ」
「たしかにそうは言ってたけど、きっとシロ君と一緒に飲めたら嬉しがると思うよ。なんだかんだで、お父さんはシロ君びいきなんだから」
「そうなのかな」
首を捻った。たしかに色んな意味で心配されているのは間違いないけど、そこまで贔屓されているようには思わない。むしろ愛されているという点で言えば、姉ちゃんの方がよっぽど父さんに可愛がられている気がする。
俺の反応に母さんはくすくすと笑い、
「そうなんですよ」
と軽く肩を叩いてみせる。そうなんだ、と釈然としないまま頷いたあと、茄子のてんぷらが乗った皿を受けとりテーブルに戻った。
「おお、ありがとう」
テーブルの上に皿を置くと同時に父さんにお礼を言われる。なんだか、ひどく久しぶりだな、なんて感じつつも、自分の席に腰かけた。隣では根負けしたのか、あるいは元々望んでいたのか、姉ちゃんちょろちょろと日本酒を舐めるように飲んでいる。
「司郎も飲みたいか」
目ざとく尋ねられたのでゆったりと首を横に振った。
「まだ、二十歳じゃないしね」
定型文じみた答え。しかし、父さんはなぜだか笑みを深めたあと、後ろの背後にある食器棚からお猪口を取り出す。
「そうかそうか。飲みたいんだな」
「えっと、父さん。俺の話、聞いてたかな」
「僕の酒が飲めないのかぁ」
絡み酒っぽい台詞。その実、どことなく優しげな声と表情。どうやら、悪意はないらしい。どうしようかと姉ちゃんの方を窺えば、どっちでもいいんじゃない、というような無表情を浮かべている。台所の方に顔を向ければ、母さんは苦笑していたものの、
「いいんじゃないの、今日くらい。無礼講無礼講」
なんて気楽に応じた。こうなるとあとは俺個人の判断となるわけで、
「じゃあ、ちょっとだけもらってもいい」
そうなれば酒を飲むこと自体はやぶさかではない。嫌いではないし、何よりも俺にとっては吉兆に近いといっても言い過ぎではなかった。
「おお、そうこなくっちゃな」
いつになく機嫌がいい父は、既に用意していたらしいお猪口にささっと日本酒を注いでから、俺の手前まで持ってきてくれた。
「ありがとう」
礼を述べてから、酒の入った容器を持ちあげる。途端に薄っすらとした米のような匂いが鼻腔をくすぐった。
「けっこう、いいお酒だから大切に飲むんだぞぉ」
頷いてからまず一口。薄っすらとした辛さとやや重い甘さが舌先に広がる。それでいて飲みやすく、油断するといくらでも入ってきそうだった。
「どうだ、初めてのお酒は」
「うん。おいしい」
そう答えながら、初めてじゃないんだけどね、と心の中でそう付け加える。父は、そうかそうか、と満足げに目を細めてから、酒瓶を持ちあげた。
「それだったら、もっと飲んだらいいよ」
その酒瓶の首を姉ちゃんががっちり掴む。
「どうした、梨乃」
「一応、未成年だから、その辺で」
などと自分もまた未成年な姉が俺のお猪口へと向けられた酒を父さんの方へと押し戻そうとする。
「まあまあ、そう言わずに。みんなでもっと、飲んで気持ち良くなろうじゃないか」
年末で破目が外れているのか、あるいは他の理由からから、頑なに俺らの猪口に酒を追加しようとする父さん。対する姉ちゃんはといえば、そろそろやめておこうよ、と促しながら、
「っていうか、父さん。飲みすぎじゃない」
と尋ねる。父さんは悪びれもせずに、自らの徳利に新たな酒を注ぎ、
「なーに。まだ、ほんの少しだよ、ほんのちょびっと」
空いている方の手の親指と人差し指の間に、ちょっとした隙間を作って見せつけた。
「ほんのちょっとと言いながら、紅白が始まってから二時間くらい、ずっと飲んでる気がするんだけど」
ちょうど、蕎麦と天ぷらを食べに戻ってきた母さんがにっこりと微笑み指摘する。父は不利を悟っているらしい表情をしつつも、
「もう少しだけ。ほら、もう少しだけ」
尚も食い下がる。母は小さく溜め息を吐いてから、
「お医者様にも飲みすぎだって言われてたじゃない。少しは休肝日も設けないと」
心配そうに口にした。それも当然のことで、父の体重は年々微増し続けているうえに、次第に太くなっていく腹回りもまた似たような変遷を辿っている。父は人差し指と人差し指の先端を当てながら、
「年末と三が日くらいはパーッと飲みたいかなって」
こころなしか調子の下がった声で母にお伺いを立てようとした。たしかクリスマスも似たようなことを言ってた気がする。
母は少し考えたあと、苦笑いをしてから、
「わかりました。ただし、三が日が終わったらきっちりと運動をすること。いいですね」
許可を与える。小躍りしそうな勢いで歓びを露にしながら、酒を口につけた父さん。経験則的に、三が日くらいが、今日くらいは、あと三日くらいは、といつも通り伸びるんだろうなと思いつつ、俺もまた残りの酒に口をつけた。その際、姉ちゃんの横顔が目に入る。そちらも残りの酒を舐めている最中で、父さんと母さんに生温かい目を向けつつも、仕方ないなぁ、といった感じで口の端を弛めてもいた。
なんというか、こちらに帰ってきてから、姉の顔には薄っすらとではあるけど感情が出るようになった気がする。ここのところはたまにではあるけど、笑ったりもするようになった。少なくともここ何年かではあまりなかった気がする。
そう言えば、姉ちゃんっていつからあんまり感情を表に出さなくなったんだっけ。ふと、そんな疑問が頭に浮かぶ。昔から感情豊かというほどではなかったものの、笑う時は笑った。それがいつの頃か、今みたいにあまり表には出さなくなった。いつからだっけ。そんな問いかけが頭の中でぐるぐるしだす。その最中、
「随分、いいお酒ね」
あまり飲めないながらもさほど酒が嫌いではない母さんが、猪口を傾けてから父さんに尋ねている声を、耳がぼんやりととらえた。背景では紅白の司会たちが次に歌うバンドのメンバーになにやら質問を飛ばしている。
「そうだろ、そうだろ。沼田さんのところが、とっておきだっていって渡してくれたんだよ。いやいや、ここ四年間くらい世話になりっぱなしだね」
聞き覚えのある声で我に帰る。同時に姉ちゃんの目が大きく泳いだ。
「なるほど、どおりで。お父さんがおいしいお酒が飲めるのも、リーちゃんやシロ君のおかげかもね」
母さんが微笑みながら、俺らの方を目をやる。その時には姉ちゃんの表情は鉄面皮に覆われていた。
「そんなことないでしょ」
にべのない声。けど、父さんが得意げな顔をして、それがそうでもないんだよと言う。
「少なくとも、沼田さんの家ではお前たちの評判は悪くないみたいだぞ。ほら、お前たちも昔、沼田さんの家に遊びに行ったりしてたんだろう。その時から沼田さんも奥さんも、礼儀正しくて楽しい子たちだって思ってるらしくてな。奥さんなんか冗談めかして、梨乃を嫁に欲しいとか言ったりな」
もちろん父さんは、うちの娘はやれん、と思ったけど、さすがに表立っていうのも憚られて、笑ってごまかしたんだけどな。そんなことを楽しげに語る父さんの前で、姉ちゃんの顔は氷ついていきゆっくりと顔を伏せながら猪口に唇をつけている。表情は窺えない。
「お世辞もあったかもしれないが、ああも表立って娘息子を誉められると嬉しいもんだな。僕も鼻が高いよ」
高笑いしながら、ぐいっと日本酒を呷る父さん。その様子を苦笑いしながら見守る母さん。なにかをごまかすようにして顔を伏せて酒を飲む姉ちゃん。それらを見守りつつ、冷え気味の掻き揚げを齧る。テレビからはアコースティックギターとともに男性ロックバンドのボーカルの癖の強い声が響いていた。
一時間ほどあと、俺は姉ちゃんと一緒に外を歩いている。呼び出しがあったからだ。
電話が来た時の姉ちゃんは不景気な顔をしている真っ只中だったから、気を逸らすには渡りに船だと思った一方、夜遅く、しかも受験生である俺がこれ以上、自由に振る舞うのは許されないのではないのかと一縷の不安があった。おまけに少しではあるものの飲酒もしていたので、両親的には家にとどめておきたいと思うだろうというのは予測するに難くはなかった。
けれど、蓋を開けてみれば母さんはもちろん、一番の懸念材料だった父さんからも許可が下りた。
「美亜ちゃんから、それもお参りの誘いなんだろう。だったら、必勝祈願をするのにちょうどいいじゃないか」
むしろ気を良くした感じで送り出される。ついこの前までこちらの一挙一動に神経を尖らせていた姿はどこに行ったのだろう、と不思議に思いつつも、いまいち調子がのらなそうな姉ちゃんを引っ張るようにして外に出て、今にいたる。
神社までの道は酷く短い。というよりも、今住んでいるマンションのすぐ前に山の上がそのまま神社なので、さほど移動に時間を費やさないといった方が良かった。むしろ、美亜姉だけが少し離れたところに住んでいるため、同じような時刻に自宅から出発したとなれば必然的にこっちが先に着く。この近さもまた、父さんと母さんが俺たちの神社行きを了承した大きな要因かもしれない。
隣を歩く姉ちゃんは口元を白いマフラーで覆うようにしながらどことなく俯き気味でいる。このまま神社に行ってもおそらく気は晴れなさそうだった。
「ちょっと、時間を潰していかない」
指差したのは煉瓦状のタイルで覆われた縦長のマンション。その一階部分には空きテナントと自販機がある。姉ちゃんは心ここにあらずといった感じで頷いたあと、早足で俺が示した方へと向かったので、後を追いつつ、
「やっぱり、沼田先輩となんかあったの」
直接切り出す。姉ちゃんは忌々しげな視線をこちらに送りながら、
「それを、司郎に話す必要があるわけ」
ほとんど答えと言っても差しつかえない応じ方をする。俺は、ないね、と姉ちゃんの答えを肯定したあと、
「必要はないけど、話すと少しは姉ちゃんの心がすっとするんじゃないかな」
そんな風に誘いかけた。姉ちゃんは目の前の自販機から手早くお汁粉を買いながら、
「気が楽になりたいわけじゃないし」
とどことなく苦しげに口にする。俺は姉ちゃんの後ろに並んで、適当なホットコーヒーを見繕っている最中に、
「じゃあ、俺の自己満足ってことで。今の姉ちゃんを放っておけないしね」
なんて言ってみせた。少々気障だったかもしれない、と恥ずかしくなりつつも、姉ちゃんが自販機の前からどくのを見て前に出る。
「この前も言ったかもしれないけど、私だけの話じゃないし」
「じゃあ、話せる範囲でかつ仮の話ってことにしよう。それでも気が咎めるなら、俺のことは人間のかたちをした棒切れだとでも思ってくれればいいよ」
うるさくなりすぎないように、俺の意思を伝えようとした。笑わない姉ちゃんは許容できるけど、悲しんだり苦しんだりする姉ちゃんは見ているのが辛い。うん、やっぱり自己満足だ。
ボタンを押す。ガコンという音を聞くのと同時に、屈みこんで取り出し口からブラックコーヒーを取りだした。ノリで選んだけど、実のところ甘くないのに加えて人工的な味わいなためそれほど好きではない。
姉ちゃんは少しの間、何もいわずにお汁粉を飲んでから、
「司郎は物好きだね」
つまらなそうにそんなことを言う。
「そうかもね」
応じながら、プルタブを引き上げ缶に口をつける。やはり、ただただ苦いだけなうえに缶コーヒーらしい人工っぽさが混ざりこんでどうにも気に食わない。
「実のところ、今回の件において私自身は辛い立場ってわけじゃない」
そんな風に切り出した姉ちゃんの方に視線を向ける。夜闇で見えにくくなってはいるものの、その目はいつになく寂しげだった。
「簡単に言うと、私の友達が沼田を好きになったんだよ」
この時点で、既に話の八割方は予想できている。とはいえ、話の流れを予想できていても、その中に流れる感情は細々とではあっても異なったものに違いない。俺が聞いていることを伝えるべく相槌を打つと、姉ちゃんは続きを語りはじめる。
「その友達は、沼田とご飯を食べに行ったり、遊びに行ったりを繰り返して少しずつではあるけど、距離を縮めていった。それでその友達は自然とちょうどいい区切りじゃないかって、判断したみたいで学祭で告白するっていう話になった」
そこまで姉ちゃんは一度深呼吸をしてから、顔をあげた。
「告白の少し前に、その友達に、いけそうかな、って聞かれたんだけど、私は、どうだろう、と曖昧な返事をしてから、もう少し様子を見てみたら、なんて消極的なことを言った。正直なところその時点で友達の告白が成功する確率は低いと思ってたけど、色々な理由で言い辛かった」
その理由には、俺にも心当たりがあった。というよりも、今回の件の確信はその部分に違いない。話はまだまだ続く。
「そんな私の静止とは対照的に、その娘は今言わないとこのままずるずるいっちゃいそうだから、って言って、結局、告白を決意した。それで、学祭が終わったあとに実行して、振られた」
言い捨てた姉ちゃんの横顔に月明かりがあたり、疲れが露になった。
「だから、あの学祭が終わった日の私は逃げ出してきたんだ。司郎も知っての通り、そういうのだけは得意だから」
皮肉気に付け加えたあと、お汁粉に口をつける。
「なんで、姉ちゃんが逃げ出さなきゃいけないわけ。その人の告白が失敗するってわかってて止められなかったから」
おおよその答えは知っていたものの、わからない振りを装って問いかけた。姉ちゃんは再び顔を伏せたあと、恨めしげにこちらを見返す。
「わかってて聞いてるでしょ」
「うん。だから、確認みたいなもの」
趣味が悪かったかな。言い足した言葉を吟味し、その通りだろう、と自省している間、姉ちゃんは、正直言うのもしんどいんだけど、と目を閉じ、
「私は沼田が好きな相手を知ってたから」
ほぼほぼ予想通りの答えを口にする。その相手は、とまで聞くほど野暮ではないし、というよりも聞きたくなかったので、そっか、と応じた。
「それで色々と気まずくなって、ずっと家から通っているんだ」
俺の問いかけに頷く姉ちゃん。正直なところ、家から通おうと下宿から通おうと、大学に通い続けている以上は接点自体は存在しているのだからあまり変わりない気がしたけど、そこら辺は心理的な距離感とか少しでも大学にいる時間を減らしたいとかの気持ちがあるのかもしれない。
「それで実家にい続けて、少しは大学の方でも過ごしやすくなったの」
「そうでもない、かな。二人とも、たまに会った時は表面上変わらないよう振る舞ってくれる。けど、特に振られた娘は空元気な感じで見ていられなくって。だから、必要な時以外はペンクラブにも行かなくなった」
逃げ去る女。そんな言葉が頭に浮かぶ。とはいえ、俺自身もまた人間関係については人のことが言えない。むしろ、表面的にではあっても今まで通り会話ができている分、姉ちゃんの方が幾分かましな気がした。
黙りこんだまま静かにお汁粉を飲む姉ちゃんの方を眺める。それぞれの好悪がぶつかった結果として、人間関係にひずみのようなものがあらわれたというだけのよくある話だ。そして、ここでできることというのも少ない。今回の件で自分とかかわりのある人間が半数以上を占めていても、今のところ俺は姉ちゃんのいるペンクラブにとっての部外者でしかなかった。物理的にも立場的にも距離があり過ぎるうえに、あと一月か二月はひたすら時間もない。それでも、できることはしておきたい。
「姉ちゃんは、沼田先輩とその女の先輩との関係を、どうしたいの」
素朴な問いかけ。とにもかくにもまず、姉ちゃんの望みを聞かなくてはならない。
「どう、とかはないかも。表立っては仲が悪くなったっていうわけでもないし」
ただ。どことなく物足りなげに付け加えてから、空を仰いだ。その視線の先を追えば、まばらに星の浮かぶ夜空がある。
「いつかは、もう少し普通に話せるようになるといいかなって思ってるかも」
曖昧な物言い。俺は、いつかでいいのと再度追求すると、姉ちゃんはゆっくりと頷く。
「無理やりどうこうするよりは、少しずつがいいと思う」
俯いている顔を屈みながら覗きこむ。凝り固まった無表情。そこに滲む薄っすらとした寂しさ。それを見てとりつつも、
「わかった。ただ、なにかあったら俺にも言って欲しいな」
今のところは気付かないふりをすることにした。姉ちゃんは、小さく頷いてみせてから、お汁粉の缶をあおる。俺もまた、残っていたブラックコーヒーを一気に飲み下した。その際も、冷たい空気の幕に遮られた星空が目の端にちらつく。
温い、というよりもほぼほぼ冷たくなりかけていたコーヒーを飲み終え、顔を下げると、ちょうど姉ちゃんも缶を空にしたばかりだったのか、上手い具合に目が合う。そろそろ、行こうか。そう口にしようとした。
「こんなところで二人でデート。あたしも混ぜて欲しかったなぁ」
思考を遮るような声に振り向けば、黒いロングコートに身を包んだ美亜姉の姿がある。
「ここは待ち合わせ場所じゃなかったと思うんだけど」
自販機横の網目状のゴミ箱に缶を放り込みながら尋ねる姉ちゃんに、美亜姉は、それがさぁ、と手を縦に軽く揺すりながら、
「ちょっと早く来過ぎてぶらついてたら、なんか二人が意味深に逢引してるじゃん。だから、こっそり近付こうと思ったんだけど、ちょうど話が終わっちゃってね」
言ってから、もっと早く来ればよかったね、と一人頷いてみせる。姉ちゃんはどことなく呆れたような目をしていたけど、すぐさま息を吐き出した。
「まあまあ、とにかく全員揃ったみたいだし。ちょうどいいでしょ」
片や美亜姉の方は心底、ご満悦みたいで俺の両の手を暗い色合いの手袋越しに握りしめる。ポケットに突っこんでいたのか、けっこうな温かさに、思わず頬が弛んだ。
「そうだね、ちょうどいい」
姉ちゃんも納得したのか、そんな風に追随する。でしょでしょ、と喜んだ美亜姉は俺の方を強く見つめたあと、姉ちゃんの方へも同じ視線を向けた。
「今年は何かと忙しかったから無理かもしれないって思ってたけど、年の瀬に二人と会えてすっごく嬉しい」
幼なじみの衒いのない笑顔。それが心からのものだとわかっているから、俺の心もまた温かくなる。
「ねえ、二人とも。私に隠してることがあるでしょ」
無機質な姉ちゃん声音。不思議と優しげな響きがした。
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参堂下の階段前は人波でごった返している。年末を除けば人が集まるのなんて、せいぜい時折ある餅撒きくらいだろう。そう言えば、昔は嬉々として参加していたあの催しからも足は遠のいた。いつからだろうか。
栓のない妄想が頭を過ぎっている最中、俺の左腕は姉ちゃんに、右腕は美亜姉に抱きこまれている。
「毎年のことだけど人がいっぱいいるよね。それだけでなんか気分があがるっていうか」
「そんなものかな。私は人酔いしそうだから、今年だけで勘弁だけど」
「そんなこと言わずに次の年も、その次の年ももみんなで一緒に来ようよ。なんなら、他の人も連れてさ」
「気が向かないけど、考えてはおく」
実に楽しそうな美亜姉に、淡々と応じる姉ちゃん。いつも通りに見える。実際にいつも通りなのかもしれないけど、ついぞ先程にかわされた会話からは信じられない。
人波に飲まれる。思考が沈んでいく。そうするにつれて、俺と美亜姉がおおまかな事情を口にした瞬間のことが何度も頭にチラついた。実際についさっきなのだからおかしくはないのだけど、すぐそばにいつも通りのようなものがあるためどことなく疑いたくなる。
隠していることがあるでしょ。そう尋ねられた俺はすぐさまごまかそうとした。後ろめたかったのだろう。けど、いつになく柔和な表情をした姉ちゃんは、さっき話を聞いてもらったしね、なんてぶっきらぼうな囁きのあと、今度は私の番、なんて言ってみせた。その瞬間、口をこじ開けられずにはいられないだろう、という予感が強まった。
それに対して美亜姉の方は、勘違いじゃないの、と余裕たっぷりな調子で肩を竦めて、否定してみせた。けど、姉ちゃんは同い年の幼なじみの反応も予測していたみたいに歩み寄ると何かを囁いた。途端に美亜姉の顔はみるみるうちに青ざめたかと思うと、すぐさまうなだれてしまう。いったい、なにを言ったんだろうと困惑している俺の前で、姉ちゃんは再びこっちに振り向いた。
とりあえず、話して。その端的な一言で、とりあえず何かたしからしいことを口にしなくてはならないのだろう、という覚悟だけを決めた。
結論から言えば、ごまかしの余地などなく、俺は美亜姉に姉ちゃんとの関係がばれていたこと、その際美亜姉から持ちかけられたお付き合いの話、と了承した旨などを洗いざらい吐かされた。
一方の美亜姉は青ざめた顔色を幾分か戻すと悪びれもせず、むしろ誇らしげに自らの所業を語った。自分が脅した。大切なものを手に入れられてこの上なく幸せだった。梨乃には悪いと思うけど、後悔はない。そんな風に一通り言いたいことを口にし終えると、姉ちゃんを挑発的に睨みつけてみせる。
おおまかな事情があっさりと白日の下に晒されたあと、俺は来る時が来てしまったかと姉ちゃんの判断を仰いだ。けど姉ちゃんは、
「司郎、足元」
姉ちゃんの声で我に帰り、視線を下げると階段途中で足が引っかかりそうになっているのが見える。
「ありがとう」
「どういたしまして」
低い声。いつも通りの声音。そのいつも通り過ぎる声に、俺はひどく安心するのと同時に、勝手ながら小さな失望を覚えてもいた。
「ほらほら、きりきり歩く歩く。後ろもつっかえてるんだからさ」
右側から美亜姉の急ぐようにという声。たしかに比較的ゆったりと移動しているものの軽い押し競饅頭みたいな人の塊の中で小石みたいに動かずにいればそれはそれで迷惑だろう。俺は頷きながら足を速めようとした。
「焦ると転ぶから、ゆっくりでいいよ」
今度は左側から逆の意見。姉ちゃんのしっかりとした声に、思わず頷いてしまう。
「いや、もう一度、注意されたんだから転ばないでしょ。だから、早くでいいよ」
「今日は色々あって司郎は足がふらつき気味なんだから、歩くくらいでちょうどいい。だからゆっくり」
直後に、俺の前の空間を通るようにして姉ちゃんと美亜姉の目線がかわされる。
「梨乃は過保護だねぇ。司郎ももう大きくなったんだからしっかりしてるところ見せてくれるでしょ」
「大人でも子供でも、将棋倒しなんてことになったら、洒落にならないでしょ」
挑むような眼差しに、それを受ける無感動な目。喧嘩をしているようでもあれば、楽しんでいるようでもあり、ただただ間を埋めるためだけに適当なことを言ってるだけのようにも聞こえる。そして、その間も俺たち三人の歩は着実に境内までの道を進んでいっていた。そのなんでもなさ、に心を掻き乱れているような気がしてならない。
そっか。俺と美亜姉の告白を聞き終えたあとの姉ちゃんは静かにそう告げたあと、薄く笑ってみせて、いいんじゃないかな、なんて口にしてみせた。
なにを言ってるんだ、この人は。俺の心がざわめき、美亜姉が目を丸くしている間、姉ちゃんはキョトンとした様子で、なにか驚くことでもある、と尋ね返してきた。
思わず、ちゃんと俺らの話を聞いていたのか、と言うと、姉ちゃんは、うん、とあっさり頷いてみせる。
だったら、なんでそんなに平然としていられるの。既に取り繕おうなんて意識もなくなっていて、そう告げると、姉ちゃんは、首を傾げ、逆に問題はあるの、と呟いた。少なくとも私と司郎の間で、そうしちゃいけない、なんて取り決めはかわされなかったんだから、何も言うことはないよ。
平然とした口ぶりに乗せられた姉ちゃんの言の葉。なんとも思っていない、という意思を表に出してきた。
あたしが言えることじゃないけど、梨乃は本当にそれでいいわけ。
この段に及んで美亜姉もまた神妙な顔で同じようなことを聞いたけど、姉ちゃんの表情に特に変わりはなく、
変な関係なんて今更だしね。一つや二つ、変なことが増えたところでたいしたことじゃないでしょ。
しれっとそんなことを言ってみせた。それを聞いた美亜姉は眉に薄っすらと皺を寄せたまま目を瞑っていたけど、瞼を開いた時には霧が晴れたみたいなすっきりとした表情をしていた。
わかった。梨乃がそれでいいんなら、あたしは好きにさせてもらうよ。
新たな決意を表明したあと、美亜姉は自信が漲った目をこっちに向けた。
それじゃあ、許しも出たことだし。これからもよろしくね、司郎。
幼なじみの声に、俺は曖昧に頷いたあと、ほっとしつつも腑に落ちなさ、というか据わりの悪さみたいなものを感じざるを得なかった。その際、横目で姉ちゃんの方を窺えばこちらもまた普段通りの無表情のまま、自らの手袋に息を吹きかけている。そのガラス玉みたいな目は合っているはずなのにもかかわらず、俺のことなど意に介していないように見えた。
こんなことがあったあと、何事もなかったみたいに三人でお参りに来ている。正直、まだまだ頭の中はぐちゃぐちゃだったけど、年上二人は少なくとも表面上はいつも通りを保っていた。もしも、外面が心に直接繋がるとすれば、切り替えられていないのは俺一人になるのだろう。
手水場で手洗い。その際の冷たさで目が冴える。ただ、それは好都合とも不都合ともとれる現実が夢でないことをあらためて実感することでもあった。既に先に手洗いを済ませて待っていてくれた二人と再び合流し、またもや長い長い列に加わった。
「いやぁ、今年も濃い一年だったなあ。色々疲れることもあったけど、楽しく終われそうだよ。梨乃はどう」
「ノーコメント」
「まあまあ、そう言わずにさ。そこのところをお姉さんに聞かせてくれると嬉しいんだけどな」
「同い年でお姉さんもなにもないと思うんだけど」
「いやいや。そこは心理的に。この三人の中だったら長女ポジションでしょ、あたし」
「誕生日で見ても、私の方が生まれてくるのが早かったんだけど」
「だから、心理的に。少なくともあたしは梨乃も司郎も妹と弟みたいに思ってるよ」
「勝手に妹にされても困るんだけど」
毒にも薬にもならない会話。普段であれば、加わっていくところだけど、今、この瞬間はその気力も湧きあがらない。
「司郎は今年一年、どうだった」
そんな俺を見かねたのか。あるいはただ単に会話の流れからか、美亜姉が話を振ってきた。今年一年。人波に巻き込まれ、何歩分か進む間、考えるものの先程の幼なじみと同様に色々あり過ぎてなんとも言い表しにくい。
「今は振り返る余裕はない、かな」
結局、お茶を濁す答えを口にすることになった。途端につまらなさそうに唇を尖らせる美亜姉。
「こんなところで格好つけないでよ。っていうか、これじゃ、あたしだけ言ってて不公平な気がするんだけど」
「美亜が自分で勝手に言ったんでしょ」
姉ちゃんの指摘に頬を膨らます幼なじみ。そんな二人の間で視線を巡らしながら、頭の中のぐちゃぐちゃが広がっていくのを感じた。その中心にあるのは、姉ちゃんの平然とした表情と、いいんじゃないかな、の一言。ただただ、そればかりは引っかかっていた。
誠に勝手ながら、俺は美亜姉のことが姉ちゃんに露見すれば色々なことが終わると思い込んでいた。とりわけ、なんらかのかたちでの姉ちゃんから裁かれるんだろうし、そうされなければならない、と決め付けていた節がある。ところが蓋を開けてみれば、表立っては、秘密の大半がつまびらかになったのを除けば、四月からの状況に変化がないことが示された。あまりにも呆気なく、今が続くことが決まった。
正直なところ、もっとも都合のいい収まり方ではある。倫理だとか、そもそも長く続くのだろうか、という点に目を瞑れば最上の結末といえなくもない。けれど、その結末が齎されるにいたったのは、姉ちゃんが文句の一つも言わずにすべてを受けいれたからに他ならなかった。
そして個人的な感情として、俺は姉ちゃんに、いいえ、を突きつけられたかった、のだと思う。密かに裏切りを続けていたことにたいして、怒りや悲しみを叩きつけて欲しかったのだと。けれど、蓋を開けてみれば姉ちゃんは全てを受けいれたうえ、表面上は、俺の美亜姉との付き合いを裏切りとすら受けとらなかった。
たしかに姉ちゃんとの口約束の類を交わしたことはない。それでも多少なりとも情を交し合っていたのはたしかなのだから、せめて、俺の他者との付き合いを裏切りととって欲しかった。
もしも、ありのまま言葉通り俺と美亜姉の付き合いがたいしたことではないというのであれば。近年の姉ちゃんとの付き合い自体に霞がかかっていくような、そんな気がした。
「ほら、司郎。もうすぐだよ」
幼なじみの声に顔をあげれば、本堂が間近に迫っている。俺は、そうだね、と応じたあと、姉ちゃんの横顔を見た。やや曇り気味の眼鏡越しの目は、ただただお堂の方を見ていて、何も答えてはくれない。何かを引き出そうと喉の奥から声を出そうとしても、一向に発せられなかった。そうこうしているうちに、列は進んでいく。
「お参りが終わったら甘酒でも飲もうか」
無邪気な幼なじみの声。静かに頷く姉。そうだね、と答える俺。両腕越しに二人の熱を感じながらも、体の芯の方から冷たさが競りあがってくる気がした。
夜の想い ムラサキハルカ @harukamurasaki
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